まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

12/18 極寒のIGRいわて銀河鉄道駅めぐり

東北遠征六日目はIGRいわて銀河鉄道釜石線の駅を巡りました。

厨川駅

青山5:46発普通いわて沼宮内行き3713M(IGR7001-103)で出発し、隣の厨川(くりやがわ)で下車。昭和15年1月に盛岡市編入された旧:岩手郡厨川村の駅で、駅周辺には盛岡市郊外の住宅地が広がっています。駅舎は大正7年11月開業時に建てられたもので、廻廊付きの古色蒼然としたスタイル。厨川は平安時代の奥州豪族・安倍貞任が本拠地とした厨川柵のあったところで、前九年の役では最終決戦場となりました。安倍貞任は厨川の戦いで討ち死にし、弟の宗任は降伏して都へ連行されています。その際、都人が「奥州の辺境の者には都の風流など理解できまい」と宗任に梅の花を見せて「これは何であるか」と問うたところ、宗任は「我が国の梅の花とは見たれども大宮人はいかが言ふらん」と即座に歌で返し、教養の高さで都人を驚かせたという話が平家物語などに残っています。宗任はその後、伊予を経て筑前大島に流されその地で一生を終えました。ちなみに安倍晋三元首相は宗任の44代目の子孫だそうです。

滝沢駅

厨川6:32発普通いわて沼宮内行き3715M(IGR7001-4)で滝沢へ。盛岡市ベッドタウン滝沢市の代表駅ですが、市役所の最寄り駅は田沢湖線大釜駅です。明治39年1月、日本鉄道最後の開業駅として開業し、10カ月と経たずに国有化されました。昭和42年9月、複線化に伴うルート変更で現在地に移転し、その際に現在の駅舎が建てられました。滝沢市平成26年1月に単独市制施行するまで岩手郡滝沢村で、人口5万5千人の日本一人口の多い村でした。滝沢村が市制施行の基準である人口5万人に達したのは平成12年でしたが、世帯・商業地が巣子地区と鵜飼地区に分散していてはっきりとした市街地がないこと、通勤・通学・買い物において盛岡市への依存度が高いこと、「村」の持つのどかなイメージを大切にしたいことなどを理由に市制施行に消極的でした。

小繋駅

滝沢6:56発普通八戸行き4521M(IGR7001-2)で小繋へ。沼宮内と一戸を隔てる難所として知られた十三本木峠(奥中山峠)の途中にある駅で、並行して国道4号が通っているものの、人家の少ない寂しいところです。令和3年度の1日平均乗車人員は8人と、IGRの駅の中では最小でした。明治37年12月31日、日本鉄道の「小繋給水所」として開業し、国有化で「小繋給水給炭所」となりました。駅に昇格したのは明治42年9月です。駅舎は築年不詳の木造駅舎で、駅前はあまり広くありません。

小繋駅 待合室

平成18年には映画『待合室』の舞台となりましたが、これは待合室に置かれた「命のノート」をモデルにしたものです。ノートに書きこまれた旅人の悩みや苦しみに対して駅前で酒店を営む女性が励ましの言葉を書いたことから心の交流が始まったという実話に感銘を受けた板倉真琴監督が映画化しました。あいにく私はまだ見れていませんが、時間のある時にでも見てみたいと思います。

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いわて沼宮内駅

小繋8:08発普通盛岡行き2520M(青い森700-5)でいわて沼宮内へ。岩手郡岩手町の玄関口で、東北新幹線の駅が隣接しています。明治24年9月の日本鉄道全通時に「沼宮内(ぬまくない)」として開業、平成14年12月の新幹線開業に際し、岩手町の駅であることを強調するべく改称されました。東北本線の電化前は十三本木越えを前にした補助機関車の基地として栄え、特急「はつかり」も停車していました。平成5年3月ダイヤ改正で「はつかり」の停車が無くなり、9月に急行「八甲田」が臨時化されると普通列車のみ停車する駅となりましたが、それから10年と経たないうちに新幹線停車駅へと出世を遂げています。新幹線開業・改称時に改築された駅舎は岩手広域交流センター「プラザあい」と合築の半橋上駅舎で、改札口は二階にあります。IGRいわて銀河鉄道の運行拠点駅で、半数近くの列車が当駅で折り返しています。

江刈内の街並み

江刈内の街並み

駅周辺を散策。昭和30年の合併で岩手町となるまで存在した岩手郡沼宮内町は明治22年の町村制で北岩手郡江刈内村と沼宮内村が合併して誕生した町で、駅があるのは江刈内地区です。駅前から県道17号岩手平舘線を北上して線路を越えると江刈内のかつての中心で、古い建物が多く残っています。

上路旅館

街並みの中で特に目を引くのが明治41年創業の上路旅館。現在残る建物は昭和11年竣工で、これぞ旅館といった趣の立派な和風建築です。20年ほど前までは営業していたようですが、詳しい閉業時期は不明。

沼宮内の街並み

上路旅館を過ぎて少し行ったところで江刈内から沼宮内に入りますが、二つの旧村はあまりに一体化しているのでどこが境目かはっきり分かりません。沼宮内は久慈・野田方面への道が分岐する交通の要衝で、奥州街道95番目の宿場町でしたが、道路の拡幅で江刈内ほどには古い建物が残っていないようです。

奥中山高原駅

いわて沼宮内9:46発普通八戸行き4525M(青い森701-5)で奥中山高原へ。標高427m、東北本線で最も高いところにあった駅で、近くにはスキー場もあります。明治24年9月の日本鉄道全通時に「中山」として開業し、国有化後の大正4年9月に「奥中山」に改称されました。この改称は横浜線中山駅との混同を避けるためのもので、旧国名を冠して「陸奥中山」とするつもりが手続きの際に「陸」を書き落としてしまい「奥中山」になったという冗談みたいな話が残されています。平成14年12月、IGRへの転換時に再改称されました。所在地は昭和32年11月の合併で一戸町となるまでは二戸郡小鳥谷村で、明治22年の町村制までは中山村でした。昭和15年10月改築の駅舎は急傾斜の屋根が特徴の木造駅舎で、豪雪地帯を感じさせる造りです。

奥中山高原駅 待合室

待合室には難所として知られた十三本木峠(奥中山峠)を越えるSLの写真と犬駅長「マロン」の写真が飾られています。マロンは当駅の委託駅員に飼われていたオスのヨークシャーテリアで、平成20年6月24日に名誉駅長に就任して話題を呼びましたが、翌年8月29日に9歳で死去しました。マロンの死から数年後、今度はよく似た同犬種の「マック」が駅長見習いとして勤務しはじめましたが、残念ながら平成29年6月21日に交通事故で死去。その車の運転手が申し訳ないと連れてきた「マオ」が現在3代目として活躍中だそうですが、この日はお目にかかれませんでした。

奥中山高原への下車を以てIGRいわて銀河鉄道は全駅制覇。10:33発普通盛岡行き4524M(IGR7000-2)で盛岡へ向かいます。