12/10 庁舎を求めて大隅半島をドライブ
日向・大隅ドライブ、最終日は大隅半島を中心に庁舎と近代建築を巡りました。
都城を7時に出発し、まずは30分ほどで曽於市大隅支所へ。起工は昭和33年3月20日、竣工は同年12月20日という古い庁舎です。平成17年に財部町・末吉町と合併して曽於市となった大隅町は昭和30年に岩川町・常吉村・月野村が合併して誕生した町で、「大隅」とだけ書くと大隅地方のどこか分かりにくいためか、道路標識などでは「大隅(岩川)」と表記されます。役場がある町の中心は岩川地区です。
大隅町唯一の鉄道であった志布志線は役場の裏手を通っていましたが、跡地は道路になっていて岩川駅跡は何も残っていません。その代わりと言ってはなんですが、有蓋緩急車ワフ29500が2両繋げて置かれています。車番は薄れて確認できませんでした。
続いて志布志市松山支所へ。昭和44年に建てられた庁舎は窓の形が凝っていて個性的ですが、意外と建築好きや庁舎好きの間でも注目されていないようです。志布志市と言ったら話題になるのは基本的に「鹿児島県志布志市志布志町志布志市役所志布志支所」のゲシュタルト崩壊ばかりですからね。
こんな建築、二度と作れないだろうし何とか建て替えられずに残ってほしいものですが。
大崎、東串良、鹿屋、錦江を通り過ぎて一時間半ほど走り、南大隅町役場へ。大隅半島の突端近くにある町で、錦江湾を挟んだ対岸は指宿市です。南大隅町は平成17年に根占町と佐多町が合併して誕生した町で、本庁舎は根占に置かれています。合併後は昭和48年竣工の旧根占町役場を本庁舎として使用してきましたが、今年11月24日より新庁舎での業務を開始。12月1日に旧庁舎お別れ式が行われました。役目を終えてから一か月も建っていませんが、旧庁舎には早くも足場が組まれ、解体の準備が進められていました。年末近くなってから新庁舎が完成した場合、多くは新年の開始と共に新庁舎での業務を開始、旧庁舎の解体まで時間があるものなので、解体までのスピードが速いと感じました。
こちらが業務開始したばかりの新庁舎。旧庁舎が解体されて初めて全体像が見えることになるでしょう。昨年1月29日に起工、設計は畠中設計。
予定では次は吾平に向かうはずでしたが、南大隅まで来る途中、錦江町大根占で「錦江庁舎解体工事」の文字を見て気になったので立ち寄りました。解体されていた建物は旧大根占土木事務所。昭和46年4月に建てられたもので、使われなくなって久しいようです。解体工事中とはいっても建物自体はほぼ手つかずでした。
錦江湾に別れを告げて内陸部に戻り、吾平総合支所へ。町名の読みは「あいら」で、村だった頃は「姶良」という表記でしたが、大姶良町(昭和16年に鹿屋町・花岡村と合併)や姶良郡との混同を避けるために昭和22年10月15日の町制施行時に「吾平」に表記を改めました。庁舎は昭和37年竣工の古いもので、なかなか味のある見た目をしています。正面に立っている像はおそらく神武天皇の父・ウガヤフキアエズで、吾平町の由来となった吾平山上陵に埋葬されているとの伝説があります。右手に電燈、左手に町章を印籠のごとく掲げているのが何ともシュールです。
庁舎を撮っていたら職員さんから「もしかして○○先生ですか?」と聞かれましたが、この建物について研究している先生でもいたのでしょうか。
次の肝付町役場へ向かう途中、鹿屋高山串良線沿いにバス廃車体が置かれているのを見つけ引き返しました。廃車体が置かれている転回場内は立入禁止で近付けなさそうでしたが、頑張れば望遠で撮れないこともなさそうです。ただ、手前に発車待ちのバスがいたため全体像は撮れず。敷地内には何やら生き物がいて、大きさ的に猫だろうと思いきや狸でした。毛づくろいをしたり餌を求めて歩き回ったり、すぐ近くに人間や車がいるのも我関せずといった感じでしたが、毛並みの悪さが痛々しかったです。人間が捨てた身体によくないゴミを食べてしまったのでしょうか。
しばらく待ってもバスが動きそうになかったので、いずれリベンジすることにして肝付町役場へ。肝付町は平成17年に高山町と内之浦町が合併して誕生した町で、昭和50年4月30日竣工の旧高山町役場を本庁舎として使用しています。設計は米永建築設計事務所、施工は山佐産業。築45年になりますが、内部はそれほど古そうではありませんでした。
続いて志布志駅へ。予定では中心部を散策する予定でしたが、とても時間が足りなさそうなので、昼食休憩に留めました。
県境を越えて宮崎県に戻り、串間市今町へ。ストリートビューで見たところ古い建物が多そうだったので少し歩いてチェックしておいた建物を撮影しました。
続いて串間市役所へ。昭和50年12月竣工で、時計付きの立派な見た目はさすが「市役所」という感があります。どちらかというと古い建物の方に分類されるのでしょうが、内部は最近の建物と遜色なく、まだまだ利用されていきそうです。
串間から飫肥へ向けての山越えの最中、日南市大窪で道路脇にワムを発見。車番はワム287592と読み取れました。昭和56年川崎重工製で、名古屋で検査を受けたようです。
飫肥を一旦通り過ぎて北郷へ。日南線駅めぐりの際、雨の夕暮れで微妙な写真しかなかった北郷駅を撮り直しました。滞在中にちょうど海幸山幸が通過。阿佐海岸鉄道ASA-301が引退した今となっては高千穂鉄道の唯一の生き残りです。
続いて北郷総合支所へ。こちらも日南線駅めぐりの際に撮影していますが、雨の夕暮れと言うことで悔いの残る結果になったのでリベンジすることに。昭和40年竣工のかっこいいモダニズム建築ですが、跡地を再開発して道の駅にする計画があるので余命は長くなさそうです。支所が移転して閉鎖されたのは平成28年12月19日ですからかれこれ4年は放置されていることになり、廃墟感も漂っています。
北郷の次は城下町飫肥へ。ここでは一時間ほど時間を取って散策。とは言っても城跡や博物館、武家屋敷を見ているとさすがに時間が足りないのでリストアップしておいた近代建築を中心に回ります。まずは鳥居下公民館。大正2年に旧鹿児島銀行飫肥支店として建てられた建物です。
続いて旧飯田医院。大正11年に建てられた趣ある洋館ですが、空き家となって荒れています。修復して活用する計画もあったそうですが、続報が無く今後が心配されます。
富田歯科医院。建物の感じからして実はそんなに古くないのかもしれませんが、右書きの旧字体が良い感じ。
旧梅村医院。大正14年築で、玄関の装飾が立派です。城下町らしい和風建築だけでなく洋風建築も一級のものが揃っているのは素晴らしいですが、街中に空き家がとにかく多いのが気にかかりました。
飫肥を後にし、最後に伊比井駅へ。日南線駅めぐりの際には日没後でマトモな写真が撮れなかったため再訪しましたが、今回も日没間際で前回よりマシとはいえやはり万全の状態ではありません。国道から階段を上がったところに建つコンクリ駅舎は昭和38年開業時のものです。
夕暮れの日南海岸を走って宮崎空港に戻り、車を返却してから宮崎ラーメンで夕食。19:30発ソラシドエア64便で羽田に到着したのは20:43。羽田空港20:58発エアポート急行成田行き2065K(3030-5)と品川20:27発山手線外回り2053G(モハE235-46)を乗り継いで帰宅しました。