まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

12/17 近代建築・庁舎を求めて勝北・美作・赤磐・御津・和気をドライブ

岡山ドライブ二日目は津山からスタート

楢公会堂

渋滞に巻き込まれながらも国道53号を走り、楢へ。明治の町村制以降長らく勝北郡(→勝田郡)勝加茂村だったところで、昭和30年1月1日の合併で一旦勝北町となったものの、同年4月1日には大字楢のみが津山市編入されました。作州街道が加茂川を渡る地点にあり、かつては物資の集散地として賑わったそうです。集落の中心には戦前に建てられた楢公会堂が残されています。

中国銀行楢支店

集落内にはもう一つ近代建築が残っており、こちらは旧銀行とのこと。小さな集落ながらも銀行の支店が設けられていた辺りにかつての繁栄ぶりが感じられます。

霧の日本原

霧の出る中、さらに国道53号を走り、やってきたのは日本原。平成17年に津山市編入された旧・勝田郡勝北町の東端、奈義町との境界にある地区で、奈義町側には陸上自衛隊日本原演習場が設けられています。「日本原」という地名については、日本全国を廻ったのち原野であったこの地に茶屋を開いた福田五兵衛という男が、行き交う旅人に日本各地の話を聞かせたことから、この茶屋が「日本廻国茶屋」と呼ばれるようになったことに由来すると言われています。

スワン美容室

そんな日本原にある近代建築がこちらのスワン美容室。おそらく戦前の建物で、切欠き部分は後から通路確保のために削ったものでしょう。そこを除けばなかなか均整の取れたカッコいい建物です。

中国銀行林野支店

日本原から勝央町経由で南下して美作市に入り、林野へ。古くは「倉敷」と呼ばれたところで、英田郡役所が置かれたこの地域の中心でした。しかし同じ県内の都窪郡倉敷町(現:倉敷市)と同名であったことから混同を避けるべく大正7年に英田郡倉敷町が英田郡林野町に改名されています。倉敷の地名は領地で集められた年貢の保管場所を意味する倉敷地に、林野の地名は当地がかつて属していた林野郷・林野保に由来します。林野町は昭和28年の合併で美作町となり、平成17年の合併で美作市となりました。林野町のかつての中心に残る煉瓦造りの建物は大正10年に妹尾銀行林野支店として建てられたもので、昭和59年まで中国銀行林野支店として使用されていました。その後は美作町(→美作市)歴史民俗資料館となったものの、現在は休館中。

中山吉祥堂

こちらは戦前に建てられたと思われる文具店。なかなか渋いです。林野にはもう一軒、映画館だった建物も残っているそうですが、帰宅してから存在を知りました。下調べが足りず消化不良気味なので、取り壊されたりしないうちにまた行かねばなりません。

湯郷温泉

続いて湯郷(ゆのごう)へ。白鷺が湯で足の傷を癒しているのを見て円仁法師が発見したことに始まると伝わる歴史ある温泉地で、昭和28年の美作町成立までは英田郡湯郷町でした。昭和期には歓楽温泉としての賑わいを見せたものの、平成に入ってからはスポーツ拠点・健康リゾートとしての路線にシフトしています。昭和期に歓楽温泉街として賑わったところは多くの場合、ブームが去って潰れたホテルの廃墟が目立つものですが、湯郷温泉に関しては健康路線への転換を図ってから街自体を綺麗にしているのか、廃ホテルは少なめです。

美作文化センター

温泉街の中心に建つ美作文化センターは定礎によれば昭和49年8月建築。旧町名および現市名のスケールが大きすぎるがゆえにちょっと大げさな施設名になってしまっていす。

旧湯郷郵便局

温泉街の一角にあるこちらの建物は湯郷郵便局の旧局舎。現役当時から蔵風の外観だったのか、転用後の改装でこうなったのかは不詳。

赤磐市吉井支所(旧赤磐郡吉井町役場)

湯郷を後に国道374号を南下して周匝(すさい)へ。平成17年の合併で赤磐市となった旧・赤磐郡吉井町の中心地で、町名は吉井川に由来します。昭和29年の吉井町成立までは赤磐郡周匝村でした。国道にも近い便利な立地の旧吉井町役場は昭和55年12月竣工。オーソドックスながら、左右対称で均整の取れた見た目をしています。駐車場の片隅にある色褪せた観光地図には平成3年に廃止された片上鉄道がそのまま表記されていました。

赤磐市吉井郷土資料館(旧仁堀尋常高等小学校)

役場敷地の奥に建つ吉井郷土資料館は昭和2年に仁堀尋常高等小学校として建てられたもので、戦後は仁堀小学校として昭和56年の閉校まで使用されました。昭和59年に横の長さを縮小して現在地に移築されています。ギャンブレル屋根やドイツ壁、通用口の持送りの柱などが美しい建物で、平成19年には国の登録有形文化財となっています。これからも末永く残されていくことでしょうが、ただ一つ残念なのは、正面に公民館があって全景を写せないこと。数十年後にやってくるであろう公民館の建て替えの際にはこの美しい建物を正面から堪能できるようにしてほしいものだと思います。

片上鉄道キハ311

周匝を後にし、菊ヶ峠へ。周匝(福田)と仁堀を隔てる峠のサミットにあるドライブインに片上鉄道で活躍したキハ311が保存されています。昭和28年に宇都宮車輌(富士重工の前身)で製造された気動車で、昭和60年まで活躍していました。兄弟車のキハ312は廃止まで活躍して現在は吉ヶ原で動態保存されています。一時期はボロボロになっていたそうですが、近年塗り直されて綺麗になっています。現役期間32年に対し、保存されてからは37年、すっかり峠の主といった感じです。この日の昼食はここのドライブインで摂る予定でしたが、月に2日しかない定休日にあたってしまったので先へ向かいます。

旧仁堀郵便局

峠を下って仁堀(にぼり)へ。昭和31年の吉井町編入まで赤磐郡仁堀村だったところで、先ほどの郷土資料館の建物も学校時代はこの村にありました。この地にある近代建築のうち一軒目は仁堀郵便局の旧局舎。昭和5年に建てられたもので、使われなくなってから相当の時間が経過しています。荒廃が著しくもはや原型を留めていません。廃郵便局というより郵便局の残骸といった方が適切でしょう。

web.archive.org


原型を留めていた頃の写真を見つけましたが、原型は立派なものだったようです。朽ちた廃墟も好きですが、原型の美しい建物の魅力にはやはり勝てません。原型が残っているうちに見たかったものだと思います。

旧自動車部品店?と踏切のあるガソリンスタンド

郵便局から少し下ったところが仁堀の中心で、診療所や出張所、直売所などがあります。その手前に古そうな建物がありました。タイヤの広告が多く貼られている辺り、自動車部品店か整備店の類だったのでしょうか。壁に描かれたゴリラは落書き? 向かいのガソリンスタンドにはなぜか踏切の警報機が置かれています。

旧戸川歯科?

仁堀にはもう一軒ある近代建築がこちら。戸川歯科の敷地内にあるので歯科の昔の建物でしょうか。綺麗になっているのであまり古そうには見えません。

中田の洋館

岡山中部縦貫道路で峠を二つ越えて岡山市北区建部町に入り、旭川を渡って中田へ。明治の町村制で建部村が成立するまでは御津郡中田村だったところで、なまこ壁の家々が立ち並ぶ集落の中に一棟だけ下見板張りの洋館が残っています。増築部で潰されているものの入口上部にドイツ壁と紋章のようなものが確認できます。外観からして郵便局か医院だったと思いますが、詳細は不明。

公会堂

中田を後に金川へ向かう途中、御津高津の道路沿いで古そうな建物を見つけました。見た目や貼り紙から見て公会堂(公民館)で間違いありませんが、いくら調べても情報が出てこないので、公会堂としては既に廃止されているのかもしれません。おそらく戦前の建物でしょう。

岡山市北区役所御津支所(旧御津郡御津町役場)

県道31号高梁御津線を走って金川(かながわ)へ。平成17年に岡山市編入された旧御津郡御津町の中心地で、旭川と宇甘(うかい)川の合流地点に町が形成されています。昭和28年の御津町成立までは御津郡金川町でした。北区役所御津支所となっている旧御津町役場は昭和37年10月15日建設、昭和42年3月6日・昭和46年10月31日・昭和57年3月27日の3度、増築が行われています。役場が建てられているのは旧金川小学校跡。

美津葉 醤油ラーメン 焼きめし

ちょうど昼時なので、金川の街中にある美津葉本店で昼食。昔ながらのおいしいラーメンでした。店名は町名の「御津」とかけているのでしょう。この御津(みつ)という地名ですが、御野(みの)郡と津高郡が合併して誕生した御津郡に由来する合成地名で、御津町は旧津高郡の町村から形成されています。

大内石油

宇甘川に架かる橋の北側にある大内石油は側面こそ改装されているものの、メダリオン風の装飾がある看板建築。

宇垣コミュニティセンターと忠魂碑

金川から少し南下して宇垣へ。昭和28年の御津町成立までは御津郡宇垣村だったところです。宇垣コミュニティセンターは昭和13年に宇垣小学校講堂として建てられたもので、改装されているのでそれほど古くは見えません。宇垣小学校は明治34年4月に開校し、昭和47年3月に閉校となっています。その跡地に建つ忠魂碑の揮毫は陸軍大臣として軍縮を決行したことで知られる宇垣一茂陸軍大将によるもの。宇垣一茂も宇垣纏もこの宇垣村の出身ではありませんが、宇垣姓のルーツはこの宇垣村だと言われています。

旧熊山町立可真小学校講堂

宇垣を後に県道53号御津佐伯線で再び赤磐市に入り、桜が丘ニュータウンを抜けて可真へ。昭和28年の熊山町成立まで赤磐郡可真村だったところです。熊山老人憩の家の隣に旧可真小学校の講堂が残っています。明治20年開校、昭和63年閉校で、窓が大きく開放的な見た目からして戦後の建物でしょう。敷地内では二基の顕彰碑が茂みに埋もれていました。

佐伯区公民館

美作岡山道路を通って、和気町に入り佐伯へ。平成18年に和気町と合併した和気郡佐伯町の中心で、吉井川の西が佐伯、東側が矢田です。昭和30年の佐伯町成立までは赤磐郡佐伯村で、合併で和気郡に婿入り(?)した形になります。佐伯の方に残るのがこちらの佐伯区公民館。築年不詳で、ひょっとすると戦前の建物かもしれません。かなり大柄な木造二階建てで、単なる公民館にしては随分と立派です。幾何学模様の手すりがいい感じ。

和気商工会佐伯支所

隣の商工会館もいい感じのモダニズム建築。わざわざ二階を出入口にしているのはなぜでしょうか。

旧佐伯郵便局?

その近くにはこんな建物も。建物の形状や前に立つポストでわかる通り旧郵便局です。現在の佐伯郵便局は53号線と79号線の交差点の便利な場所に移っています。

旧延岡医院

そのまた近くの旧延岡医院。一説によれば昭和4年築。壁の仕上げやファザードの三角形、堂々たる車寄せ…なかなかレベルの高い近代建築で、末永く残ってほしいものだと思います。

和気町佐伯庁舎(旧和気郡佐伯町役場)

川を渡って矢田へ。昭和30年の佐伯町成立までは和気郡山田村で、明治の町村制までは和気郡矢田村でした。佐伯町役場およびそれを引き継いだ和気町佐伯庁舎は矢田の方にあります。合併後の役場が矢田に置かれたのは片上鉄道の備前矢田駅の存在も大きいのではないかと思われます。佐伯庁舎は昭和53年5月竣工。

和気町佐伯庁舎分館(佐伯町民会館)

佐伯庁舎と渡り廊下で繋がる佐伯庁舎分館は、現在は使われておらず閉鎖されています。昭和49年4月に佐伯町民会館として竣工したもので、使われていないのは老朽化と耐震性不足が理由でしょう。

佐伯町ふる里会館(旧和気郡山田村役場)

続いて岩戸へ。明治の町村制で山田村が成立するまでは和気郡岩戸村だったところで、昭和7年に建てられた旧和気郡山田村役場が残されています。周辺は小集落といった趣で、なぜ駅がある矢田を差し置いて岩戸に役場を置いたのか疑問が残ります。それとも昔の岩戸は矢田よりも栄えていたのでしょうか。それはさておき、旧山田村役場は戦前に山間の小村が建てたにしては立派な(というと失礼かもしれませんが)鉄筋コンクリート建築で、小さいながらも存在感があります。建築当初はさぞや都会的な建物に映ったことでしょう。役場が矢田に移ってからは佐伯町農協本所(→和気農協山田支所)として昭和60年まで使われました。現在はふる里会館という博物館になっていて、役場に連絡すると見学させてもらえるとのこと。

法泉寺

国道374号を引き続き南下して益原(ますばら)へ。明治の町村制で和気村が成立するまで和気郡益原村だったところです。この地に建つ日蓮宗不受不布施派の寺、大樹山法泉寺は擬洋風の本堂で知られています。明治11年に建てられた本堂は讃岐塩飽の棟梁・大石四郎左衛門の設計・施工によるもの。文明開化まもない時代にこれまでの寺院の概念に囚われない斬新な建物が建てられた背景には、この寺の属する宗派が幕府による長い禁教から解放されたといった事情もあったようです。

旧永井歯科医院

さらに南下して和気郡和気町の中心部へ。和気駅とは金剛川を挟んで少し離れています。旧和気郵便局は残念ながら解体されてしまいましたが、旧永井歯科医院は登録有形文化財となっているので当分は安泰でしょう。大正5年に建てられた瀟洒な医院建築で、設計は岡山県内に多くの作品を残した江川三郎八と伝わります。

備前市吉永総合支所(旧和気郡吉永町役場)

和気を後に吉永へ。平成17年の合併で備前市となった旧・和気郡吉永町で昭和23年に改称するまでは英保(えいぼ)町を名乗っていました。吉永総合支所となっている旧吉永町役場は昭和40年12月建設、丸窓が目を引くモダニズム建築です。

旧神根尋常小学校和意谷支校

少し引き返して県道404号線に入り、和意谷川沿いを遡って和意谷へ。明治の町村制で神根村(昭和29年の合併で吉永町)になるまでは和意谷村だったところで、岡山藩主池田家の墓所があることで知られています。かなり山深いところなので、車などない江戸時代にここまで来るのはかなり大変だったことでしょう。県道沿いに見えた民家はいずれも空き家のようでした。集落らしい集落も見えない山奥に廃校の建物が残っています。明治24年開校、昭和48年閉校の旧神根尋常小学校和意谷支校で、開校時の建物であれば築131年ということになります。管理するのも大変な山奥で、閉校から半世紀近くが経過する割には痛みが少ないので、割と最近(といっても10年20年前くらい?)まで公民館かなにかとして使われていたのでしょう。

山深い和意谷

周囲は人家が一軒も見えず人工的な音が全く聞こえない山の中。野生動物かなにか出そうで心細くなります。こんな山の中、遭遇するのが人だったらそれはそれで怖いんですけどね。和意谷支校を後に404号を引き続き北上しても車一台人っ子一人見かけませんでした。途中、404号は改良工事中だったので集落の方を迂回、廃校周辺と違って今も人が住む家が十数軒ありました。学校をつくるにしても何故集落から離れた谷底につくったのでしょうね。

旧三国郵便局

さらに北上して加賀美へ。明治の町村制で三国村が成立するまでは和気郡加賀美村だったところで、現在は八塔寺ふるさと村として宿泊施設や民俗資料館が整備されています。その一角に残る旧三国郵便局は昭和12年築。局名および旧村名の「三国」は備前・美作・播磨の国境近くにあることに由来します。戦前に建てられた局舎は平成になっても現役を続けていましたが、平成24年3月31日に廃止となって75年に渡る役目を終えました。廃局の理由は建物が耐震基準を満たさず、建て替えてまで営業を続けるには利用者が少なすぎることだのこと。廃止後も看板やATM室への階段が撤去された以外は変化もなく保存されています。

日没まではまだ時間がありますが、渋滞も考慮して今回はここで終了し帰途に就きます。県道90号赤穂佐伯線で県境を越えて兵庫県赤穂郡上郡町に入り、県道5号でたつの市へ。龍野西SAから山陽道に乗って宝塚に帰りました。

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