まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

阪急3000系が引退

昭和39年から43年にかけて製造され、56年の長きに渡ってに活躍した阪急3000系のうち最後まで残っていた3054Fが本日、西宮北口から正雀まで廃車回送されました。

時期が時期だけにさよなら運転も行われず、ひっそりとした最後になりましたが、阪急今津線沿線で育った自分にとっては特に思い出深い形式でした。せっかくの機会なので撮りためた写真を振り返っていきましょう。

f:id:Sakasegawa3019:20200507175655j:plain

トップナンバー3050Fと最終増備車3082F

私が物心ついたころ、今津線の主力となっていたのは3000系と3100系で、原型を留めていた表示幕未設置車(通称看板車)と上写真のような表示幕設置改造車が入り乱れていました。後に貴重になる看板車も当時はそれほど珍しい存在ではなく、次に来るのがどっちのタイプなのか子供心に楽しみにしていたのを覚えています。

f:id:Sakasegawa3019:20200507180122j:plain

今津線最後の看板車3058F

私がそれらの車両たちを撮るようになったのは今津線で塾に通うようになった小6の時でした。当時、既に今津線の看板車は9000系投入の玉突きで神戸線宝塚線から転属してきた方向幕車に淘汰されて3058F一本のみが残っていました。その年に撮影された映画「阪急電車」の撮影には主にこの編成が使われたようです。よく遭遇する編成だけあってお気に入りの編成でしたが、この年の9月23日に廃車回送されています。

f:id:Sakasegawa3019:20200507181409j:plain

今津線時代の3050F

3058F亡き後、今津線で活躍していた3000系は3050F・3056F・3076F・3078F・3082Fの4本でした。このうち3050Fはトップナンバー3000を編成中に含んでいましたが、運転台を撤去されて中間車となっていたので地味な存在でした。当時はまだ伊丹線箕面線に看板車が残っており、廃車もそちらが優先されていたためこれらの編成についてはいつでも撮れる日常の存在としてしか認識していませんでした。

f:id:Sakasegawa3019:20200507182150j:plain

伊丹線転属後の3054F

中学に入り、神戸線で通学するようになると、3054Fを追いかけるようになりました。3054Fは神戸線に最後まで残っていた3000系で、一本のみのレアな存在だったというのが撮影欲をそそったのでしょうが、今見返してみるとひどい写真ばかりで載せるに堪えないので、伊丹線転属後の写真を載せておきます。3054Fは平成25年1月に4連に減車されて伊丹線に転属、3159Fを置き換えました。当時はまさかこの編成が3000系の56年の歴史の最後を飾ることになるとは思いもしませんでした。

f:id:Sakasegawa3019:20200507185723j:plain

宝塚線時代の3062F

神戸線から3000系が居なくなっても宝塚線にはまだ3062F・3064F・3066Fの4本が8連のまま残っていました。神戸線とは違いスカートが付いているのが特徴でしたが、支線への転属時に取り外されてしまったのが残念です。

f:id:Sakasegawa3019:20200507190343j:plain

箕面線で活躍していた3081F

箕面線では元々3100系看板車が活躍していましたが、平成23年から24年にかけて伊丹線の車両と取り替えられ、私が初めて撮りに行った平成24年5月には看板車の3080F・3081F、そして方向幕車の3074Fが活躍していました。3081Fは宝塚線から転属してきた3060Fに置き換えられて8月28日に廃車回送となったので見たのは一回きりでした。

f:id:Sakasegawa3019:20200507191313j:plain

正雀で廃車を待つ3080F

3080Fも宝塚線から転属してきた3066Fに置き換えられて平成25年6月3日に廃車回送、これを以て箕面線からは看板車が消滅しました。改めて写真を見返してみると、箕面線の写真が驚くほど少ないのですが、これは定期の範囲外で足を運ぶことが少なかったからでしょう。

f:id:Sakasegawa3019:20200507191547j:plain

箕面線で活躍していた3074F

看板車消滅後の箕面線では3060F・3066F・3074Fの3本が活躍していました。このうち3074F以外の2本は全くと言っていいほど写真がないのですが、たとえ定期の範囲外であってもこまめに撮っておけばよかったと後悔することしきりです。箕面線の3000系は平成28年7月に8040系と5100系に置き換えられる形で相次いで廃車、わずか3年間の短い活躍でした。看板車の例から考えて淘汰も今津線の方が先だろうと油断していたせいもありますが、結局ほとんど撮ることはありませんでした。

f:id:Sakasegawa3019:20200507192551j:plain

伊丹線最後の看板車3077F

最後まで看板車が残っていたのは伊丹線で、3054Fの転属後は3160Fと3077Fの2本が残っていました。3160Fは宝塚線から転属してきた3062Fに置き換えられて平成26年2月5日に廃車。最後まで残った3077Fは塚口方先頭車の3077のみが3000系で、中間車は3100系と2071系、伊丹方先頭車は3100系トップナンバーという寄せ集め編成でした。3077Fは平成26年2月24日に廃車回送、この編成を最後に原型を留める看板車は消滅となりました。

f:id:Sakasegawa3019:20200507193853j:plain

伊丹線に転属した3050F

3077Fを置き換えたのは平成26年1月に今津線から転属してきた3050Fでした。今津線の編成についてはてっきりここを終の棲家とするものとばかり思っていたのでこれは少々意外でした。6連から4連に組み替えられ、中間に組み込まれていたトップナンバー3000などは廃車、3078Fが今津線転属のため6連化されるときに抜き取られて以来3年間休車となっていた3558が組み込まれました。3050Fは平成30年1月24日に廃車回送されるまで伊丹線において4年間活躍しました。

f:id:Sakasegawa3019:20200507194933j:plain

宝塚線最後の3000系となった3064F

看板車の淘汰が終わると、早くも方向幕車の淘汰が始まりました。先陣を切って平成26年6月26日に廃車回送されたのは宝塚線に最後まで残っていた3064Fでした。2071系の運転台撤去車2両を含んでいたこともあって個人的にはお気に入りの編成で機会を見つけてはよく撮っていました。この編成の廃車を以て8連は消滅、急行灯を点けて颯爽と走る姿も過去のものとなりました。

f:id:Sakasegawa3019:20200507201032j:plain

今津線の方向幕車で初の廃車となった3076F

8月21日には今津線の3076Fが廃車回送今津線の方向幕車で初の廃車となりましたが、これ以降3000系の廃車は一旦ストップし、小康状態が続くこととなります。3076Fは編成中の本来なら3077が組成されるべきところに3100系の3151を組み込んだ風変わりな編成でした。今津線に転属してきたのは平成11年で、当時では結構な古株でした。

f:id:Sakasegawa3019:20200507202409j:plain

今津線で活躍していた3078F

平成28年になると今津線にも5000系が転属してくるようになり、3000系列の廃車が再開されますが、まず廃車になったのは3154Fと3152Fで、3100系が3000系よりも一足先に今津線から消滅しました。今津線3本目の5000系となる5006Fの入線後、平成29年4月24日の運用を最後に3078Fが引退、5月25日に廃車回送されました。3078Fが今津線に転属してきたのは平成23年4月で、3076Fや3100系に比べると今津線での活躍は短かったと感じますが、それでも通学でよくお世話になったので印象に残る編成でした。

f:id:Sakasegawa3019:20200507203238j:plain

最終増備編成だった3082F

今津線5本目の5000系となる5012Fの入線後、平成29年10月5日には3082Fが廃車回送されました。3082Fは昭和42年8月に製造された編成単位では最後の増備車で、リニューアルの有無があるとはいえ置き換えとなる5002F(昭和43年2月製造)とは一年も車齢が違いませんでした。今津線への入線は3078Fと同じく平成23年4月で、何度となく乗って撮った編成でした。

f:id:Sakasegawa3019:20200507181250j:plain

今津線で最後まで残った3056F

今津線で最後まで残った3056Fは、5008Fと置き換わる形で平成30年4月11日に廃車回送今津線における3000系の長い歴史に終止符が打たれましたが、私はこの直前に進学のため宝塚を離れており、最後を見届けることは叶いませんでした。3056Fは平成20年2月に今津線に転属、運転台撤去車を組み込んでいたので個人的には好きな編成でした。

f:id:Sakasegawa3019:20200507210228j:plain

伊丹線で活躍していた3052F

今津線での淘汰が済むと今度は伊丹線の車両の番です。平成30年1月24日には3050Fが、7月20日には3052Fが廃車回送されました。この編成については看板車のついでに撮るという感じで印象が薄かったです。写真もどういうわけか雨の日のものしかありませんが、まだ見るに堪える写真なだけマシでしょう。平成24年3月に伊丹線に転属した編成で、昭和44年に一両だけ製造された3100系の最終増備車3651を中間に組み込んでいました。

f:id:Sakasegawa3019:20200507210759j:plain

3062F

平成31年2月27日には3062Fが廃車回送され、3000系は残すところあと一本となりました。平成26年3月に伊丹線に転属した編成で、つい最近伊丹線入りしたばかりのような印象でしたが、それでも5年弱は活躍していました。宝塚線時代のスカートをつけて8連で走っていた頃の印象の方が個人的には強いです。

 

そして一本のみとなった最後の3000系である3054Fも令和2年5月7日に廃車回送ヘッドマークまで準備された2300系や3100系と比べても寂しい最後でしたが、56年もの長きに渡って活躍したわけですから十分天寿を全うしたと言えるでしょう。子どもの頃の私にとって何よりも身近な存在だった3000系ありがとう、そしてお疲れさまでした。

3000系を置き換えた5000系についても今年で車齢52年、悔いのないように帰省の度にではあるものの記録していこうと思います。願わくば就職で再び阪急沿線に住むようになるまで残っていてくれればいいのですが。

3/28 春雨の日豊本線駅めぐり

午後は日豊本線(西都城南宮崎)の駅を巡っていきます。

f:id:Sakasegawa3019:20200415140110j:plain

三股駅

南宮崎10:53発普通西都城行き6757D(キハ47-9083+キハ47-8052)で三股へ。北諸県郡三股町の玄関口で、駅舎は大正3年開業時のものを三股町がJRから購入して改装したものです。駅舎内にはコミュニティバスの事務所が入居しています。昭和47年に一度「東都城」に改称されましたが、61年に元の「三股」に駅名が戻されています。

f:id:Sakasegawa3019:20200415141551j:plain

餅原駅

三股12:25発普通宮崎行き6762D(キハ47-8052+キハ47-9083)で餅原へ。昭和40年に開業したホームだけの無人駅です。駅前の道路より一段低いところにあり、駅前には駐車場くらいしかないので存在感が希薄だなという印象を受けました。周辺は畑作地帯で集落は少し離れています。

f:id:Sakasegawa3019:20200415142324j:plain

西都城駅

餅原12:37発普通西都城行き6873M(クハ816-18)で西都城へ。都城市の中心近くにある駅で、宮崎方面から列車のほとんどが当駅で折り返します。昭和56年4月に高架化されており、都会的な雰囲気ですが、その大きさゆえに却って人の少なさが目立って寂しげに思えます。元は志布志線の駅で、国都東線(のちの日豊本線)の方が6年遅れて開業しましたが、志布志線は昭和62年に廃止されています。

f:id:Sakasegawa3019:20200415143637j:plain

青井岳駅

西都城13:17発普通宮崎行き6876M(クモハ817-18)で青井岳へ。宮崎平野都城盆地を隔てる峠越えの途中にある駅で、駅前広場から階段を下ったところに人家が数軒があるだけの寂しい立地です。秘境駅らしい雰囲気で言えば福島高松よりもこちらの方が上だなと個人的には感じます。徒歩10分の所に青井岳温泉があるそうですが、駅からは見えません。

f:id:Sakasegawa3019:20200415144917j:plain

山之口駅

青井岳14:17発普通西都城行き6877M(クハ816-101)で山之口へ。青井岳駅を撮っている時から降っていた雨がさらに激しくなってきました。山之口は平成18年に都城市と合併した旧北諸県郡山之口町の役場最寄り駅で、駅前には郵便局やシャッターを下ろした商店などが立ち並んでいます。駅舎は昭和40年7月に改築されたもので、無人化されて持て余し気味です。元は町の玄関口だっただけあって特急「きりしま」の一部列車も停車します。

f:id:Sakasegawa3019:20200415145653j:plain

日向沓掛駅

山之口15:17発普通宮崎行き6880M(クモハ817-101)で日向沓掛へ。昭和40年9月に信号場として開業し、翌月に駅に昇格しました。ホームからの景色だけ見ていると山間の駅ように思えますが、駅前の坂を上ったところには住宅街が広がっています。一応駅舎があるものの、駅舎内にもホーム上の上屋の下にもベンチが無く、落ち着いて列車を待つのは難しそうです。正直駅舎を建て替えて簡易でも待合室があるものを造った方がいいのではないかと感じました。

f:id:Sakasegawa3019:20200415150602j:plain

田野駅

日向沓掛16:07発普通吉松行き6763D(キハ47-9084+キハ47-8119)で田野へ。平成18年に宮崎市と合併した旧宮崎郡田野町の駅で、大正5年10月開業時の木造駅舎が現役で使用されています。駅舎の旧事務室部分は一時期店舗として使用されていたようですが、今は使われていません。特急「きりしま」は朝に上りが、夜に下りがそれぞれ一本ずつ停車します。

f:id:Sakasegawa3019:20200415151457j:plain

加納駅

田野17:04発普通南宮崎行き6882M(クモハ817-18)で加納へ。平成元年に開業した駅で、周辺には新興住宅地が広がっています。駅前は狭く、車がギリギリ行違える幅の道路を挟んでマンションが建っています。

f:id:Sakasegawa3019:20200415152021j:plain

清武駅

加納18:13発普通田野行き6769D(キハ40-8050)で清武へ。平成22年に宮崎市と合併した旧宮崎郡清武町の中心駅で、特急「きりしま」もほとんどが停車します。駅舎は古くからの木造駅舎ですが、洋風に改装されています。有人駅ですが、訪問時間帯には窓口は終了していました。

f:id:Sakasegawa3019:20200415152653j:plain

特急にちりん17号

清武18:37発普通南宮崎行き6884M(クモハ817-101)と南宮崎18:46発特急にちりん17号宮崎空港行き5017M(モハ783-103)を乗り継いで宮崎空港へ。空港内でラーメンを食べてから20:10発羽田空港行きANA618便に搭乗しました。

 

羽田空港第1・第2ターミナルからは21:45発エアポート急行逗子・葉山行き2107D(1661)と京急蒲田21:58発特急高砂行き2191H(1723)と品川22:12発山手線外回り2117G(モハE235-69)を乗り継いで高田馬場へと帰りました。

3/28 春雨の日南線駅めぐり その3

日南線駅めぐり最終日も前日と同じく油津を6:08発普通志布志行き1921D(キハ40-8060)で出発。

f:id:Sakasegawa3019:20200415103425j:plain

谷之口駅

谷之口で下車。山裾にあるホームだけの無人駅ですが、昭和24年の開業時は有人駅で駅舎もありました。昭和30年4月と早々に無人化されています。目の前を南郷川が流れており、集落はその対岸にあるため、駅から見える範囲にある人家は数軒程度です。

f:id:Sakasegawa3019:20200415104131j:plain

折生迫

谷之口6:44発普通佐土原行き1926D(キハ40-8098+キハ40-8069)で折生迫へ。日南線全通後の昭和41年に開業した駅で、駅前に青島小学校があります。駅前に学校以外の建物は少なく、街外れのような立地ですが、これは宮崎交通線時代とはルートを変更したことによるものでしょう。

f:id:Sakasegawa3019:20200415104929j:plain

青島駅

17分歩いて青島駅へ。有名観光地・青島の最寄り駅ですが、平成4年に無人化されて寂しげな雰囲気です。駅舎は昭和38年5月8日開業時に建てられたもので、今年3月16日にリニューアルが完成したばかりです。構内は2面3線で、一日一往復の折り返し列車は駅舎側の1番線に発着します。

f:id:Sakasegawa3019:20200415105918j:plain

青島

一日一本の折り返し列車1928Dを撮影してから青島へ。この手の観光地には珍しく駅からは徒歩10分もかからずアクセスは良好です。朝の8時台と時間が早いこともあってか観光客の姿も少なく、やはり人の多い有名観光地は早朝に来てこそだなと思います。ただし、有名な鬼の洗濯板は満潮で水中に没していました。

f:id:Sakasegawa3019:20200415110352j:plain

青島神社

島の中央に鎮座する青島神社に参拝。現在の社殿は昭和49年に焼失して再建されたものだそうです。私が着いた時には老夫婦一組しかいませんでしたが、入れ違いにツアー客がやってきました。ツアー客とかち合ってしまうと集・近・閉を避けるどころではないのでそそくさと退散します。橋を渡って駅へと戻る途中にも何組かの家族連れとすれ違いましたし、この状況下でも観光客はそれなりにいるもんだなと思いました。何はともあれちょうど観光客が増える前に「オフピーク観光」できて良かったです。旅先で人混みに揉まれて病気をもらったり、あるいは他人に知らず知らずのうちにうつしたりしては大変ですからね。手洗い・うがいや人混みを避けるといった基本的なことは、パンデミックが終息したとしても続けていかねばなりません。

f:id:Sakasegawa3019:20200415111216j:plain

曽山寺駅

青島9:12発普通南宮崎行き1930D(キハ40-8099+キハ40-8128)で曽山寺へ。民家の裏にひっそりと存在する影の薄い駅で、入口に案内看板もないので車で来ると見落としそうです。ホームの前にずらりと並ぶビニールハウスに小学校の社会科で習った「宮崎県は促成栽培がさかん」という事実を思い出します。

f:id:Sakasegawa3019:20200415112041j:plain

子供の国駅

曽山寺9:32発普通油津行き1929D(キハ40-8065+キハ40-8054)で子供の国へ。遊園地「青島リゾートこどものくに」の目の前にある駅で、国鉄らしからぬ個性的なデザインのモダニズム駅舎が残っています。この駅の前身は宮崎鉄道(宮崎交通線の前身)が開業させた青島温泉駅で、昭和14年のこどものくに開園に合わせて廃止と移転の上子供の国駅として再開業、昭和24年に「こどものくに駅」に表記が変更されました。昭和37年に宮崎交通の駅としては廃止、翌年に日南線の駅として再開業しました。

f:id:Sakasegawa3019:20200415113855j:plain

南宮崎

子供の国9:43発普通宮崎行き1932D(キハ40-8060)で南宮崎へ。日豊本線日南線の分岐駅で、昭和17年までは「大淀」を名乗っていました。駅舎は昭和51年に改築された半橋上駅舎で、改札・待合室は2階にあります。

f:id:Sakasegawa3019:20200415115749j:plain

ライオンのチキン南蛮定食

一時間の乗り換え時間を利用して駅一階の「お食事処 ライオン」で早めの昼食を食べ、午後の日豊本線駅めぐりに備えます。チキン南蛮定食は800円とは思えないくらいボリュームたっぷりでした。

3/27 春雨の日南線駅めぐり その2

f:id:Sakasegawa3019:20200415062145j:plain

1921Dで串間へ

日南線駅めぐり二日目は、油津を6:08発普通志布志行き1921D(キハ40-8069)で出発し、串間で下車。串間市の代表駅で、簡易委託の窓口もありますが、ホームは片面で行き違いは不可能です。開業時は「福島仲町」を名乗っていましたが、南那珂郡福島町、大束村、本城村、都井村、市木村が合併して串間市が誕生してから5年後の昭和34年に市名に合わせて改称されました。

f:id:Sakasegawa3019:20200415062513j:plain

串間駅

駅舎は昭和37年5月に改築されたもので、平成19年2月28日にリニューアルされて農林水産物直売所「くしま駅の駅」が併設されました。その際に駅の出入口と改札口は移動し、待合室も大幅に縮小されています。駅に直売所が併設されているというよりは、駅が直売所の片隅を間借りしているようにも見えます。

f:id:Sakasegawa3019:20200415063829j:plain

駅前に保存されている広電769

駅前には広島電鉄で活躍していた路面電車750形769が保存されています。昭和25年に大阪市電1801形として製造されたもので、平成27年5月の廃車後に「くしままちづくり協議会」に譲渡されました。現在は観光案内所として活用されているようです。

f:id:Sakasegawa3019:20200415064741j:plain

日向北方駅

33分歩いて隣の日向北方へ。国道から入った脇道の奥にひっそりと存在する駅で、駅舎は昭和55年12月30日改築の簡素なもの。日南線をはじめとして南九州ではよく見かけるタイプの簡易駅舎です。つい最近塗り直されたのか外壁も屋根も綺麗でした。その手前にあるトイレは工事現場にありそうな仮設トイレ。

f:id:Sakasegawa3019:20200415065351j:plain

内海駅

日向北方7:58発普通宮崎行き1932D(キハ40-8069)で内海へ。日南線でも最後に開業した区間にある駅で、集落から少し離れた高台にあります。駅舎は日向北方と同型で、おそらく昭和55年前後の改築。開業は昭和38年ですから初代駅舎は20年弱しか使われなかったことになり、いくら無人化したとはいえ勿体ないなと感じます。ホームは島式ホームのような造りですが、開業からずっと片面しか使われていないようです。

内海は日南線の前身の一つである宮崎交通線の終着駅でしたが、青島~内海間では日南線とは別ルートを通っており、内海駅日南線の駅からは離れた集落の中心部にあったようです。

f:id:Sakasegawa3019:20200415070818j:plain

飫肥駅

内海9:47発普通油津行き1929D(キハ47-9073+キハ47-8088)で飫肥へ。伊東氏飫肥藩の城下町として栄えた日南市飫肥(旧南那珂郡飫肥町)の玄関口です。駅舎は昭和16年10月の油津~北郷間開業時に建てられたもので、城を模したデザイン。日南線内では数少ない有人駅の一つで、線内最大の乗降客数を誇ります。日南高校・日南振徳高校の最寄り駅でもあるので訪問時は学生で賑わっていました。

f:id:Sakasegawa3019:20200415071853j:plain

内之田駅

飫肥10:55発普通南宮崎行き1936D(キハ47-8088+キハ47-9073)で内之田へ。平成21年に日南市と合併した旧南那珂郡北郷町にある駅で、開業当初から無人駅のため駅舎はありません。周辺はのどかな田園地帯で、小雨がぱらつく中カエルの合唱だけが響き渡っていました。小さな上屋とベンチしかないホームでのんびりしていると、特急「海幸山幸」が通過していきました。

f:id:Sakasegawa3019:20200415072501j:plain

日南駅

内之田11:39発普通南郷行き1933D(キハ40-8069)で日南へ。日南市の代表駅で、主要駅らしく駅舎は昭和37年6月改築の大柄なコンクリート造ですが、棒線化されています。訪問時は駅舎内にコミュニティスペースを新設すべくリニューアル工事中でしたが、貼り紙によれば3月31日で工事も終了したようです。

昭和16年の開業時は「吾田(あがた)」という駅名で、旧南那珂郡吾田村の玄関口でした。昭和25年1月1日に油津町、飫肥町、吾田町(S23町制施行)、東郷村が合併して日南市が誕生、昭和27年1月1日には吾田駅が改称されて日南駅となりますが、合併にあたては、市役所をどこに置くか、市名をどうするかで港町・油津と城下町・飫肥が大いに揉めたそうです。結局、市役所は間を取って油津と飫肥の中間地点にあった吾田に設置され、市名は「向(そして日本)の」から取ることで決着、紆余曲折を経ての日南市成立となりました。

日南市の誕生から今年で70年、間を取っての市役所設置だったので当時は小さな町だった吾田も今ではすっかり宮崎県南部最大の都市の中心部らしい賑わいを見せています。

f:id:Sakasegawa3019:20200415074317j:plain

日南市役所

日南市役所へは駅から徒歩5分。昭和30年に建てられた古いものだけあって耐震性が低く、機能のほとんどを隣の保健センターに移転しており、現在は2階の議場くらいしか使われていないと通りがかった職員さんが教えてくれました。解体予定で、跡地に新庁舎を建設するそうです。

f:id:Sakasegawa3019:20200415074932j:plain

日南市文化センター

市役所と駅前通りを挟んで向かい合うのは日南市文化センター。昭和37年に日本を代表する建築家の一人・丹下健三の設計で建てられたものです。あまり時間が無かったのでこちらはじっくりと見る余裕がありませんでした。建て替え予定もなさそうなのでまた今度来る時に見ることにしましょう。

f:id:Sakasegawa3019:20200415075510j:plain

南方駅

日南12:59発普通南宮崎行き1938D(キハ40-8069)で南方へ。昭和38年に開業したホームだけの小さな駅で、宮崎空港駅の開業までは空港最寄り駅でした。駅周辺には住宅地が広がっています。阪急京都線にも同名の駅があり、読みもそちらと同じく「みなみかた」です。

f:id:Sakasegawa3019:20200415075927j:plain

宮崎交通宮崎南営業所

南方駅から木花駅へ向かう道中、宮崎交通宮崎南営業所で許可を頂いて構内のバスを撮影。全国的にほとんど見られなくなった富士重工6Eが今も元気に走り回っている宮崎交通、コロナが収束したら他の営業所の車両も撮りに行きたいものです。

f:id:Sakasegawa3019:20200415080434j:plain

木花駅

雨の中を歩き続け、木花へ。島式ホームの交換可能駅で、駅構外の踏切が東口とホーム、西口を結んでいます。東口にある駅舎は昭和38年開業時のものをリニューアルしたもので、券売機はホーム上に移されて中はがらんどうです。

f:id:Sakasegawa3019:20200415083023j:plain

小内海駅

木花14:57発普通油津行き1939D(キハ47-9056+キハ47-8123)で小内海へ。海岸沿いの国道から階段を登った斜面の上にあるホームだけの無人駅で、ホームからは海を見下ろすことができます。しかし、その海の近さの割には駅と海を絡めた構図が少ないのが個人的には残念。

f:id:Sakasegawa3019:20200415083708j:plain

運動公園駅

小内海15:32発普通南宮崎行き1942D(キハ40-8098)で運動公園へ。昭和59年3月に臨時駅として開設され、分割民営化時に正式な駅となった駅で、宮崎県総合運動公園の南口前に位置します。駅舎はありませんが、出札窓口跡が残っており、多客時などは使用されていたようです。運動公園とは反対側、ホームの真正面は田園地帯が広がっています。まだ3月末なのに田んぼに水が張られているのはいかにも暖かい南国といった感じです。

f:id:Sakasegawa3019:20200415084731j:plain

大堂津駅

運動公園16:01発普通南郷行き1943D(キハ40-8128+キハ40-8099)で大堂津へ。昭和11年に榎原から伸びてきた志布志線の終着駅として開業した駅で、昭和30年に日南市に編入された旧南那珂郡細田町に位置します。駅舎は平成31年3月20日より使用開始されたばかりの新しいもので、簡易駅舎には珍しく木の質感に溢れています。昔ながらの木造駅舎もいいですが、このような最近の駅舎も良いものだと感じます。

f:id:Sakasegawa3019:20200415085626j:plain

榎原駅

大堂津17:34発普通志布志行き1945D(キハ40-8104)で榎原(よわら)へ。昭和10年志布志から伸びてきた志布志線の終着駅として開業した駅です。大きな三角屋根が特徴の木造駅舎が残されていますが、昭和22年~28年の間に改築されたものだろうと推定されています。この駅舎について興味深いまとめを見つけたので貼っておきます。

togetter.com

所在地の旧南那珂郡榎原村は昭和31年4月に分割され、大窪地区が日南市に、駅の所在地も含めた残りの大部分が南郷町(H21日南市と合併)に編入されました。

f:id:Sakasegawa3019:20200415091225j:plain

榎原駅ホーム

味のある駅舎に加え、南国情緒あふれる駅構内、昔ながらの看板などがとにかく写真映えするのでひたすら撮っていると気づけば日没。静寂そのものと言った駅構内にカエルの声だけが響き渡っています。こんな駅でのんびりと過ごすのが何よりも贅沢な時間の使い方なのかもしれません。

f:id:Sakasegawa3019:20200415115620j:plain

鉄板焼きそば

榎原18:46発普通南宮崎行き1952D(キハ40-8060)で油津へ。レストラン五番館の鉄板焼きそばを夕食に食べてからホテルへと戻りました。

3/26 春雨の日南線駅めぐり その1

3月も末になると、例のウイルスの感染者数の増加から不要不急の外出の自粛が呼びかけられるようになりましたが、一か月以上前から決めていたのと、行き先が基本的に無人駅なので集・近・閉を避けつつ旅行できるだろうと思ったのとで、日南線駅めぐりは決行することになりました。(緊急事態宣言発令後は駅めぐりは自粛したので、泊りがけでの駅めぐりはこれが最後になりました)

 

高田馬場を4:56発山手線内回り0462G(モハE234-125)で出発し、品川で5:26発快速急行羽田空港行き474K(3851)に乗り換えて羽田空港へ。

f:id:Sakasegawa3019:20200414063914j:plain

ソラシドエア6J 51便

羽田空港からは6:40発宮崎空港行きソラシドエア6J 51便に搭乗。晴れていたので離陸の際には富士山が大きく見えました。よく考えてみれば明るい時間に飛行機で飛ぶのは一人旅では初めてのことなので、目に映る全てのものが新鮮です。

田辺市上空辺りまでは晴れていましたが、紀伊水道を越えて四国上空に入った途端下界は雲に閉ざされて何も見えなくなりました。

8:19 宮崎空港に着陸。晴れていた関東と違い、こちらはどんよりとした曇り空の下。予報では雨と出ていますが、激しく降らないことを祈るばかりです。

f:id:Sakasegawa3019:20200414064630j:plain

宮崎空港駅

宮崎県に来るのは人生でこれが初めて。旅行先にいつも北海道や東北といった北を選ぶ傾向がありましたから、南の方はずっとなおざりになってきました。空港に着いて外に出てみると、古そうなキュービックが停まっており、早速度肝を抜かれました。

空港に隣接する宮崎空港駅は平成8年7月開業。一駅間1.4㎞だけの宮崎空港線の終着駅です。島式1面2線の高架駅で、特急の起終点としては随分簡素な造りです。

f:id:Sakasegawa3019:20200414065428j:plain

田吉駅

宮崎空港8:59発普通宮崎行き6522M(クハ787-5)で田吉へ。2度の廃止と復活を経た駅で、現在の駅は日南線宮崎空港線の分岐駅として平成8年に開業した3代目。初代は昭和37年に宮崎交通線の廃止に伴って廃止され、昭和38年に宮崎交通線の跡地を利用して日南線の2代目の駅が開業しましたが、利用客が少ないことから昭和46年に廃止されました。路線の分岐駅としては随分小さなもので、狭い島式ホームと狭い駅舎があるだけです。

f:id:Sakasegawa3019:20200414070204j:plain

油津駅

田吉9:18発普通油津行き1929D(キハ47-9056+キハ47-8123)で油津へ。一部列車が折り返す運行拠点駅で、昭和12年大堂津から伸びてきた志布志線の終着駅として開業しました。駅舎は開業時に建てられたもので、平成30年2月4日に赤く塗り替えられて「カープ油津駅」の愛称が付きました。これは日南市が広島東洋カープのキャンプ地であるのにちなんだものです。

f:id:Sakasegawa3019:20200414070830j:plain

志布志駅

油津10:46発普通志布志行き1931D(キハ40-8069)に乗り換えて終点の志布志へ。志布志まで乗っていたのは自分以外にお爺さん一人と榎原から乗ってきたお婆さんだけで、この区間の将来が不安になるような利用の少なさです。終着駅・志布志は平成18年の合併で誕生した鹿児島県志布志市の代表駅で、この駅に降り立ったことによって鹿児島県の土を初めて踏んだことになります。これで47全都道府県制覇となりました(ただし行ったことのない県庁所在都市が3つ残っています)

志布志はかつて、志布志線・大隅線も乗り入れる一大ターミナル駅でしたが、昭和62年に両線が廃止された後、平成2年に移転・縮小されて片面ホームと側線があるだけの小さな終着駅へと変貌を遂げました。駅舎は移転時に改築されたもので、無人化後に総合観光案内所が入居しています。駅自体は寂しげですが、志布志の街自体は結構大きく活気があります。

f:id:Sakasegawa3019:20200414072107j:plain

大隅夏井駅

途中ファミリーマートで食料調達しつつ一時間歩いて、隣の大隅夏井へ。幸いにも雨は止んでおり、しっとりとした雨上がりの空気のなかを歩くのは気持ち良かったです。

鹿児島県最東端の駅・大隅夏井は、ダグリ岬遊園地や枇榔島といった観光地への最寄り駅ですが、本数の少なさを考えれば観光客の利用はほとんど無さそうです。駅舎は簡素なものですが、窓口跡が残っているので、おそらく昭和37年の無人化以前に建てられたものだと思われます。駅前には「線路にこぼるゝ萩の花かな」という山頭火の句碑が建てられています。

f:id:Sakasegawa3019:20200414073145j:plain

日向大束駅

大隅夏井13:19発普通油津行き1940D(キハ40-8069)で日向大束へ。昭和29年の串間市誕生まで存在した旧南那珂郡大束村の駅で、昭和10年4月開業時に建てられた木造駅舎が残っていますが、改修の際に庇が撤去されたようで、のっぺりとした外観になっています。ホームは相対式で、交換可能駅です。

f:id:Sakasegawa3019:20200414073824j:plain

福島高松駅

日向大束14:17発快速日南マリーン号志布志行き1935D(キハ40-8060)で福島高松へ。日南線における宮崎県最西端の駅で、のどかな雰囲気が漂っています。「秘境駅」として紹介されることも多い駅ですが、駅前に人家があるので秘境感はそれほどありません。いわゆる「田舎の香水」が漂っているので、その手の臭いが苦手な人にとっては長居するのは厳しそうです。駅舎は有人駅時代のものを縮小したと思われるもので、最近改修されて外壁が綺麗になっています。

f:id:Sakasegawa3019:20200414074712j:plain

福島今町駅

30分歩いて隣の福島今町へ。宮崎県最南端の駅で、志布志方面への最後の交換可能駅です。駅名に冠されている「福島」は串間市成立まで存在した旧南那珂郡福島町のことで、志布志線今町駅(都城市)との混同を避けるためのもの。「日向今町」としなかったのは、今町駅も同じ宮崎県内(日向国)にあったからだそうです。駅舎は台風で被害を受けて昭和31年3月に改築されたもので、60年以上の歳月を経ていい感じに古びてきています。駅舎内には燕が巣を作っていました。駅を撮っていると歩行中は止んでいた雨が降り出しました。

f:id:Sakasegawa3019:20200414081531j:plain

南郷駅

福島今町16:10発普通油津行き1946D(キハ40-8060)で南郷へ。平成21年に日南市と合併した旧南那珂郡南郷町の駅で、駅舎には観光案内所が入居しています。昭和27年4月改築で、平成21年10月にリニューアルされた駅舎は、今年2月2日に白と紺色に塗られ「ライオンズ南郷駅」の愛称が付きました。これは南郷町西武ライオンズのキャンプ地であることにちなんだものです。

f:id:Sakasegawa3019:20200414082250j:plain

日南市南郷町総合支所 旧庁舎

雨が降っていますが、待ち時間を利用して駅近くの旧南郷町役場へ。日南市への合併後は総合支所として使われていましたが、平成28年12月19日に南郷ハートフルセンターに総合支所が移転して以降は空き家となっています。

f:id:Sakasegawa3019:20200414082805j:plain

北郷駅

南郷17:28発快速日南マリーン号宮崎行き1948D(キハ40-8104+キハ40-8100)で北郷へ。平成21年に日南市と合併した旧南那珂郡北郷町の駅で、昭和16年の開業から昭和38年の日南線全通までは志布志線の終着駅でした。平成8年2月改築のログハウス風駅舎にはタクシー会社が入居しています。

f:id:Sakasegawa3019:20200414083359j:plain

日南市北郷町総合支所 旧庁舎

相変わらず雨が降り続いていますが、こちらでも列車の待ち時間を利用して旧北郷町役場へ。こちらも日南市への合併後は総合支所として使われていましたが、南郷総合支所と同時に移転して空き家となっています。昭和40年に建てられたモダニズム建築で、このまま取り壊されてしまうのはあまりにも惜しく思われます。せめて解体前に見学会でも開いてほしいものですが。

f:id:Sakasegawa3019:20200414083900j:plain

伊比井駅

北郷18:31発普通南宮崎行き1950D(キハ47-8088+キハ47-9073)で伊比井へ。日南線でも最後に開業した区間にある駅で、国道から階段を登ったところにコンクリート造の駅舎が建っています。ホームは島式で、終日ほぼこの駅で列車交換が行われます。

f:id:Sakasegawa3019:20200414084711j:plain

夜の油津駅

1950Dと交換する伊比井18:46発普通志布志行き1949D(キハ47-9083+キハ47-8052)で油津へ。この日から2日間、油津駅前のビジネスホテルサンライズに宿泊。文字通り駅前にあるので日南線駅めぐりにはうってつけのホテルです。

3/24 春の上信電鉄駅めぐり

この日は一日乗車券を使って上信電鉄の駅を巡りました。

f:id:Sakasegawa3019:20200412062505j:plain

上信高崎駅

高田馬場4:48発山手線外回り0403G(クハE234-8)、池袋5:00発普通川越行き545K(クハE232-7018)と赤羽5:23発普通高崎行き821M(モハE233-3023)を乗り継いでまずは高崎へ。上信電鉄高崎駅は、JRの駅に隣接してひっそりと存在します。平成17年まではJRと改札口を共用していました。駅構内には引退した昭和39年製の電車・デハ203を転用した待合室「絲綢之間(シルクのま)」が設置されています。

f:id:Sakasegawa3019:20200412063709j:plain

山名駅

高崎7:10発下仁田行き7(クハ753)で山名へ。室町時代に隆盛を誇った山名氏発祥の地にある駅で、古いながらもよく手入れされた木造駅舎が残っています。島式ホームの交換可能駅で、駅舎とホームは構内踏切で結ばれています。駅員さんは親切でした。

列車が着くたびに駅員さんが改札口で発着を見届け、下車客を送り出すという昔ながらの駅の風景が残っている駅です。

f:id:Sakasegawa3019:20200412064633j:plain

下仁田駅

山名7:53発下仁田行き9(デハ252)で終点の下仁田へ。ネギで有名な甘楽郡下仁田町の玄関口で、関東の駅百選にも認定されています。上信線はその名の通り、「野」と「濃」を結ぶことを目的としていた路線で、当駅から先県境を越えて小海線羽黒下駅まで延伸する計画がありましたが、着工されることはありませんでした。

f:id:Sakasegawa3019:20200412070309j:plain

下仁田駅構内

かつては貨物営業を行っていただけあって構内は広く、終着駅らしい風格が感じられます。農業用倉庫や錆びた貨車の留置された線路などがかつての繁栄を今に伝えており、妙義山を背景に頭端式ホームで列車が発車を待つ姿など、模型にしたくなるような光景が広がっています。

f:id:Sakasegawa3019:20200412070753j:plain

千平駅

下仁田9:04発高崎行き20(デハ703)で千平へ。上信線が鏑川の渓谷に沿って山へ分け入っていくところにある駅で、平野部の駅が多い上信線では珍しく高低差に富んだ駅です。片面ホーム上に小さな木造待合所があるだけの簡素な駅で、訪問時は菜の花が綺麗に咲き誇っていました。下車した私と入れ違いに地元のおばあさんが乗車しようとしていましたが、駅入口の階段を登ってくるのが運転士さんに見えなかったらしく、タッチの差で乗り過ごしていました。一本後の列車内で見かけたのでどうやらこの駅で一時間待ったようですが、本数の少ないローカル線だと一本乗り遅れるだけでも大変ですね。

f:id:Sakasegawa3019:20200412071755j:plain

南蛇井駅

20分ほど歩いて隣の南蛇井駅へ。「なんじゃい」と読む難読駅名で、独特の語感を持つその地名の由来については、アイヌ語の「ナサイ(川が流れて広くなっているところ)」が語源という説や、冬は温かく夏は冷たい「温井(ぬくい)」という泉が南にあり、そこに蛇が集まって暑さ寒さをしのいでいたという説などがあるそうです。

南蛇井は昭和30年まで存在した旧甘楽郡吉田村の中心地で、駅周辺には小学校や農協などの公共施設が集中しています。

f:id:Sakasegawa3019:20200412073053j:plain

上州一ノ宮駅

南蛇井9:52発高崎行き22(クハ7501)で上州一ノ宮へ。上野国一之宮貫前神社の最寄り駅で、昭和29年まで存在した旧甘楽郡一ノ宮町の中心部に位置します。駅舎は小ぶりながらも天井の高い立派なもので、入口扉上のローマ字駅名や社章など細かい部分にも目が行きます。駅員不在時間帯だったのでスタンプは押せませんでした。

f:id:Sakasegawa3019:20200412074348j:plain

神農原駅

上州一ノ宮10:12発下仁田行き15(クモハ1001)で神農原へ。「かのはら」と読む難読駅で、片面ホーム上に待合所が2ヵ所設置されています。ホーム上からは下仁田方面に妙義山を望むことができるため、駅舎はなくとも構図次第でいい写真が撮れそうです。

f:id:Sakasegawa3019:20200412075257j:plain

西富岡駅

神農原10:33発高崎行き24(クモハ702)で西富岡へ。昭和12年に「病院前」として開業、同26年に休止され、同28年に改称の上復活した駅で、現在の駅舎は昭和35年に完成したものです。公立七日市病院の最寄り駅で、当初の駅名はここから取られたのでしょう。駅周辺は住宅街が広がっています。

f:id:Sakasegawa3019:20200412075937j:plain

上州七日市駅

西富岡10:56発下仁田行き19(クハ754)で上州七日市へ。県立富岡高校の最寄り駅で、階段の上に建つ木造駅舎は昨年7月23日に改修工事が完成して、新築同然の姿に生まれ変わりました。駅のある七日市は、江戸時代には前田氏七日市藩が置かれたところで、廃藩置県後3か月間だけ七日市県も存在しました。七日市藩陣屋跡は富岡高校の敷地になっていますが、かつての門がいくつか現存するそうです。

f:id:Sakasegawa3019:20200412081117j:plain

上州福島駅

上州七日市11:28発高崎行き28(クモハ1201)で上州福島へ。甘楽郡甘楽町の玄関口で、小幡藩城下町への最寄り駅です。駅舎は南蛇井と同型で、駅舎前にはポンプ式の井戸が残されています。平成17年2月20日にトラベルライターの横見浩彦氏がJR・私鉄全9843駅の下車を達成した駅でもあります。

f:id:Sakasegawa3019:20200412082033j:plain

上州福島駅 ホーム

駅構内の側線には運用を離脱したクハ304が貨車と共に留置されています。700系の増備で高崎の車庫に置くスペースが無くなった故の措置だと思われますが、障害物も少なく、ちょうど見やすい近さなので車両観察にはうってつけです。

f:id:Sakasegawa3019:20200412082458j:plain

上州富岡駅

上州福島11:54発下仁田行き23(クハ752)で上州富岡へ。富岡市の代表駅で、世界遺産富岡製糸場への玄関口でもあります。平成26年3月17日より使用開始された3代目駅舎は、駅舎にはめったに見られないような開放的なデザインで、ブルネル賞やグッドデザイン賞日本建築学会賞、BCS賞を受賞しています。駅舎建築としては京都駅や大阪駅と並ぶ個性的なものだと言っていいでしょう。

f:id:Sakasegawa3019:20200412083313j:plain

東富岡駅

上州富岡12:13発高崎行き30(クモハ704)で東富岡へ。地元の請願により平成2年に開設された新しい駅で、近くに工場が多いことから朝夕は通勤客で賑わいます。三角屋根の時計台を持つ駅舎は富岡製糸場をモチーフとしたもので、建てられた時代が時代らしくバブリーな雰囲気も感じられます。

f:id:Sakasegawa3019:20200412083824j:plain

南高崎駅

東富岡12:41発高崎行き32(クモハ703)で南高崎へ。住宅街の中にあるホームだけの無人駅で、開業時は「下和田」を名乗っていました。今では吹きっさらしの簡素な待合所があるだけですが、昭和63年までは有人駅だったそうで、駅舎があったと思われる不自然な空き地もあります。

f:id:Sakasegawa3019:20200412084334j:plain

根小屋駅

南高崎13:31発下仁田行き29(クハ753)で根小屋へ。戦国時代に築かれた根小屋城址の最寄り駅で、大正15年6月開業時のものと思われる年季の入った木造駅舎が現役で使用されています。

f:id:Sakasegawa3019:20200412084857j:plain

根小屋駅 駅舎内

駅には「ベリーちゃん」という近所の飼い猫が居付いており、駅舎内を闊歩したり、ベンチに飛びのったりと自由気ままに過ごしています。駅員のおばちゃんが定期利用の学生さんと世間話をする光景も見られ、どこか懐かしいのんびりとした空気が漂う駅です。

f:id:Sakasegawa3019:20200412085347j:plain

佐野のわたし駅

根小屋13:57発高崎行き34(クモハ702)で佐野のわたしへ。平成26年12月22日に開業した新しい駅で、駅名はすぐそばを流れる烏川にあった渡し船に由来します。駅舎や待合室等はありません。

f:id:Sakasegawa3019:20200412085824j:plain

西山名駅

佐野のわたし14:03発下仁田行き31(クモハ7001)で西山名へ。昭和5年に「水泳場前」として開業した駅で、上信電鉄が観光客誘致のために建設した巨大プールの最寄り駅でした。昭和13年に戦時下の自粛ムードを受けて水泳場が閉鎖されると「入野」に改称され、昭和61年に現在の駅名になりました。昭和63年まで有人駅でしたが、駅舎はなく、高崎産業技術専門校の生徒の卒業制作による特徴的な駅設備が目立ちます。

f:id:Sakasegawa3019:20200412090556j:plain

高崎商科大学前駅

西山名13:51発高崎行き34(クハ1301)で高崎商科大学前へ。平成14年3月17日に開業した駅で、駅名の通り高崎商科大学の最寄り駅です。住宅街の山側にあり、通学時間帯を除けば閑散としています。

f:id:Sakasegawa3019:20200412090936j:plain

上州新屋駅

高崎商科大学14:37発下仁田行き33(クハ755)で上州新屋へ。昭和34年に小幡町・福島町と合併して甘楽町となった旧甘楽郡新屋村の駅で、下見板張りの木造駅舎が残っていますが、近いうちに解体されるという噂もあります。駅の高崎方を「三途川」という小さな川が流れていますが、現世側は果たしてどちらなのでしょうか。

f:id:Sakasegawa3019:20200412091739j:plain

吉井駅

上州新屋15:13発高崎行き40(クモハ703)で吉井へ。平成21年に高崎市編入された旧多野郡吉井町の中心部にある駅で、駅舎は幾度もの改修や曳家移転を経つつ使われています。現在のホームは島式1面2線ですが、かつてはもう一本ホームがあり、その跡は保線区の資材置き場に転用されています。

f:id:Sakasegawa3019:20200412092546j:plain

西吉井駅

吉井15:29発下仁田行き35(クハ752)で西吉井へ。昭和46年に開業した駅で、平成17年までは有人駅でした。駅舎は大屋根の下に窓口とトイレの小屋をそれぞれ設置した簡素なもので、待合スペースは吹きっさらしです。駅周辺には住宅街が広がっています。

f:id:Sakasegawa3019:20200412093124j:plain

馬庭駅

西吉井15:44発高崎行き44(クハ7501)で馬庭へ。県立吉井高校の最寄り駅で、通学時間帯を中心に駅員が配置されます。狭い道路に面して建つ駅舎は増築を重ねたためか、出入口が2ヵ所あり、改札口も2か所あったと思われますが、窓口から遠い方は閉鎖されています。この日はずっと強いからっ風が吹いていましたが、駅員さん曰くこれでも冬場に比べればマシな方だそうです。

この日の駅めぐりは馬庭で終了し、馬庭16:41発高崎行き44(クモハ705)で高崎へ。

高崎からは17:13発湘南新宿ライン国府津行き2859Y(クハE231-8522)で池袋へ。池袋で夕食を食べてから19:20発山手線内回り1860G(モハE234-27)で高田馬場へと帰りました。

3/22 春雨の上越線駅めぐり

この日は日帰りで上越国境を越えて上越線の駅を巡ってきました。

f:id:Sakasegawa3019:20200329101807j:plain

長岡行き1729M

高田馬場をいつものように4:48発山手線外回り0403G(クハE234-21)で出発し、池袋5:00発普通川越行き545K(クハE232-7037)と赤羽5:23発普通高崎行き821M(クハE231-8509)、高崎7:11発普通水上行き723M(クモハ211-3025)を乗り継いで水上へ。

水上からは8:28発普通長岡行き1729M(クモハE129-127)に乗車。E129系は新潟地区で走っている車両なので、遠くに来たなというのを実感します。

f:id:Sakasegawa3019:20200329102129j:plain

越後堀之内駅

一時間以上乗り続け、越後堀之内で下車。今年は暖冬だったというのもあってか国境の長いトンネルを越えてもそれほど雪はありませんでした。越後堀之内は、平成16年の合併で魚沼市となった旧北魚沼郡堀之内町の玄関口で、みどりの窓口が設置されています。昭和43年改築の駅舎は高床式で、入口の大きな階段が風格を感じさせます。

f:id:Sakasegawa3019:20200329102659j:plain

石打駅

越後堀之内10:28発普通越後湯沢行き8730M(モハE128-9)で石打へ。かつてはスキーシーズンに優等列車が停車するなどして大いに栄えた駅で、昭和43年改築の駅舎も2階建ての立派なものです。ホームは2階と同じ高さにあり地下通路で結ばれていますが、1番ホームは閉鎖されています。その閉鎖されたホームをはじめとして、謎の通路や団体用改札など見ていて楽しいものが多く残っていっるので見ていて飽きることはありません。ちなみに窓口の営業時間は9:50~12:10と非常に短いです。

f:id:Sakasegawa3019:20200329103653j:plain

大沢駅

石打11:27発普通長岡行き8733M(モハE128-9)で大沢へ。昭和54年改築の駅舎は新潟管内の標準スタイルで、駅舎を経由せずともホームに行ける構造になっています。スキーシーズンはほとんど終わっているはずですが、駅舎前に観光客が多くいて写真を撮るのに苦労しました。

f:id:Sakasegawa3019:20200329104146j:plain

土合駅

大沢11:41発普通水上行き1732M(クモハE128-131)で土合へ。下りホームがトンネル内にあることからメディアで取り上げられることが多く有名な駅です。昭和42年改築の駅舎は、谷川岳をイメージした三角形が特徴のモダニズム建築で、近くで見ると迫力があります。この季節なら谷川岳も山開きしていないし、雪もあるだろうから人が少ないだろうと思いきや、車で来た観光客だらけでした。すっかり観光地化されてしまっているようで、ゆっくりと駅を楽しめる雰囲気ではありません。こうなる前に来ておけばよかったなと後悔することしきりです。

f:id:Sakasegawa3019:20200329105013j:plain

下りホームへの階段

地下深くにある下りホームへの階段は462段。車で来た観光客はこれを律義に往復するわけですからご苦労さんという感じです。今回の私の行程では下るだけなのでそれほどきつくはありません。上ってくる観光客とすれ違いながら下っていきます。

f:id:Sakasegawa3019:20200329105500j:plain

土合駅下りホーム

8分ほどかけて下りホームに到着。地下70mの新清水トンネル内にあります。幸いにも観光客がいなかったので、ここぞとばかりに撮りまくります。せっかくの地底駅、他に人がたくさんいると遠慮してあまり撮れませんからね。一応、ホーム上にも待合室があり、駅ノートが置かれていますが、荒れていて書こうという気が起きませんでした。

f:id:Sakasegawa3019:20200329110145j:plain

地底ホームに列車が到着

地底ホームから13:49発普通長岡行き1739M(クモハE129-127)に乗車。入線時には身を乗り出して撮っていた観光客が警笛を鳴らされていました。ホームには多くの人がいましたが、乗り込んだのは自分以外に一人か二人だったように思います。

f:id:Sakasegawa3019:20200329110424j:plain

上越国際スキー場前駅

1739Mで上越国際スキー場前へ。平成9年に開業した駅で、当初は冬季のみの営業でしたが、平成15年より通年営業になりました。とはいえ、今でもほくほく線からの乗り入れ列車をはじめとして通過する普通列車が多数存在します。ホーム上に上屋や待合室は無いので、券売機室で雨をしのぎながら列車を待ちました。

f:id:Sakasegawa3019:20200329110753j:plain

土樽駅

上越国際スキー場前14:53発普通水上行き1736M(クモハE128-2)で土樽へ。戦時中に信号場から昇格した駅で、川端康成『雪国』には列車がトンネルを抜けて最初に停車する信号場として登場します。元が信号場だっただけあって周囲に人家は少なく、駅前を通る関越自動車道くらいしか目立つものはありません。駅裏にはスキー場があったようですが、今は閉鎖されています。

f:id:Sakasegawa3019:20200329111422j:plain

越後中里駅

雨の中、足元を泥だらけにしながら一時間歩いて越後中里へ。昭和30年まで存在した旧南魚沼郡土樽村の中心地にある駅で、駅前にはスキー客相手の店や旅館が立ち並んでいます。昭和55年12月改築の駅舎は立派なものですが、無人化されて窓口は閉鎖さされています。

f:id:Sakasegawa3019:20200329111845j:plain

湯沢中里スキーリゾートの客車

駅裏には駅直結の湯沢中里スキーリゾートがあり、青く塗られた客車9両が休憩所として置かれています。できれば近くで見たかったのですが、駅構内からスキー場への通路が封鎖されていたので近寄ることができませんでした。

f:id:Sakasegawa3019:20200329112155j:plain

湯檜曽駅

越後中里17:02発普通水上行き8740M(クモハE128-123)で湯檜曽へ。山間の小さな温泉地・湯檜曽温泉の玄関口で、上りホームは地上にありますが、下りホームは土合同様にトンネルの中にあります。コンクリート打ちっぱなしの駅舎は平成22年に改築されたもので、中にはトイレしかありません。現駅舎の隣には旧駅舎の土台が残っています。

f:id:Sakasegawa3019:20200329112736j:plain

湯檜曽駅下りホーム

トンネル内にある下りホームですが、直線だった土合駅と違い、左に大きくカーブしています。地下の深さでは土合駅に負けていますが、雰囲気ではこちらの方が上だと個人的には思います。人が少なくて写真が撮りやすいのもいいですね。さすがに土合駅みたいに人だらけで、トンネルに声が反響しているようじゃ雰囲気ありませんし。

f:id:Sakasegawa3019:20200329113124j:plain

1742Mが湯檜曽駅に到着

湯檜曽18:23発普通水上行き1742M(クモハE128-125)で帰途に就きます。水上からは18:44発普通高崎行き750M(クハ210-3026)、高崎20:07発普通小田原行き1947E(サハE231-1106)、赤羽21:46発普通新宿行き2150K(クハE232-7012)、池袋21:59発山手線内回り2110G(モハE234-27)を乗り継いで高田馬場へと帰りました。