まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

8/27 夏の終わりの福塩線駅めぐり+東への帰路

最終日は福塩線府中以北のうち残った3駅を訪問し、山陽本線山陽新幹線を乗り継いで東への帰途に就きました。

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福塩線最高地点 上下駅

三次を5:15発府中行き1720D(キハ120-326)で出発し、上下で下車。乗ってきた列車は三次行き1721Dと交換してからもしばらく停車してから発車していきました。

上下駅は中国山地に分け入る福塩線の中でも最も標高の高い地点で、それを示す標柱がホーム上に建てられています。

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上下駅

駅舎は昭和10年11月に福塩北線の終点として開業した際に建てられたもの。府中町まで全通するまでの3年弱の間、終着駅でした。平成16年に府中市と合併した旧甲奴郡上下町の玄関口で、府中~塩町間の途中駅では最も大きな駅かつ唯一の簡易委託駅です。

かつては車寄せの上にひらがなの駅名表示があったようですが、今では失われてパッと見駅名が分かりにくいです。

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上下代官所跡→甲奴郡上下町役場跡

次の列車まで一時間あるので上下の街を散策。まずは上下代官所跡へ。江戸時代、天領(幕府の直轄支配地)だった上下にはそれを治めるための代官所が置かれていました。当初は甲奴・神石・安那3郡の71村を管轄する代官所でしたが、管轄地の縮小によって後半期は石見銀山の大森代官所の出張陣屋となっていたそうです。代官所の用地は明治以降は小学校に転用され、昭和32年からは上下町役場が置かれたことで再び行政の中心地となりました。平成16年に府中市と合併すると上下支所となりましたが、建物老朽化のため平成19年に移転し、旧庁舎は平成24年に解体されています。

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分水嶺

代官所跡の近くに分水嶺があります。拍子抜けするくらい普通の国道沿いで、こうした街中に分水嶺があるのは珍しいそうです。「上下」という珍しい地名は水が上下に分かれることに由来しているとの説もあります。

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上下川

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翁橋

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片野製パン所

上下は重伝建ではないものの、中心部に白壁の和風建築を中心に古い建物が多く残っており、どこを切り取っても絵になります。昭和9年に建てられた片野製パン所は国登録有形文化財

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旧上下警察署

火の見櫓のある建物は明治12年7月に警察署として建てられた建物。田山花袋の紀行文にも出てくるそうです。

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白壁の街並みと上下教会

特に白壁の街並みが見事なのは上下教会の前後。まるで重伝建のように新しい建物も意匠が統一されているたます。上下教会は明治時代に建てられた財閥の蔵を戦後に改装したもので、蔵風の教会という全国的に見ても珍しい建物です。

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上下商工会館(旧上下警察署)

商工会館の旧館は昭和5年7月に上下警察署として建てられたもの。それまでは前述の火の見櫓の建物が警察署でした。アールデコ風の洋風建築で、シンメトリーの外観が美しいです。惜しむらくは手前に公衆トイレが設置されていることと、電線が被っていること。トイレはともかく電線は地中化でなんとかなりそうなだけに惜しいです。

上下警察署は昭和31年10月に統合され、以降は府中警察署上下交番となりましたが、昭和44年10月に新築移転し、以降は商工会館として使われてきました。

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府中警察署上下交番

ちなみに代官所への道中に見た上下交番は建て替え工事中で、これまた時代の移り変わりを感じます。明治の建物が警察署として使われたのは51年、戦前の建物が警察署・交番として使われたのは39年、そして現在の交番が使われてきたのは52年。実は今の交番の時代の方が長いのです。3代の建物が共存する現状もそう長くはないのでしょうが

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福塩線1723D

上下駅に戻り、7:31発三次行き1723D(キハ120-327)に乗車。実はこの時、発車時間を勘違いしており、うっかり乗り遅れかけるという失態を犯しました。

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三良坂駅

三良坂で下車。平成16年に三次市と合併した旧双三郡三良坂町の駅で、平成2年3月改築の駅舎は、コミュニティホール・タクシー会社との合築です。二階建ての立派な建物で、待合室も広いですが、列車の本数は少なく、ホームも一本だけと寂しい感じです。

駅前を少し歩くと気になるお店がありましたが、朝の時間帯なのでもちろん開いておらず、今度は昼に来ようと思うのでした。

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塩町駅

三良坂9:38発三次行き1725D(キハ120-324)で塩町へ。福塩線の終点ですが、列車は全て三次まで直通します。昭和5年4月に芸備鉄道の「田幸(たこう)」として開業し、昭和8年6月の国有化で庄原線の駅となり、同年11月に福塩北線が吉舎まで開業しました。昭和9年1月に現在の神杉駅から「塩町」の駅名を譲り受けて改称されています。ほんの1カ月半の間だけ福塩北線の始発駅が「田幸」だったわけですが、「福田線」や「福幸線」にならなかったのは最初から改称前提だったのでしょう。それなら国有化時や福塩北線開業時に改称でもいいのではないかという気もするのですが。

駅舎は二つの路線の分岐駅らしく立派なものですが、無人化されてがらんとしています。平成17年4月まで簡易委託駅でした。

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塩町駅 ホーム

ホームは島式1面2線の狭いもので、駅舎とは地下通路で結ばれています。この規模の駅で地下通路は珍しいですが、これも芸備線が急行の走る重要な路線だった時代の名残でしょう。かつての構内踏切も封鎖されながら残っていますが、バリアフリーの観点から見れば、まだ踏切の方が段差が少なくていいのではないかと思えます。

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芸備線福塩線の分岐

そばの踏切から分岐を見てみましょう。左に曲がっていくのが芸備線で、右に曲がっていくのが福塩線。未練も見せずお互い別の方向へ進んでいく、何とも潔い別れ方です。

共に本数の少ないローカル線となった今ではどちらが上でどちらが下ということもないでしょうが、本数は辛うじて芸備線の方が多いです。

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快速みよしライナー

塩町10:14発三次行き355D(キハ120-320)で三次へ。10:30発快速みよしライナー5835D(キハ47-1101+キハ47-110)に乗り換えて一気に広島へ。三次~上深川に乗るのはこれが初めてですが、随分と思い切った途中駅の飛ばし方をするものだと思いました。三次以西の駅も早く訪問したいものです。

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西条駅

広島で12:05発普通白市行き1534M(クモハ227-43)に乗り換え、西条へ。計画では天神川と安芸中野にも降りる予定でしたが、お腹が空いていたので予定を変更して西条で昼食としました。東広島市の代表駅で、駅周辺はなかなかの賑わいを見せています。

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中華蕎麦マーヤ 特製正油らぁめん

駅前の中華蕎麦マーヤの特製正油らぁめんで昼食。深い味わいのスープと鶏・豚2種のチャーシューが美味しかったです。

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播州赤穂行き

西条13:26発普通糸崎行き320M(クモハ227-93)で三原へ。三原からは14:15発普通播州赤穂行き428M(クハ115-1111)に乗車。今ではすっかり貴重になった115系で広島から一気に兵庫へ。乗り換えの手間がないのは楽ですが、3時間近く座りっぱなしというのも厳しいものです。

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のぞみ118号

播州赤穂17:07発普通姫路行き974M(クモハ223-2072)に乗り換え、姫路へ。

駅弁を買ってから18:02発のぞみ118号東京行き118A(783-1004)に乗車。広島から新幹線に乗れば芸備線三次以西の駅もいくつか訪問できたはずですが、そうしなかったのは単に姫路から乗った方が安いから。金欠学生にとっては新幹線利用はなかなか厳しいものです。

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かつめし

新幹線の車内で、姫路駅の駅弁「豚かつめし」で夕食。加古川・姫路周辺のB級グルメかつめしの駅弁で、デミグラス風のソースがかかっていてボリュームがあります。

品川からは20:57発山手線外回り1923G(サハE235-49)で帰宅しました。

8/26 夏の終わりの福塩線駅めぐり

この日は福塩線府中以北の駅を中心に巡りました。福塩線もまた本数が少ない路線ですが、この日は臨時列車の運行日だったので多少は降りやすくなっていました。

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甲奴駅

三次5:15発府中行き1720D(キハ120-324)で甲奴へ。平成16年4月に三次市と合併した旧甲奴郡甲奴町の玄関口で、昭和10年11月開業時の木造駅舎が改装されながらも現役です。駅舎の旧事務室部分にお好み焼き屋が入居しているのがいかにも広島といった感じ。次は昼時に来てここで食べてみたいものです。

「甲奴(こうぬ)」という独特の響きを持つ地名の由来については、川沿いの土地を意味する「河野」「河内野」あるいは、傾いた土地を意味する「傾き野(かぶきの)」が訛ったという説などがあります。

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備後安田

甲奴6:23発三次行き1721D(キハ120-326)で備後安田へ。明治22年の町村制で三谿郡吉舎村が成立するまで存在した旧三谿郡安田村に由来する駅名の駅で、吉舎町を経て現在の所在地は三次市です。駅舎は昭和10年11月開業時に建てられたもので、妻面の造りなど同時期に開業した芸備線 道後山駅と似たものが感じられます。ホームは片面ですが、広い構内には側線が残されており、貨物営業があった頃の名残を感じさせます。

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中畑駅

備後安田6:55発府中行き1722D(キハ120-332)で中畑へ。芦田川の谷底にへばりつくように存在する、ホームだけの小さな駅です。県道や大きな集落は対岸にありますが、平地の少なさゆえにかなり高いところまで民家がへばりついている様子は、四国山地の山深い所を連想させます。どちらかというと土讃線なんかにありそうな雰囲気の駅です。昭和38年10月開業で、同時に開業した兄弟とも言うべき八田原駅は平成元年4月の新線切替で廃止され、現在はダム湖の底に沈んでいます。

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レールに止まるハグロトンボ

川のそばという立地のためか訪問時はハグロトンボが駅構内を飛び回っていました。

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備後三川

中畑8:27発三次行き1725D(キハ120-332)で備後三川へ。世羅郡世羅町唯一の駅で、平成16年10月の合併前は旧世羅郡甲山町の駅でした。駅名の「三川」は昭和30年の甲山町成立まで存在した三川村に由来します。世羅町および甲山町の中心からは離れた立地ですが、町唯一の駅だけあってか駅舎は立派なものです。かつては簡易委託駅でした。

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備後三川駅 ホーム

ホームを見てみると、駅舎が真っすぐに建てられているのに対してホームが左に曲がっていることに気が付きます。わざわざこんな変な造りにしなくてもと思いますが、実はこれは新線切替の跡なのです。元々の線路は駅舎と平行に真っすぐ伸びていましたが、平成元年4月に八田原ダム建設のため当駅から河佐までの区間が新線(現在の線路)に切り替えられています。駅舎の建設は新線切替の翌年3月で、旧線時代の位置に建てられているためこのような形になったのでしょう。

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府中で電車に乗り換え

備後三川8:59発府中行き1724D(キハ120-327)で府中へ。河佐から乗ってきたおばちゃん3人が福塩線減便の話をしていました。「のうなるんなら、しょうがにゃあわなあ」「今日は12時(臨時便)がある」「今日ぐらいまでやなあ」

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横尾駅

府中で9:36発福山行き240M(クモハ105-29)に乗り換えて横尾へ。大正3年7月、両備軽便鉄道としての開業時に設置されたという長い歴史を持つ駅で、両備時代の線路は当駅から南へ直進し、市街地を抜けて両備福山に至っていました。昭和8年の国有化で福塩南線となり、昭和10年12月の改軌時にルートが現在の備後本庄周りに変更されています。ホームは片面ホームを2つ並べた独特の配置で、元は右のホームを島式として使用していました。

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横尾駅 駅舎

無人化されて駅舎が解体されて以降、ホーム上に待合所が設置されているだけでしたが、平成19年7月のICOCA導入時に改札機を雨から守るための簡易駅舎が設置されました。令和2年3月には増築され、改札機と券売機は増築部分(左)に移され、旧来の部分(右)が待合所に変更されています。これによりホーム上の待合所は撤去されました。

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府中駅

横尾10:52発府中行き241M(クハ104-6)で府中へ。電化区間と非電化区間の境目にある運行拠点駅で、当駅を境に北部は一気に本数が減少します。そんな重要な駅ですが、みどりの窓口が廃止され、駅員不在時間帯も増えて一気に寂しくなったような印象を受けます。今日は臨時便があるとはいえ、次の三次行きは一時間後。幸いにも下川辺までの駅間は比較的短いので歩いて向かいます。

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川辺駅

国道486号をひたすら歩いて芦田川を2度渡り、55分で下川辺へ。事前の天気予報では雨とのことだったのでそちらを心配していましたが、むしろ晴れすぎたくらいで熱中症の方が心配でした。

下川辺は、昭和29年の府中市成立まで存在した旧御調郡下川辺村の駅で、昭和29年から37年までの8年間だけなぜかこの駅まで電化されていました。とはいえ電車のほとんどが府中止まりで、当駅折り返しの電車は朝に2本、午後に1本のわずか3本しかなかったようです。なんとも不可解な話で、電化の理由についてもはっきりわかってはいませんが、興味深い考察が下記の記事のコメント欄にありました。

drfc-ob.com

以下引用

興味深い事実なので背後関係を考えて推理しました。
まず1954年4月10日の下川辺電化延伸は、同年3月31日発足の府中市誕生の際に下川辺村の編入が行われており、選挙の公約だったのではないでしょうか。
それから電化廃止の1962年3月15日は、1961年9月6日の山陽本線三原電化に伴う、福塩線の600V→1500V昇圧に拠るものと思われます。
この際にクモハ11等の省電17m車が大量に府中に転属し、社型電車は淘汰が進み、下川辺まで旧省電を入線させるのに、効率的に見て無駄な運用と考えられて、電化区間は8年で廃止。
しかし当時は気動車が破竹の勢いで活躍を始めました。社型のオンボロ電車の代わりにキハ20系を投入すれば、苦情も無く、乗客は喜ぶ。そんな所がこの歴史経緯の事実の裏側だったのではないでしょうか。(K.H.生さん 2019年10月10日 11:09 PM )

確かに下川辺村の編入と電化がほぼ同時なので、そのような事情もあったのかもしれません。果たして真相や如何に。

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備後矢野

下川辺12:39発臨時三次行き8727D(キハ120-324)で備後矢野へ。昭和29年に上下町と合併した旧甲奴郡矢野村の駅で、昭和13年7月の府中町~上下間開通時に開業しました。駅舎は開業時に建てられたもので、「矢野駅食堂」として活用されていますが、この日は臨時休業でした。うどんやそば、カレーライスを楽しめる人気の食堂で、今度は是非開いている時に来たいものです。

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河佐駅

誰も乗せずにやってきた備後矢野13:27発臨時府中行き8726D(キハ120-6)で河佐へ。昭和31年9月に府中市編入された旧御調郡河佐村の駅で、昭和28年7月改築の駅舎が残っていますが、事務室部分が減築されています。駅舎に寄り添って立つ木が絵になります。次の列車まで滞在時間は2時間弱、せっかくなので河佐峡でも歩いて見に行こうかと思いましたが、あまりに暑いので待合室で本を読んで過ごしました。

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吉舎駅

河佐15:28発三次行き1729D(キハ120-6)で吉舎へ。平成16年に三次市と合併した旧双三郡吉舎町の駅で、昭和8年11月に福塩北線の終点として開業しました。吉舎の市街地からは少し離れていますが、日彰館高校の最寄り駅のため、学生の利用が多いです。

撮影のために引き戸を閉めるとヤモリが出てきましたが、すぐに駅名表示の裏に隠れてしまい、撮れませんでした。もっともその俊敏性がないと野生では天敵から逃げきれないのでしょうが。

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梶田駅

吉舎17:24発府中行き1730D(キハ120-320)で梶田へ。昭和38年10月に開業した、ホームだけの小さな駅です。駅名は明治28年の甲奴村成立まで存在した甲奴郡梶田村に由来します。上下川の畔に位置し、川を挟んで農家が点在しているため、決して辺鄙なところではありませんが、駅の利用者はほとんどいないようです。

列車を待っていると18時に寺の鐘が鳴り、それに反応して4回目くらいから犬が吠えだしました。30秒ほどの間隔で列車が来るまで12回ほど鳴り続けました。

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御食事処すぎの 焼肉定食

梶田18:07発三次行き1731D(キハ120-324)で三次へ。この日の夕食はホテル内の御食事処すぎのの焼肉定食としました。福塩線府中以北も残すところ、上下、三良坂、塩町の3駅のみ。最終日となる翌日にそれらの3駅を片付けます。

8/25 夏の終わりの芸備線駅めぐり

この日は芸備線の備後落合~三次間の駅を中心に巡りました

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芸備線3441D

新見を5:18発快速備後落合行き3441D(キハ120-330)で出発。乗客は自分以外に3人だけでしたが、いずれも旅行者風。途中からの乗降もないまま東城に到着しました。

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芸備線代行タクシー

この日は大雨のため、東城~備後落合間が運転見合わせ。タクシーによる代行輸送となっていました。乗客は自分含めて4人なので、タクシーは満席。

東城を出発し、10分弱で備後八幡へ。誰もいないだろうと思いきや、駅前では若者が一人乗車を待っていました。運転手さんが降りて満車の旨を説明し、配車の連絡をしてから、6:00に備後八幡を発車。「これから小奴可駅までずっと山道を走りますので揺れます。ご了承ください」との放送の後、一台がやっと通れるような狭い山道へと突入しました。6:08 内名着。橋を渡り、駅までの坂道をバックで登るプロの技術力には驚かされます。再び山道を走り、少し開けたところに出て6:20小奴可着。同じタクシーに乗っていた乗り鉄カップル?が「一番マトモなところに駅がある」と言っていました。

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代行タクシーで備後落合に到着

6:26 道後山着。運転手さんが連絡を取る間、1分ほど停車して乗客の方は写真撮影タイムとなりました。6:33 備後落合に到着。道後山を列車の定刻より7分遅く出たのに定刻より1分早く着くとは、いかに列車が遠回りしていて遅いかが分かるというものです。

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備後落合駅 ホーム

備後落合からは6:43発普通三次行き351D(キハ120-320)に乗車。代行タクシーに乗ってきた全員が乗り換え、それ以外に乗客はいませんでした。途中、比婆山から4人、備後西城から10人、学生が乗ってきたのでこちらの区間は通学需要が一応あるようです。

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高駅

昭和29年の庄原市成立まで存在した、旧比婆郡高村の駅で、昭和9年3月開業時の駅舎が今なお現役で使用されています。平成22年までは交換設備が残っていました。

駅前には商店や農協の建物があり、独立した村の玄関口だった頃を微かに偲ぶことができます。

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平子駅

高7:41発普通備後落合行き350D(キハ120-327)で平子へ。昭和27年2月に開業した駅で、国道183号に背を向けて旧道側に駅舎が設置されています。蔵風デザインの駅舎は平成6年改築。駅舎の隣には平子駅簡易郵便局があります。

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西城の街並み

平子から備後西城へ向けて歩く途中、西城の市街地を散策。駅からは西城川を隔てたところにある、古くからの市街地では、芸備線の橋梁が瓦屋根の街並みをかすめています。

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庄原市西城支所(旧比婆郡西城町役場)

備後西城駅の駅裏にある旧西城町役場は昭和54年竣工。役場の隣にはショッピングセンター、西城川の対岸には市民病院もありますが、駅はそれらには背を向けており、踏切を渡っての迂回が必要になります。

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備後西城駅

平成17年の合併で庄原市となった旧比婆郡西城町の玄関口、備後西城駅簡易委託駅で、旧事務室部分は店舗になっています。駅舎は昭和9年3月、庄原線の終点として開業した際に建てられたもの。前述のように市街地には背を向けていますが、西城紫水高校の最寄り駅として、通学時間帯は賑わいを見せます。

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山ノ内駅

備後西城9:28発普通三次行き355D(キハ120-327)で山ノ内へ。昭和29年の庄原市成立まで存在した、旧比婆郡山内西村の駅です。かつては木造駅舎がありましたが、解体されて待合所とホームのみになっています。駅前に建つ大木は開業時に植えられたものなのでしょうか。待合所周辺にはツチガエルがたくさんいました。

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七塚駅

45分ほど歩いて七塚へ。昭和29年の庄原市成立まで存在した、旧比婆郡山内東村の駅です。現庄原市域にはかつて山内北・山内東・山内西と「山内」のつく村が3つありました。このうち山内北村だけは鉄道が通っていませんが、亀井静香元議員の出身地だそうです。七塚もかつては有人駅でしたが、今はホーム上に待合所があるのみです。待合所よりも立派に見えるトイレは、平成10年4月に皇太子ご夫妻(現在の天皇皇后両陛下)が国営備北丘陵公園を訪問された際に当駅を使用されることになったので新築されたもの。利用頻度の少なさもあるのでしょうが、地元のシルバー人材センターの方によって美しく保たれていました。

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備後三日市駅

七塚12:19発臨時普通備後西城行き8356D(キハ120-327)で備後三日市へ。昭和5年に芸備鉄道の三日市停留場として開設され、国有化時に昇格した駅で、一見秘境駅のようにも思える寂しい所にあります。しかし、駅があるのは庄原市街の西の外れのため、5分も歩けば住宅街に出ます。ホームの佇まいからは山陰本線久代駅を思い出しました。

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備後庄原駅

30分ほど歩いて備後庄原へ。庄原市の代表駅で、大正12年12月に芸備鉄道の終点として開業しました。昭和8年6月の国有化で庄原線の駅となり、その際、現在の駅舎に改築されました。かつては急行も停車していた運行拠点駅だけあって、駅舎は天井の高い立派なものです。令和2年10月に「大正ロマン」をモチーフに改装され、バスターミナルが駅前に移設されました。駅前からは広島への高速バスも出ており、所要時間や乗り換えの手間を考えればそちらの方が便利でしょう。

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比婆山駅

備後庄原13:37発普通備後落合行き356D(キハ120-320)で比婆山へ。未確認生物ヒバゴンで有名な比婆山にちなんだ駅名を持つ駅で、昭和10年12月開業時は「備後熊野」を名乗っていました。比婆山伊邪那美が埋葬されたとの伝説のある地で、駅舎も熊野神社への参拝駅ということで社殿風の造りです。屋根の曲線が美しい駅舎ですが、駅前は交通量のそれなりにある国道なので撮影には注意が必要です。

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比婆山駅 駅名表示

車寄せに掲げられた駅名表示は古い時刻表を転用したもの。記載内容から岡山駅にあったものと推察されていますが、いつの時代ものかまでは分かっていない様子。盗難の危険だってありますし、このまま朽ちさせるよりは京都鉄博なり地元の博物館なり然るべきところで見やすく保存した方がいいように思います。

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八次駅

比婆山14:57発普通三次行き359D(キハ120-320)で八次へ。三次市街の東部にある駅で、駅名は昭和12年まで存在した旧三次郡八次村に由来します。駅舎は昭和50年代に改築されたもので、便所は封鎖されています。三次高校の最寄り駅のため、学生の利用が多くあります。

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神杉駅

八次16:30発普通備後庄原行き360D(キハ120-320)で神杉へ。大正11年6月に芸備鉄道の終点「塩町」として開業した駅で、昭和9年1月に現在の駅名になりました。寄棟造の駅舎は建物財産標によれば昭和8年12月改築。貨物取り扱いの名残で構内は広く、貨物ホームと農業倉庫も残っています。

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三次駅

神杉16:43発普通三次行き1729D(キハ120-326)で三次へ。備北地方の中心都市・三次市の代表駅で、芸備線は当駅を境に運行系統が分断されています。昭和5年に芸備鉄道の「十日市」として開業し、国有化時に「備後十日市」に改称され、昭和29年10月に現在の駅名になりました。駅舎は平成27年2月に改築されたもので、待合室は狭く、備北地方の中心駅という位置づけを考えるとお世辞にも立派な駅舎とは言えません。平成30年3月末までは三江線が分岐していました。

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下和知駅

三次17:29発普通備後落合行き364D(キハ120-324)で下和知へ。大正12年12月に「和田村」として開業した駅で、2年後に改称されました。かつては駅舎があったものの解体され、現在はブロック造りの待合所があるのみです。待合所とホームの間の空間からかつては、島式ホームだったことが分かります。駅前を国道183号が通っていますが、駅は国道より一段高い所にあります。

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肉玉焼き

下和知18:18発普通三次行き361D(キハ120-323)で三次へ。ホテルへ向かう前に駅前バスターミナルのたむ商店のお好み焼きで夕食としました。

8/24 東海道を西へ&伯備線の2駅に降りる

この日は翌日からの芸備線駅めぐりに備えて青春18きっぷで新見まで移動しました

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熱海で乗り換え

高田馬場4:38発山手線内回り0360G(クハE234-22)、品川5:10発東海道線小田原行き725M(モハE233-3402)、小田原6:22発東海道線熱海行き723M(クハE232-3526)、熱海6:49発東海道本線普通浜松行き425M(クハ210-5022)と乗り継いでひたすら西へ向かいます。途中、三島あたりからカメムシがリュックサックにひっついてきましたが、臭いが付くので触ってどこかへやったりできないのが辛いところ。結局飛んで行くのを待つしかありませんでした。浜松9:23発東海道本線豊橋行き927M(クハ312-2319)、豊橋10:02発東海道本線快速大垣行き2515F(クハ312-307)、大垣11:42発普通米原行き223F(クハ312-414)とさらに乗り継ぎ、米原近江牛大入飯を購入して昼食としました。

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山陽本線975M

米原12:20発新快速姫路行き3263M(サハ223-2027)、姫路15:03発普通播州赤穂行き975M(クハ222-2002)、相生15:25発普通糸崎行き1323M(クハ115-1244)と乗り継いで岡山へ。

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美袋駅

岡山16:40発普通備中高梁行き1973M(クモハ115-1502)で美袋へ。朝から乗り続けて12時間以上、ようやく途中下車です。昭和47年4月に総社市編入された旧吉備郡昭和町の中心部にあった駅で、昭和27年の昭和町成立前は日美村でした。
駅舎は大正14年5月開業時に建てられたもので、大きく改装されることなく昔ながらの姿を今に伝えています。平成19年12月には国の登録有形文化財になりました。

その佇まいからロケに使われることも多く、平成29年にはサカイ引越センターのCMに登場しました。

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豪渓駅

美袋18:03発普通和気行き1846M(クモハ115-1502)で豪渓へ。日本五大名峡の一つ「豪渓」の最寄り駅ですが、かなり離れています。大正14年2月に「宍粟(しさわ)」として開業し、昭和10年5月に現在の駅名になりました。国道180号と高梁川に背を向けた立地で、駅前はタクシー会社と駐在所があるだけの集落です。

昭和55年3月改築の簡易駅舎は、伯備線ではよく見かけるタイプのものです。

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夜の新見

豪渓18:30発普通新見行き1975M(クハ115-1032)で新見へ。新見に泊まるのは三度目ですが、毎回泊まるホテルが違っていて、今回はビジネスCITYホテルに宿泊。翌朝は芸備線始発で早くも新見を後にする予定です。

 

 

8/6 真夏の鹿沼へ

鹿沼市役所が新庁舎が移転し、現庁舎が役目を終えると聞き、未訪問駅の訪問も兼ねてこの日は栃木県鹿沼市へ。

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急行で新鹿沼

高田馬場7:33発山手線外回り0717G(クハE234-5)、日暮里7:51発常磐線土浦行き2337M(モハE530-2018)、北千住8:04発急行久喜行き616K(2045)、東武動物公園8:51発区間準急南栗橋行き3601(11603)、南栗橋9:26発急行東武日光行き35(6268)と乗り継いで新鹿沼へ。6050系の急行も乗れるうちにたくさん乗っておいた方がいいでしょうね

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新鹿沼駅

鹿沼市中心部の南側に位置する新鹿沼駅東武における鹿沼市の玄関口。JR鹿沼駅よりも市役所に近く、特急も停車するので利用者数はJR鹿沼駅を少し上回っています。

駅舎は昭和4年開業時に建てられたもので、新栃木とは双子のように似たデザイン。築90年を越える古いものですが、改装されて大事に使われています。

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鹿沼の洋館

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駒橋歯科医院

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大谷好美館

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O邸洋館

市街散策へ。鹿沼市は古くから栄えた都市だけあって、中心部には近代建築が多く残されています。大谷好美館は明治37年に建てられた写真館、隣に立つ駒橋歯科医院も大正14年に建てられたもので、長い歴史を重ねてきています。鹿沼市の有名な近代建築の一つ、岡本歯科医院は更地になって奥の石蔵だけが残っていました。

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鹿沼市役所

鹿沼市役所は本館と議会棟が昭和33年、東館と新館が昭和45年の建築といずれも老朽化が進んでいます。敷地内の駐車場跡に新庁舎を建設し、今年8/10より市民課などを新庁舎に移転。続いて8/16に残りの課を新庁舎と仮庁舎に移転して、旧庁舎は役目を終えました。今後、旧庁舎を解体し、跡地に新庁舎議会棟と駐車場が整備される予定です。

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鹿沼市役所 仮庁舎

北鹿沼駅まで歩いて向かう途中、道沿いに仮庁舎がありました。市役所からは少し離れたところにあるため、全体完成までの2年弱の間とは言え色々と不便がありそうです

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北鹿沼駅

坂田山の新興住宅地を抜けて北鹿沼駅へ。鹿沼市街の北側にある駅で、周囲は田園地帯です。昭和6年開業時に建てられた木造駅舎は、平成21年5月頃に現在の駅舎が使用開始されると解体されました。日光線内ではよく見かける「最低限度」といった感じの簡易駅舎です。

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入換作業中のC11 325

北鹿沼12:46発普通東武日光行き919(24442)で下今市へ。6050系を中心に撮影。構内ではSL大樹用のC11やDE10も入換をしていました。

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日光鶏めし弁当

撮影の合間にホームの売店で駅弁「日光鶏めし弁当」を購入。日光・下今市は観光地だけあってか私鉄の駅には珍しく駅弁が充実しています。できれば6050系ボックスシートで食べたかったものですが、ホームで行き交う列車を見ながら食べる温かいお弁当もまたいいものです。

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リバイバルカラーの6179F+6162F

この日はリバイバルカラーの2編成も4両編成を組んで運用に入っていました。時間帯によっては逆光になりますが、構内の側線に入ってくれると細部の撮影がしやすいのでありがたいです。

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区間急行で帰路へ

15:43発区間急行南栗橋行き56(6172)で帰途に就きます。途中、下小代かどこかからハイキング帰りと思われるジジババの集団が乗ってきましたが、ノーマスクで酒盛りを始めてマナーの悪さが目に余りました。テレビなどではとかく若者が感染対策をしていないだの槍玉に上げられがちですが、実際には年齢関係なくこういう人たちはいるのでしょう。

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8

南栗橋では乗ってきた6050系の回送を見送ってから、17:23発区間準急浅草行き3604(11453)に乗車。東武動物公園で17:43発急行中央林間行き1775S(8016)に乗り換え、北千住18:23発快速上野行き1850H(サハE231-198)と日暮里18:34発山手線内回り1880G(モハE235-117)と乗り継いで帰宅しました。

8/1 真夏の北総線・成田スカイアクセス線駅めぐり

この日は北総線の駅を巡りました。京成高砂~印旛日本医大北総線には京成成田スカイアクセス線の列車も乗り入れており、東松戸、新鎌ヶ谷千葉ニュータウン中央、印旛日本医大に停車します。それぞれ別の会社の路線ということになっているので、今回は別々にカウントしました。

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成田空港行き

高田馬場6:31発山手線外回り0661G(サハE235-10)と日暮里6:51発特急成田空港行き6A21(3026-1)でまずは京成高砂へ。橋上の窓口で北総線一日乗車券を購入。

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東松戸駅

京成高砂7:23発アクセス特急成田空港行き611K(3056-1)で東松戸へ。平成3年3月、北総・公団線京成高砂~新鎌ヶ谷間の開通に合わせて武蔵野線との交差位置に開業した駅で、平成10年3月に武蔵野線の駅が開業して乗換駅となりました。ホームは4階にあり、元は島式1面2線でしたが、成田スカイアクセス線の開業に合わせて2面4線化され、通過待避・緩急接続が可能となりました。駅前には広々としたロータリーが設けられていますが、駅裏には駐車場などがあるのみで、そちらには駅名表示もありません。

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新鎌ヶ谷駅

東松戸7:43発普通印旛日本医大行き617T(5526-8)で新鎌ヶ谷へ。昭和54年3月、北初富~小室の第一期区間が開業した際に駅格上げを前提とした信号所として開設され、平成3年3月の京成高砂~新鎌ヶ谷の第二期区間開業時に駅に昇格しました。それまでの北総・公団線(←北総開発鉄道)は新京成の北初富駅を起点としており、列車は松戸まで直通していました。平成4年7月に新京成にも新鎌ヶ谷駅が開業すると、相互直通運転は停止され、北総の北初富~新鎌ヶ谷の連絡線(0.8km)は廃止されました。連絡線は後に撤去され、跡地は保線基地に転用されています。ちなみに東武野田線の駅が開業したのは平成11年11月で、3線が乗り入れる重要な駅でありながら、現在の姿になったのは比較的最近のことなのです。

3社の中で最も古い北総線の駅は2面4線の高架駅で、高架下に駅舎があります。相互直通運転を行っていた歴史的経緯から長らく新京成と駅舎を共用していましたが、高架化を前に令和元年6月に新京成の駅舎が分離されました。

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千葉ニュータウン中央駅

鎌ヶ谷8:05発アクセス特急成田空港行き601K(3153-1)で千葉ニュータウン中央へ。昭和59年3月、北総線小室から伸びてきた住宅・都市整備公団千葉ニュータウン線の終点として開業し、昭和63年4月の「北総・公団線」への改称を経て、平成16年7月の住宅・都市整備公団独立行政法人移行によって、設備の所有権が千葉ニュータウン鉄道に移りました。

印西市の市役所などは成田線木下駅周辺にありますが、実質的には当駅が印西市の中心で、イオンモールなども隣接しています。駅舎は掘割の橋上駅で、隣接して成田新幹線の千葉ニュータウン駅が建設される予定だったため、用地は広く取られています。

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印旛日本医大駅

千葉ニュータウン中央8:32発アクセス特急成田空港行き707K(3055-1)で印旛日本医大へ。平成12年7月に北総・公団線の終点として開業した駅で、当時の所在地は印旛郡印旛村でした。印旛村は平成22年3月に印西市編入されて消滅しました。同年7月に成田スカイアクセス線が開業し、当駅は京成との共用駅になっています。駅名だけ見ると日本医大の最寄り駅のようですが、実際にあるのは付属の日本医大千葉北総病院で、紛らわしいんじゃないかなと思います。開業前の仮称は「印旛松虫」で、聖武天皇の娘・松虫姫(不破内親王)ゆかりの伝説に由来します。

駅舎は展望台もある凝った造りで、関東の駅百選に選定されています。

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印西牧の原駅

印旛日本医大8:54発普通羽田空港行き874K(3033-4)印西牧の原へ。平成7年4月に北総・公団線の終点として開業した駅で、ホームは2面4線。折り返し列車も設定されています。コンコースにコンビニが入居し、駅前には商業施設がありますが、駅自体は少し閑散としています。開業前の仮称は「印西草深(いんざいそうふけ)」で、牧の原の駅名は江戸幕府が軍馬育成のために設置した放牧場に由来します。

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千葉ニュータウン中央駅 ホーム

印西牧の原9:19発普通羽田空港行き928N(7501-8)で千葉ニュータウン中央へ。先程は時間の都合で取れなかったホームの細部を撮影。

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小室駅

千葉ニュータウン中央9:41発普通羽田空港行き924N(9118)で小室へ。船橋市最北端の小室町にある駅で、北総開発鉄道第一期区間の終点として昭和54年3月に開業しました。2面3線の橋上駅舎で、南側は開発されていないため、出入口は北側のみです。

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小室駅前の未成道?

かつての終着駅という割には拠点性も無く、周辺は長閑な郊外といった趣。詳細は不明ですが、つくりかけで放置されたと思しき道路が夏草に覆われて朽ちていました。

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白井駅

小室10:07発普通羽田空港行き930N(7503-8)で白井へ。平成13年4月に市制施行した白井市の代表駅です。昭和54年3月に駅が開業した当時は印旛郡白井町でした。ナシが特産の白井市北総線の開業後、人口が急激に増加しました。掘割の橋上駅ですが、開業時期ゆえか千葉ニュータウン中央などと比べるとシンプルなデザインです。

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西白井駅

10:26発普通羽田空港行き1022N(7808)で西白井へ。千葉ニュータウン最西部にある駅で、こちらも掘割の橋上駅。千葉ニュータウンで最初に街びらきされたエリアで開発も進んでいるためか、駅の利用者数は市の代表駅である白井駅よりも多いです。

かつては車庫が併設されており、印旛車両基地への移転後も保線基地として一部が使用されています。

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大町駅

西白井10:52発普通羽田空港行き1032N(9808)で大町へ。平成3年3月に開業した駅で、市川市動植物園の最寄り駅です。市川市最北端の大町地区(昭和24年に編入された旧大柏村大字大町新田)に位置し、線内では最も乗降客数の少ない駅です。比較的運賃の安い新京成くぬぎ山駅まで徒歩10分と近いのも影響しているのでしょう。

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松飛台駅

大町11:18発普通羽田空港行き1020N(9107)で松飛台へ。都立八柱霊園の最寄り駅で、駅名は逓信省航空局中央乗員養成所の飛行場の滑走路があった歴史に由来しています。松戸市紙敷と市川市大町に跨るように立地しています。

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秋山駅

松飛台11:40発普通羽田空港行き1126N(7308)で秋山へ。掘割の半地下駅で、出入口だけ見ると地下鉄の駅のようです。駅前にはマンションが立ち並び、利用者数は近年まで増加を続けていました。松戸市昭和の杜博物館の最寄り駅で、気になってはいましたが、炎天下を歩きたくなかったので今回はパスしました。

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北国分

秋山12:06発普通羽田空港行き1120T(5521-1)で北国分へ。昭和9年市川市成立まで存在した旧東葛飾郡国分村の北部にある駅で、地名は下総国分寺があったことに由来します。ここも掘割の半地下駅で、ホームは北総線で最も深い所にあります。市川市松戸市の境界部分に位置し、堀之内貝塚二十世紀梨発祥の地の最寄り駅です。

作家・井上ひさしはかつて北国分一丁目の豪邸に住んでいましたが、場所的には矢切駅に近い場所だったようです。ただし、彼が住んでいたのは昭和50年4月から62年3月なので、その頃にはまだ北総線は開業していませんでした。

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矢切駅

北国分12:28発普通羽田空港行き1134N(9128)で矢切へ。松戸市矢切地区の南東部にある、島式2面4線の地下駅です。開業前の仮称は「栗山」でした。有名な矢切の渡からは少し離れています。駅構内はロケ地として使用されることが多く、映画「シン・ゴジラ」には駅名標を付け替えて泉岳寺駅として登場しました。

あまりの暑さに飲み物が無くなりかけていたので駅前のマツモトキヨシで麦茶を購入。

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新柴又駅

矢切12:49発普通羽田空港行き1274K(3033-8)で新柴又へ。北総線の自社管理駅では唯一東京都内にある駅で、発車メロディは『男はつらいよ』のテーマ曲が使用されています。ここまで続いてきた地下駅とはうって変わって3階建ての高架駅で、高架下にはスーパーマーケットが入居していますが、いまいち賑わいには欠けます。騒音が問題となったため、当駅の前後の区間には高い防音壁が設けられており、通過列車も速度制限を受けます。

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金町線を踏切で撮影

新柴又13:32発普通羽田空港行き1224N(9118)で京成高砂へ。これにて北総線スカイアクセス線は全駅制覇! まだまだ早い時間なので、踏切まで歩き、金町線の列車を撮影。この日は3524Fと3516Fが運用に入っていました。

京成高砂14:13発普通京成上野行き1200(3013-2)で堀切菖蒲園へ。少し駅撮りをしてから、15:39発普通京成上野行き1408(3006-3)で日暮里へ。日暮里からは15:52発山手線内回り1500G(モハE235-32)で帰りました。

7/23 真夏の西武秩父線・池袋線・新宿線駅めぐり

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吾野駅

飯能からは10:43発各停西武秩父行き5019(4002)で吾野へ。池袋線の終点かつ秩父線の起点ですが、昭和44年10月の秩父線開業以降は中間駅のようになっています。昭和31年に飯能市編入された旧秩父郡吾野村に位置し、山に囲まれたその立地は、飯能までの平野部とは別世界の趣があります。駅は集落を見下ろす高台にあり、駅前にあるのは奥武蔵美晴休憩所のみです。

駅舎は平成9年4月改築の2階建てで、2階は宿直室になっているのか、ホーム側のベランダに布団が干されていました。

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正丸駅

吾野11:36発各停西武秩父行き5021(4014)で正丸へ。昭和44年10月、秩父線開業に際して設置された駅で、西武鉄道の中では最も利用者数の少ない駅ですが、さすが西武だけあって有人駅です。飯能市秩父郡横瀬町を隔てる正丸峠の手前にあり、駅を出た列車は全長4811mの正丸トンネルで峠を貫いていきます。開業時に建てられた駅舎は、片流れ屋根の個性的なモダニズム駅舎。知られざる名駅舎の一つだと個人的には思います。駅前は広々としていますが、売店兼食堂のほかは民家がポツポツとあるだけの寂しいところです。

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武蔵横手駅

正丸11:58発各停飯能行き5028(4001)で武蔵横手へ。昭和4年9月の武蔵野鉄道吾野開業時に開設され、昭和29年10月に廃止されたものの、秩父線開業時に信号場として復活し、翌年駅として再開業したという経緯を持つ駅です。駅舎はおそらく昭和45年2月の再開業時に建てられたもの。日高市の山間にあり、駅前を国道299号が通っています。

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高麗駅

武蔵横手12:47発各停飯能行き5030(4113)で高麗へ。日高市のこま武蔵台ニュータウンにある駅で、駅名は昭和30年の入間郡日高町成立まで存在した高麗村に由来します。高句麗からの渡来人ゆかりの高麗神社への最寄り駅であるため、駅前には朝鮮伝統の道祖神「将軍標」が建てられています。駅舎は昭和52年8月に改築されたものと思われます。

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元加治駅

高麗13:23発各停飯能行き5032(4021)と飯能13:34発準急池袋行き4130(40355)を乗り継いで元加治へ。大正7年に荷扱所(貨物駅)として開業し、大正15年に一般駅に昇格した歴史を持つ駅で、平成11年から21年までの10年間は西武で唯一の無人駅でした。昭和42年4月に入間市編入された入間郡西武町の駅で、今も西武小学校などにその地名を残しています。駅舎は平成2年6月に改築されたもので、跨線橋で島式ホームと連絡しています。

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仏子駅

元加治13:48発急行池袋行き2148(2364)で仏子へ。飯能市から西武町への編入を経て入間市編入された仏子地区にある駅で、各ホームに面してそれぞれ改札口が設けられています。メインは上りホーム側の南口ですが、駅前は手狭です。相対式ホームに挟まれた中線があり、入間基地航空祭の際などに増発される入間市折返しの列車はこの中線を使って折り返します。

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入間市駅

仏子13:59発準急池袋行き4132(40504)で入間市へ。昭和41年に市制施行した入間市の代表駅で、昭和42年4月まで「豊岡町」を名乗っていました。入間郡豊岡町は昭和31年の武蔵町成立まで存在した町で、武蔵町は入間町と改称したうえで市制施行しています。市の代表駅だけあって商業施設が併設され、南口駅前にはマンションが立ち並んでいますが、北口駅前にはロータリーと駐車場があるのみです。駅舎は昭和49年4月に橋上化されたもので、平成4年5月に増改築されています。

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稲荷山公園駅

入間市14:14発各停池袋行き5110(2371)で稲荷山公園へ。昭和8年4月開業時は1面1線の簡素な造りだった駅で、昭和43年11月の複線化時に相対式2面2線に変更されました。

駅舎は昭和63年改築。各ホームの入間市寄りに地平駅舎が設置されており、ポプラ(コンビニ)が併設されている上りホーム側の北口駅舎の方がメインと言った趣。航空自衛隊入間基地や稲荷山古墳を擁する稲荷山公園の最寄り駅です。

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武蔵藤沢駅

稲荷山公園14:24発急行池袋行き2150(6611)で武蔵藤沢へ。昭和31年の武蔵町成立まで存在した旧入間郡藤沢村の駅で、平成20年2月に橋上化されました。橋上化から10年以上が経ちますが、新設された東口駅前はまだまだ開発途上といった趣です。

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狭山ヶ丘駅

武蔵藤沢14:37発準急池袋行き4134(20808)で狭山ヶ丘へ。昭和30年に所沢市編入された旧入間郡三ヶ島村の駅で、「元狭山」駅として開業し、「三ヶ島村」への改称を経て昭和8年に現駅名になりました。駅舎は昭和45年6月に橋上化されたもので、駅前と共に少し昔の郊外ニュータウン駅といった風情が漂っています。

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小手指駅

狭山ヶ丘14:50発準急池袋行き4136(38503)で小手指へ。昭和41年に「小手指ヶ原信号所」として開業し、昭和45年11月に昇格した駅で、大正時代に西所沢駅が「小手指」を名乗っていた時期があるため、2代目の駅と言うことになります。橋上駅舎は昭和54年3月建設、木が茂っていたりロータリーの位置の都合でなかなか写真が撮りづらいです。

車両基地があることから日中も含めて多くの列車が折り返します。池袋線はこれに手全駅制覇。続いて新宿線の未訪問駅を片付けにかかります。

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航空公園駅

小手指15:12発準急池袋行き4138(40401)と10分遅れの所沢15:12発急行本川越行き2665(2541)を乗り継いで航空公園へ。昭和62年5月に開業した、西武で2番目に新しい駅で、関東の駅百選に選定されています。日本における航空発祥の地の駅ということで、駅舎は複葉機アンリ・ファルマンをイメージしたデザインになっているそうですが、航空機には詳しくないのでどこをどうイメージしているのかピンときませんでした。

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新所沢駅

4分遅れの航空公園15:33発急行本川越行き2667(30701)で新所沢へ。昭和13年に「所沢飛行場前」として開業し、防諜を目的とした「所沢御幸町」への改称を経て、昭和26年6月に現在地に移転の上「北所沢」に改称され、昭和34年に現在の駅名になりました。

駅舎は昭和37年に西武で初めての橋上駅舎となりましたが、平成8年に1面2線から2面4線への拡張工事が行われて改築されました。

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入曽駅

3分遅れの新所沢15:57発急行本川越行き2669(30706)で入曽へ。明治28年3月、川越鉄道が所沢から川越(現:本川越)までを開業させた際に開設されたという古い歴史を持つ駅で、昭和29年の狭山市成立まで存在した旧入間郡入間村に位置します。

各ホームに面して地平駅舎が設けられており、東口は昭和48年6月改築、西口は平成8年2月開設。これまで大きな再開発が行われてこなかったため、ローカルな雰囲気を残しています。

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狭山市駅

2分遅れの入曽16:09発各停本川越行き5645(2260)で狭山市へ。狭山市の代表駅で、明治28年に「入間川」として開業し、昭和54年3月に市名に合わせて改称されました。狭山市成立前の所在地は入間郡入間川町です。橋上駅舎は平成22年3月改築。それまでは東口に駅ビルが、西口に地平駅舎がありました。

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新狭山駅

4分遅れの狭山市16:34発各停本川越行き5647(20854)で新狭山へ。川越狭山工業団地への企業入居に伴い、昭和39年11月に開業した駅で、当初は1面1線でしたが、昭和41年に橋上化されて2面2線に拡張されました。狭山市成立前の旧入間郡富村の旧村域に位置しています。北口駅前にはマクドナルドと餃子の満州が併設されています。

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南大塚駅

5分遅れの新狭山16:46発急行本川越行き2673(2058)で南大塚へ。かつては貨物線である安比奈線が分岐していた駅で、昭和55年12月に橋上化されています。昭和30年に川越市編入された旧入間郡大東村(昭和18年田村と日村が合併)の駅で、駅名は明治の町村制で大田村が成立するまで存在した南大塚村に由来します。

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本川越駅

南大塚17:09発急行本川越行き2675(2008)で本川越へ。西武新宿線の終着駅で、明治28年3月に川越鉄道川越駅として開業しました。川越市(開業時は入間郡川越町、大正11年に埼玉県下初の市制)で最も歴史の古い駅ですが、昭和15年国鉄川越線が開業した際に駅名を譲って改称されています。昭和28年3月に現在地に移転し、平成2年8月にホームが現在の姿になり、翌年9月に現駅ビルがオープンしました。写真の西口は平成28年2月新設。せっかくなので街並みでも見ていきたいところですが、暑さで疲れ切っているので、一駅だけ残した久米川駅だけ降りて大人しく帰ることにします。

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久米川駅

本川越17:27発急行西武新宿行き2694(2053)で久米川へ。昭和2年に日本土地住宅から土地の提供を受けて開業した駅で、開業時点では周囲に雑木林と畑しかありませんでした。日本土地住宅は周辺の大規模分譲開発を計画していましたが、杜撰な経営によってその計画は頓挫し、代わりにボーイスカウトの野営地などとして使われることになりました。宅地化が進んだのは戦後で、昭和47年には橋上化も計画されましたが、身体障碍者団体からの反対もあり、話し合いの結果、昭和56年12月に福祉モデル駅として地平駅舎に改築されました。橋上化される駅にはエレベーターが設置されるのが当たり前になった現代からすると隔世の感のある話ですが、現状までには多くの人の努力があったことでしょう。

北口は平成22年に改築され、平成25年には構内にエレベーターも設置されました。

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急行西武新宿行き

久米川駅の撮影を終え18:03発急行西武新宿行き2696(2456)に乗車し、高田馬場へ。西武新宿線はこれにて全駅制覇となり、西武で未訪問なのは残すところ多摩川線のみとなりました。多摩川線はフリーきっぷ類が充実していないのが悩ましいところです。