まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

11/27 大阪メトロ千日前線・堺筋線駅めぐり

この日は大阪メトロ千日前線の駅を巡りました

逆瀬川8:00発普通西宮北口行き780(5008)、西宮北口8:15発普通今津行き8072(6567)、今津8:22発普通阪神梅田行き766(5701)、甲子園8:32発急行阪神梅田行き844(8119)を乗り継いでまずは野田へ。

阪神野田駅

阪神本線においては梅田を出て最初の急行停車駅で、地下鉄千日前線野田阪神駅およびJR東西線海老江駅が地下にあります。かつては阪神が運行する路面電車の北大阪線・国道線のターミナルがあり、現在はその跡地に阪神電鉄の本社が建っています。高架化は昭和36年12月8日と早い時期で、既に60年以上が経過しています。戦後すぐの時期、当駅から分岐して近鉄鶴橋駅までを結ぶ「大阪高速鉄道」が計画されましたが、大阪市内の交通は民間に介入させないという「市営モンロー主義」により実現することはありませんでした。この大阪高速鉄道と同じルートで大阪市により開業したのが千日前線です。今日は野田阪神から千日前線の駅を巡っていきます。

野田阪神駅 ホーム

阪神野田駅の地下にある「野田阪神」駅は千日前線の起点で、ホームは相対式の2面2線。2番線は降車専用で、南巽行きホームとして使用されるのは1番線のみです。駅名の「野田阪神」はかつて存在した市電の停留場「野田阪神(電車)前」に由来するもので、単なる駅名というより阪神野田駅を中心としたエリアの名称として人口に膾炙しています。野田は明治30年大阪市北区編入されるまでは西成郡野田村で、「吉野の桜、野田の藤」と称される藤の名所として知られていました。

玉川駅 4番出入口

野田阪神9:08発南巽行き6(25607)で玉川へ。大阪環状線野田駅との乗換駅で、駅名は隣接する玉川地区に由来します。「玉川」は野田川の別名で、駅の所在地は吉野です。野田阪神と同じように「野田国鉄前(野田JR前)」とでもすれば分かりやすそうですが、大阪は乗換駅でも駅名が一致しないところが多いので、ここもきっとこのままでしょう。JRと地下鉄の駅名を合わせれば「野田玉川」となりますが、この駅名も三陸鉄道に既にあるのがややこしいところです。さすがに岩手県の駅名と被ったところでさして影響はないでしょうが。

玉川駅入口の看板

玉川駅4番出入口横に貼られた駐輪禁止の警告看板には「国鉄」の文字の上に「JR」と書いた痕跡が見られました。

阿波座駅 10番出入口

玉川9:24発南巽行き2(25912)で阿波座へ。中央線との乗換駅で、千日前線の車両を森ノ宮検車場に回送できるように線路は繋がっています。「阿波座」の地名はかつて四国(阿波国)との貿易拠点として栄えたことに由来するという説があります。

端建蔵橋

阿波座駅から新なにわ筋を北上すると、堂島川土佐堀川・木津川・安治川の四つの河川が一堂に会する「川の交差点」とでも言うべき場所に突き当たります。これらの川に囲まれた中之島西端は宮本輝の小説『泥の河』『血脈の火』の舞台となったところでした。この小説にも登場するのがこの地に架かる3つの橋「船津橋」「端建蔵橋」「昭和橋」です。このうち中之島と川口を結ぶ端建蔵橋は現在架け替え工事中。小説のファンとしては最後に見ておくべきだろうと見に行ってみたら、舗装が剥がれて市電の線路が露出していました。大正10年に架け替えられた端建蔵橋を走っていたのは大阪市電の九条中之島線。昭和43年5月1日に全線廃止となっています。

昭和橋

川口と江之子島の間、木津川に架かる昭和橋は昭和7年に架けられた鋼アーチ橋。戦前の橋らしい優美な姿を今にとどめています。この橋にも市電が通っていたので、舗装を剥がせばきっとレールが眠っていることでしょう。

日本聖公会川口基督教会

木津川と安治川に挟まれた川口は慶応4年から明治32年まで外国人居留地のあったところで、大阪の文明開化の象徴とも言うべき場所でした。明治期には多くのミッションスクールが立地していたものの、それらは武家屋敷の破却で広い敷地が空いた上町台地へ移転。その後に成立した中国人街も戦争の影響で消えてしまい、戦後は倉庫街となりました。現在は川口基督教会などわずかに残った建物のみがかつての栄華を今に伝えています。

西長堀駅 5番出入口

阿波座10:41発南巽行き10(25602)で西長堀へ。長堀鶴見緑地線との乗換駅で、西区役所の最寄り駅です。5・6番出入口はかなり古いもので、おそらくは昭和44年の駅開業当時からのものでしょう。当駅北側で新なにわ筋と交差する長堀通は昭和46年に埋め立てられるまでは長堀川という川でした。鰹座橋交差点の由来となった橋は元々当地付近に蔵屋敷のあった土佐藩にちなんで土佐橋と呼ばれていましたが、土佐名物の鰹を扱う問屋が集まって鰹座が形成されてこの名が付きました。

桜川駅 ホーム

西長堀11:05発南巽行き4(25606)で桜川へ。昭和44年4月16日、千日前線で最初の区間である野田阪神~桜川間が5号線として開業した当時の終点です。野田阪神からずっと地下を走ってきた新なにわ筋とは当駅手前の汐見橋交差点でお別れ。当駅からは路線名にもなっている千日前通りの地下を走っていきます。駅の西側に南海汐見橋駅および阪神桜川駅があり、なんばからたった一駅ということを考えるともっと活気があってもよさそうなものですが、微妙に場末感が漂っています。駅名の由来となった桜川は大阪城下と西成郡難波村を隔てる川でしたが大正3年ごろに埋め立てられて千日前通りの一部となりました。

なんば駅 千日前線ホーム

桜川11:30発南巽行き2(25601)でなんばへ。言わずと知れた大阪ミナミのターミナル駅で、千日前線ホームは御堂筋線四つ橋線を繋ぐ橋としても機能しています。昭和45年3月11日に千日前線なんば駅が開通するまで、四つ橋線の駅は「難波元町」を名乗る別の駅でした。御堂筋線の駅についても千日前線開業と同時に表記が漢字からひらがなへと改められています。千日前線と重複して千日前通りの地下を走る阪神なんば線の方は大阪難波駅を境に近鉄難波線に変わりますが、利用客はそちらの方が多く、千日前線の利用者は低迷しています。どうせ市営モンロー主義をやるにしても電化方式を近鉄に合わせておけば重複して線路を敷く無駄をせずに済んだのではと思うのですが、今となってはどうしようもないことです。

南巽駅 ホーム先端

なんば11:40発南巽行き5(25612)で一気に終点の南巽へ。昭和56年12月2日に開業した千日前線の終着駅で、線路はあまりにもあっけなく途切れています。千日前線の駅はいずれもホームが8両対応で造られていますが、列車は4両編成なのでどの駅でも持て余されたホーム端が薄暗く沈んでいます。南巽は「なぜここが終点?」と思うようなごく普通の住宅街で、バスターミナルなどもありません。この先、近鉄大阪線弥刀駅への延伸計画があるものの、実現は遠いようです。素人目にはこのまま国道479号線直下に伸ばして谷町線平野に繋げればいいのではないかと思えますが。

北巽駅1番出入口・北巽バスターミナル

南巽12:37発野田阪神行き3(25911)で北巽へ。玉造・あべの橋へのバスが発着する北巽バスターミナルが併設された駅です。当駅および南巽駅がある生野区巽(たつみ)地区は昭和30年に大阪市編入されるまで中河内郡巽町だったところで、大阪城から見て辰巳(南東)の方角にあることからこの名が付きました。

小路駅 2番出入口

北巽12:54発野田阪神行き2(25901)で小路(しょうじ)へ。生野区北東部、東成区や東大阪市布施との境界近くにある駅です。地名は大正14年4月に大阪市編入された東成郡小路村に由来しますが、村名の読みは「おじ」で現在の地名の読みとは異なります。小路村の村名は暗越奈良街道の別名「中小路」から。

新深江駅 2番出入口

小路13:11発野田阪神行き10(25902)で新深江へ。昭和44年9月10日、今里からの延伸で開業した駅で、南巽延伸までの12年間は終着駅でした。文房具のコクヨおよびペットフードのドギーマンハヤシの本社最寄り駅です。駅のある神路地区は大正14年4月の大阪市編入までは東成郡神路村で、大正5年までは南新開荘村を名乗っていました。旧村名は南北朝期に成立した荘園「新開荘」に、神路の名は暗越奈良街道が神武東征のルートだったという伝説に、駅名の由来となっている交差点名は明治の町村制まで存在した深江村に由来します。昭和45年6月15日に全廃されたトロリーバスのうち4号線は新深江を終点としており、このうち今里~新深江は地下鉄建設のため昭和40年7月26日に休止されています。

今里駅

新深江13:58発野田阪神行き2(25901)で今里へ。東成区役所の最寄り駅で、今里筋線が分岐しています。千日前線にとっては乗務所のある運行拠点駅で、平成23年までは今里車庫も併設されていました。今里もかつての神路村の村域で、古くより暗越奈良街道北八尾街道十三街道などの分岐する交通の要衝でした。大阪市への編入後、昭和2年に市電が開通し、昭和9年には今里交差点にロータリーが設置されました。ロータリーは戦後に撤去されたものの、今里は今なお交通の要衝として機能しており、地下鉄の他にあべの橋・長居へのBRTバス路線「いまざとライナー」も乗り入れています。

鶴橋駅 4番出入口

今里14:45発野田阪神行き3(25911)で鶴橋へ。大阪環状線および近鉄との乗換駅で、近鉄とはなんば~鶴橋間で路線が重複しています。鶴橋は日本有数のコリアタウンで有名な街で、戦後闇市の雰囲気を残す雑然とした街並みに韓国料理屋が軒を連ねています。大正14年4月の大阪市編入までは東成郡鶴橋町でした。

谷町九丁目駅 5番出入口

鶴橋15:03発野田阪神行き2(25901)で谷町九丁目へ。谷町線との乗換駅で、近鉄大阪上本町駅が近接しています。開業は谷町線(2号線)の方が八か月だけ早く、昭和43年12月17日開業。千日前線(5号線)は昭和44年7月25日に谷町九丁目~今里間が開業しました。桜川~谷町九丁目間が開通して野田阪神側と繋がったのは昭和45年3月11日でした。千日前線においてはなんばに次いで2番目に利用の多い駅で、その一番利用の多い区間が東南側の延伸区間を除けば最後に開通したことになります。やはり都会すぎて工事が難航したのでしょうか。

日本橋駅 千日前線ホーム

谷町九丁目15:27発野田阪神行き1(25916)で日本橋へ。堺筋線との乗換駅で、近鉄日本橋駅が隣接しています。開業は堺筋線の方が早く、昭和44年12月6日開業。千日前線は前述のように昭和45年3月11日開業で、重複する近鉄難波線の開業はわずか4日後の3月15日でした。近鉄難波線の開業日、3月15日は大阪万博の開幕日で、この前後の大阪の交通整備のスピードには目まぐるしいものがあります。

千日前線はこれにて全駅制覇。続いて堺筋線の未訪問駅を巡っていきます。

北浜駅 改札口

日本橋15:36発普通北千里行き9(66914)で北浜へ。京阪本線との乗換駅で、地上には大阪取引所などのある金融街「北浜」と製薬会社の集まる「道修町」が広がっています。地名の北浜は、船場の北の浜(河岸)であることに由来。

南森町駅 ホーム

北浜16:01発普通北千里行き7(66910)で南森町へ。谷町線との乗換駅で、JR東西線大阪天満宮駅が隣接しています。堺筋線ホームにはホームドアが設置されていたものの、まだ使用開始は去れていませんでした。

扇町駅を発車する高槻市行き

南森町16:16発普通高槻市行き11(66912)で扇町へ。大阪環状線天満駅と近接しているものの、堺筋線では最も利用者の少ない駅です。駅名は天満堀川に架かっていた扇橋に由来しており、昭和41年に廃止された市電の停留所名は「扇橋」でした。大正14年に東・西・南・北扇町の4町が成立し、昭和53年に扇町・南扇町の2町に集約されています。駅のある周辺は明治30年大阪市編入までは西成郡川崎村でした。

扇町駅 ホーム

堺筋線でもホームドア設置工事が進む中、扇町駅はまだホームドアが設置されていません。駅名標も旧デザインで、ここだけ見ると大阪市営地下鉄時代の駅のままのようです。ホームドア設置自体は安全のことを考えると歓迎すべき動きですが、その一方でこうしたホームの風景もなるべく記録しておきたいものです。

天神橋筋六丁目駅 ホーム

扇町16:38発普通高槻市行き37(66909)で天神橋筋六丁目へ。堺筋線の始発駅かつ阪急千里線との共同使用駅で、多くの列車がこの先淡路方面へと乗り入れています。かつてこの地には新京阪鉄道阪急京都線・千里線の前身)のターミナル「天神橋」駅が存在していました。大正14年10月に開業した天神橋駅は近畿初の高架駅で、翌年には7階建ての駅ビルも完成しました。新京阪は天神橋から先、梅田方面への乗り入れも計画していたものの、市営モンロー主義に阻まれて実現することができず、新京阪を引き継いだ阪急も戦後には国鉄天満駅までの延伸免許を取得したものの、こちらも堺筋線の計画進捗によって失効となりました。阪急の天満乗り入れ計画を引き継ぐかのように昭和44年12月6日に天神橋筋六丁目~動物園前間が開通したのが堺筋線で、これに合わせて天神橋駅も改称・地下化の上天神橋筋六丁目駅に統合されています。阪急との相互直通運転を開始した堺筋線は翌年の大阪万博への来場者輸送においても大きな役割を果たすことになりました。昭和49年5月29日には都島まで延伸した谷町線も乗り入れますが、この建設工事中には天六ガス爆発事故が発生して多くの犠牲者が出ています。

堺筋線の未訪問駅も片付いたので今日はこれで終了。天神橋筋六丁目16:54発準急河原町行き3164(7890)と淡路17:02発普通梅田行き1675(5859)、十三17:13発特急新開地行きK1703(9100)、西宮北口17:28発宝塚行き1775(5503)を乗り継いで帰宅しました。