12/9 日本一本数の少ない駅へ&廃駅と庁舎を求めて日向をドライブ
日向・大隅ドライブ旅、二日目は夜明け前の延岡からスタート。6時前に宿を出発し、暗い道を走って延岡から二駅目の日向長井へ。
西南戦争の際、西郷隆盛が新政府軍による包囲を突破して退却したことで知られる、可愛岳の麓にある駅です。相対式2面2線の交換駅で、駅舎はありません。
駅前は小さな集落で、郵便局もありますが、時間が時間だけにひっそりと静まり返っています。
一見何の変哲もない駅のように見えますが、実はこの駅、「日本で最も停車本数の少ない駅」の一つなのです。日豊本線のうち大分・宮崎県境の佐伯~延岡間は列車の本数が非常に少なく、特に宗太郎・市棚・北川・日向長井・北延岡の5駅には下り列車が朝一本、上り列車が朝夕二本のみしか停車しません。列車での駅めぐりをする上での「鬼門」とも言うべきところです。今回は日向長井に車を置いて朝の列車で市棚まで往復することにします。
日向長井6:21発普通佐伯行き2760M(クハ787-5)で市棚へ。この区間を走る列車は特急用車両が間合い運用されています。4両編成のうち乗車可能なのは先頭車両だけで、乗客は他に一人だけでした。車内で切符を買いましたが、車掌さんもこんな変な区間だけ乗車する若者をさぞや不思議に思ったことでしょう。
市棚に着いた時はまだ暗かったものの10分もすると明るくなってきました。県境の宮崎県側にある駅で、構内は2面3線。ここも駅舎はありませんが、代わりに公衆便所と一体化した待合所があります。駅前の集落は日向長井より若干大きく、平成30年春のダイヤ改正までは当駅で延岡方面に折り返す列車が3往復設定されていました。減便前の平成27年度の1日平均乗車人員は13人、減便は沿線住民の鉄道離れを急加速させたことでしょうね。
下りの始発兼終電である市棚7:03発普通延岡行き2761M(クロハ786-11)で日向長井へ。乗客は普通車に学生3名とグリーン車に鉄道ファンらしきおじさん1名、日向長井で自分と入れ違いに女性と男子学生が乗車しました。一日一本の列車は学生のために存続している存在だというのがよく分かります。
2761Mは上り特急にちりん2号の通過を待って発車していきました。
すっかり明るくなった日向長井駅を撮影。駅前から高台の道路へ上がる階段を発見したので登ってみましたが、最近は使われていないのか荒れた様子でした。上から見下ろすと旧駅舎の台座部分に待合所が建てられている様子がよく分かります。
日向長井駅を後に東九州道と北方延岡道路、神話街道を40分ほど走って高千穂鉄道槙峰駅跡へ。旧北方町から日之影町に入ってすぐのところにある駅で、木造駅舎が廃止後も残っています。旧事務室部分は今も公民館として使われているようですが、待合室部分は物置となっているようです。
レールや信号設備などは完全に撤去されているものの、ホームはほとんど手つかずで、駅名標や当時の時刻表も残っています。高千穂線は廃止されて12年になりますが、今も残っている駅が多く、また機会をつくって全線走破してみたいものです。今回はこれがメインではないので、見るのは木造駅舎の残る駅に留めました。
駅の延岡方には高千穂線のRC橋梁と大正時代に架けられた道路橋が並んでいます。気を付けて川に降りれば橋をいい感じに撮れそうですが、これも時間が無いので今回は道路から見るに留めました。
続いて日之影町役場へ。川沿いのわずかな平地に開けた市街地の中に、昭和31年に建てられ、44年から47年にかけて増築された古い庁舎があります。こちらも新庁舎を建設中で、新庁舎の完成は来年1月を予定。この庁舎の余命もわずかです。
今回は槙峰駅と役場を見ただけでしたが、次来る時は日之影温泉に泊まって二日くらいかけて高千穂線の遺構を巡りたいものです。
神話街道と延岡北方道路で延岡市内に戻り、曽木駅へ。昭和48年に増築された木造駅舎が残っています。こちらも旧事務室部分が公民館として使用されており、そのおかげで生きながらえているようですが、待合室部分は壁が剥がれるなど荒れた様子でした。槙峰駅とは違い、ホームの方はどこにあったのか分からないくらいに消え失せていました。比較的痕跡の残っている高千穂線ですが、延岡市内では跡地の整地が進んでいて、自治体ごとでの温度差を感じます。
予定にはありませんでしたが、続いて北方総合支所へ。平成18年2月に延岡市に編入された旧北方町の役場で、かつての最寄り駅は川水流駅。北方町は全国で唯一、干支による住居表示があり、役場の住所は「北方町卯682番地」。庁舎はおそらく昭和52年の竣工で、現在は会議室等のみ使用されているようです。
延岡市中心部を素通りして門川町役場へ。暖色のタイルが渋い庁舎は昭和43年11月に建てられたもので、63年3月に増改築されています。庁舎前の蘇鉄はいかにも南国宮崎といった感じ。こちらもご多分に漏れず新庁舎を建設中で、完成は来年3月末を予定しています。
役場の近くには大正10年に建てられたという旧篠原医院が残っています。廃業して久しいようですが、今も住宅として使われている様子で、状態は良好です。
日向市を素通りして都農町に入り、有名店・田舎家のチキン南蛮定食で昼食。児湯エリア一位に選ばれたこともある人気店で、冷凍用が都農町のふるさと納税返礼品になるほどの名店です。ボリュームたっぷりで、これまで食べたチキン南蛮の中で一番ジューシーでした。
腹ごしらえの後は児湯郡都農町役場へ。増築を繰り返しているようですが、かなり年季の入った庁舎。古いものの耐震化されており、今のところは建て替え計画もないようです。都農町の町制施行は大正9年8月1日、今年で町制施行百年を迎えました。役場と同じ敷地内にはこれまた年季の入った中央公民館と公会堂(塩月記念館)があります。
都農町内で給油してから川南町役場へ。三本木原・白河矢吹と並んで日本三大開拓地として知られている川南開拓地の町で、役場のある中心部は「トロントロン」という変わった通称でも知られています。オーソドックスなスタイルの庁舎は昭和49年竣工。裏手で新庁舎の建設が進められています。
木城町を抜けて国富町に入り、旧高岡町へと向かう途中、架け替えの終わった本庄橋を通りました。橋というのは建物と比べると目立たず地味なのか、ひっそりと役目を終えることが多いものですが、川の両岸には「本庄橋62年間ありがとう」という看板が。地元からはかなり愛された橋であったようです。
川南町から一時間ほどかけて高岡総合支所へ。昭和51年2月11日竣工の庁舎は改装されて、内部には図書室も設置されています。ホールには町民から寄付されたペンギンの剥製がありました。南アフリカでのマグロ漁の際に釣り針に引っかかってしまったものだそうで、近くには水族館も動物園もありませんから、寄贈された当時はさぞかし珍しかったことでしょう。
30分ほど走って小林市野尻庁舎へ。タイルの汚れで凄味が出ている庁舎は昭和48年竣工で、平成5年増築。夜にはイルミネーションが点灯されるそうで、車寄せにプレゼントの箱が、屋上にトナカイが乗っています。
続いて都城市山田総合支所へ。昭和29年竣工となかなか年季の入った庁舎ですが、今年3月30日に総合支所が総合センターに移転したため、現在は使われていません。そのうち解体されてしまうのでしょうが、よくまあ令和まで生き延びたなと思えるような見た目です。昔はこんな庁舎ばかりだったのでしょうが、今ではすっかり少なくなりました。庁舎の隣には山田城本丸跡だという小高い丘があり、その頂上には戦没者忠霊塔が建てられています。
県境を越えて鹿児島県に入り、曽於市財部支所へ。財部町は曽於市旧3町の中で唯一鉄道の通る町ですが、曽於市本庁舎は旧末吉町役場に置かれています。
庁舎前の改築記念碑によれば、昭和41年10月1日竣工で、設計管理は衛藤建築設計事務所、施工は山岡建設株式会社。こういう碑があると庁舎について調べている身としては助かります。設置してくれた半世紀前の財部町職員と設計事務所、建設会社に感謝。
再び宮崎県に戻り、最後に三股町役場へ。途中、渋滞に巻き込まれましたが、何とか営業時間内に来られました。都城市街の延長上にあり、ほとんど一体化している三股町は北諸県郡唯一の町。平成の大合併の際は当時郡下にあった5つの町全てでのが合併協議会が設置されましたが、三股町は早々と離脱。三股町は単独町制を施行しているので、明治の町村制施行以来一度も合併を経験していない町ということになります。
庁舎の定礎には昭和45年10月末日の文字があり、今年で築50年を迎えましたが、内部は改装されていて古さを感じさせませんでした。
宿へ向かう前に地域共通クーポンを利用し、焼肉なべしまのカルビ&ロースセットで少し早めの夕食。ご飯お代わり自由でサラダバーも付いていてお腹いっぱいになりました。実は前日の宿で6000円分ものクーポンを受け取っており、使いきれるか不安でしたが、昼食と給油、夕食、翌日分の食料調達で使い切ることができました。