まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅めぐり旅~

駅めぐりの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

2/1 山陽本線・岩徳線駅めぐり

2/1~2/5の4日間、山口県を旅しました

カルスト号で岩国へ

前夜22:40に三宮バスターミナルを出た近鉄高速バス「カルスト号」が岩国駅前に着いたのは定刻より2分早い6:07。走ったおかげで予定より一本早い岩国6:10発普通新山口行き3307M(クハ115-3102)に乗ることができました。

由宇駅

由宇で下車。平成18年3月の合併で岩国市となった旧:玖珂郡由宇町の駅で、昨年10月に無人化されるまではみどりの窓口がありました。由宇町にはカープの練習場があることから、駅舎のあちこちに「カープ坊や」の装飾がなされています。昭和56年3月改築の駅舎は開放的な造りで、山口県内の中規模駅ではよく見かけるデザインです。

公民館?

一本早い列車に乗ったおかげで時間が確保できたので日の出前後の由宇を散策。写真の建物は公民館のようですが、詳細は不明。

由宇文化会館・岩国市由宇総合支所(旧:玖珂郡由宇町役場)

岩国市由宇総合支所は昭和39年に玖珂郡由宇町役場として建てられたもので、築60年近い古い建物ですが、耐震済みなのでこれからも使用されそうです。その隣の由宇文化会館は昭和58年3月竣工。由宇は物資の集散地として発展し、江戸時代には代官所が置かれたところで、古い建物もいくつか残っていますが、近代建築は少なめでした。

柳井港駅

由宇7:34発普通下関行き3313M(クハ115-3009)で柳井港へ。愛媛県三津浜平群島・祝島へのフェリーが発着する柳井港の最寄り駅で、昭和4年4月に開業しました。昭和45年8月改築の駅舎はシンプルなデザインのモダニズム駅舎です。滞在時間が短く充分に撮れなかったのに加えて、駅前の車が邪魔で微妙な写真になってしまったので、そのうちリベンジしたいものです。

大畠駅

柳井港8:03発普通岩国行き3308M(クハ115-3104)で大畠(おおばたけ)へ。平成17年2月に柳井市と合併した旧:玖珂郡大畠町の駅で、昨年10月に無人化されるまではみどりの窓口がありました。駅舎は大柄な木造駅舎で、近年まで屋根に大きな駅名表示が掲げられていましたが、撤去されて安っぽいシールの駅名表示に変わっています。明治30年9月開業、当時の所在地は玖珂郡神代村で、昭和30年4月の合併で大畠町となりました。

大畠駅

大島瀬戸に面した立地の駅で、ホームからは対岸に周防大島が見えます。周防大島(屋代島)は瀬戸内海では淡路島、小豆島に次いで3番目に大きな島で、人口は一万人を超えています。大畠駅からはかつて大島の小松港とを結ぶ大島連絡船が出ていましたが、大島大橋架橋によって昭和51年7月5日に廃止されています。

大畠駅 乗換案内

周防大島には鉄道のない島としては唯一の国鉄バス路線「大島線」もあり、民営化後はJRバス中国に引き継がれましたが、平成19年10月より防長バスに移管されています。ホームの乗換案内にはまだその名前が残っていました。

柳井駅

大畠8:45発普通徳山行き3317M(クモハ226-6)で柳井へ。「岩国吉川領の御納戸」として栄えた商業都市柳井市の代表駅で、無人化が進められているこの辺りでは貴重な有人駅です。昨年3月のICOCA導入に合わせて自動改札機が設置されました。昭和36年4月改築の駅舎は一部二階建ての立派なもので、改札部分は天井の高い吹き抜けになっています。明治30年9月に山陽鉄道の「柳井津」として玖珂郡柳井村に開業、昭和4年4月に「柳井」に改称されました。昭和9年12月に現在の岩徳線が「山陽本線」の一部として全通すると、当駅を含む麻里布(現:岩国)~櫛ヶ浜間は「柳井線」となりましたが、昭和19年10月には再び山陽本線に戻っています。ほんの一時期とは言え路線名になった辺り、岩国~徳山間では柳井が一番の主要駅と見なされているのでしょう。

下松駅

柳井9:20発普通下関行き3319M(クハ115-3004)で下松(くだまつ)へ。山口県で最も人口密度の高い下松市の代表駅で、昭和40年11月に山口県で初めての橋上駅舎となりました。明治30年9月開業時の所在地は都濃郡豊井村で、明治34年3月の町制施行時に改称して下松町となり、昭和14年11月に合併して下松市となっています。下松は日立製作所笠戸工場があるところで、ここで製造された鉄道車両の多くは専用線を経て当駅から全国へと甲種輸送されています。

光駅

下松10:16発普通岩国行き3320M(クハ115-3118)で光へ。戦時中に光海軍工廠が置かれ、戦後は工業都市として発展した光市の代表駅ですが、中心部からは大きく離れています。昭和58年6月改築の駅舎はモダンなデザインの平屋建てで、駅近くの虹ヶ浜にちなんで虹が描かれています。明治45年4月に「虹ヶ浜」として熊毛郡浅江村に開業、浅江村は昭和14年4月に光井村などと合併して熊毛郡周南町となり、昭和15年10月に改称して光町となりました。駅名もそれに合わせ、昭和16年2月に改称されています。熊毛郡光町は昭和18年4月に室積町と合併して市制施行、光市となりました。室積は古くより栄えた港町で、山陽鉄道も当初は室積を通る計画でした。室積経由のルートが採用されなかった理由については鉄道忌避伝説があったとされていますが、航空写真で見る限り地形の制約によるもので、忌避伝説は後からでっち上げられたものである可能性が高いです。

光駅

光駅ホームはこれまでの変遷を思わせる複雑な配置の2面3線で、線路を撤去した後がそこかしこに残っています。元は島式2面4線+中線だったのが、優等列車の廃止などで不要になった線路を撤去した結果、現在の配置になったのでしょう。15分ほどの滞在では足りませんでした。

櫛ヶ浜駅

光10:37発普通下関行き3321M(クハ115-3014)で櫛ヶ浜へ。岩徳線の分岐駅ですが、岩徳線の列車は全て山陽本線に直通し、隣の徳山駅を起終点としています。昭和46年3月改築の駅舎は二つの路線の分岐駅にしてはこじんまりとした造りで、昨年10月に無人化されています。昭和3年2月に都濃郡久米村(昭和17年2月徳山市編入)に開業、昭和7年5月に岩徳西線が周防花岡まで開業して分岐駅となりました。その2年後には柳井線よりも距離の短い岩徳線ルートが山陽本線となっていますが、わずか10年で柳井線が本線として返り咲いています。岩徳線は距離こそ短いものの勾配やカーブが多く、複線化にはトンネルをもう一本掘らねばならなかったことが柳井線返り咲きの理由となりました。櫛ヶ浜からは岩徳線の駅を巡っていきます。

米川駅

櫛ヶ浜11:19発岩国行き2232D(キハ40-2080+キハ40-2033)で米川へ。昭和9年12月、山陽本線新線岩国(現:西岩国)~高水間開業時に開設された駅で、島田川に沿った山間にあります。元は木造駅舎のある有人駅でしたが、昭和46年3月に無人化、昭和54年2月に簡易駅舎に改築されています。開業時の所在地は玖珂郡米川村で、村名は島田川の別名「米川」に由来します。米川村は昭和30年4月の合併で周東町(平成18年の合併で岩国市)となりました。

米川駅

棒線駅ですが、ホームは元々島式1面2線だったようで、1番線跡を潰して駅舎が建てられています。駅前には貨物ホーム跡も残っており、観察してみるとなかなか楽しい駅でした。

生野屋駅

米川12:08発徳山行き2231D(キハ40-2123)で生野屋へ。国鉄分割民営化のわずか5日前、昭和62年3月27日に地元の請願で開業した駅で、駅舎はありません。周辺は新興住宅地で、駅裏には山陽新幹線の高架が通っています。明治22年の町村制で都濃郡末武北村となるまで当地は都濃郡生野屋村でした。末武北村は昭和4年4月に改称して花岡村となっています。

内山兄弟商会

生野屋から歩いて周防花岡へ。道中、花岡村のかつての中心を通りました。都濃郡花岡村は西国街道五十次39番目の宿場町・花岡宿として栄えたところで、古い建物がいくつか残っています。地名については「端岡(はなおか)」が転じたことが由来と言われています。花岡村は昭和14年11月の合併で下松市となりました。

周防花岡駅

周防花岡駅昭和7年5月、岩徳西線の終点として開業。花岡駅が既に北秋田郡花岡村(現:大館市)の小坂鉄道(廃止)にあったことから国名の「周防」と冠したものと思われます。開業時に建てられた木造駅舎は小ぶりながらギャンブレルのファザードが目を惹く美しいもので、個人的には日本でも有数の名駅舎の一つだと思います。山口県でも近年は駅舎の改築が進んでいますが、当駅はなんとか生き延びてほしいものです。

勝間駅

周防花岡13:55発岩国行き2234D(キハ40-2123)で勝間へ。昭和9年3月、岩徳西線高水延伸時に開業した駅で、築堤上にホームがあります。ホームへ上がる階段には数年前まで屋根が架かっていたそうですが、撤去されて雨ざらしになっています。平成21年ごろまでは駅入口に農協の建物がありました。開業時の所在地は熊毛郡勝間村で、昭和31年9月の合併で熊毛町(現:周南市)となっています。

勝間駅

ホームの向かいには対向ホームの跡があり、かつては交換可能駅だったことがわかります。元は駅舎もあるれっきとした有人駅で、おそらくは階段の上り口に木造駅舎があったのでしょう。昭和55年に農協との合築駅舎となりましたが、先述のように平成21年ごろに解体されています。

周防久保駅

勝間14:22発徳山行き2233D(キハ40-2081)で周防久保へ。相対式ホームの交換可能駅で、昭和9年3月開業時に建てられた木造駅舎が残っています。駅前は山間の国道沿いと言った感じですが、航空写真で見てみると近くにニュータウンがあります。さすがにこの本数ではニュータウンの住民がこの駅を利用することはほとんどないでしょうが。開業時の所在地は都濃郡久保村で、昭和14年11月の合併で下松市となっています。駅名に冠された国名は、先に開業していた佐久鉄道(現:小海線)久保停留場(現:北中込駅)との重複を避けるためのものでしょう。

都濃郡と熊毛郡の境界

周防久保から国道2号線を歩いて大河内へ。途中、下松市と周南市熊毛町の境を通りましたが、その地点には都濃郡と熊毛郡の境界を示す道標が建っていました。歴史を遡ると、ここは都濃郡切山村(→久保村)と熊毛郡大河内村(→勝間村)の境でした。

垰停留所

熊毛郡に入ってしばらく歩くと垰停留所、垰交差点が現れました。「垰」は「たお」と読み、「山の尾根のくぼんだ(たわんだ)ところ・鞍部」を意味し、「だわ」とも読みます。ちなみに都濃郡側の交差点は「峠市(たおいち)」で「峠」の字が宛てられています。「山のくぼんだ所」ということは、おそらく久保の地名もこの地形に由来するのでしょう。

河内駅

垰交差点を過ぎると大河内(おおかわち)駅はすぐそこです。せっかくなら駅名も「垰」にした方が個性があって良かったのではないかという気もしますが、常用漢字外ではさすがに無理でしょうね。生野屋と同日、昭和62年3月27日の開業で、生野屋と同じくホームだけの簡素な駅です。駅前には新興住宅地があり、利用者は周防久保より多いようです。

高水駅

大河内16:08発岩国行き2236D(キハ47-2016+キハ47-1006)で高水へ。平成15年4月の合併で周南市となった旧:熊毛郡熊毛町の玄関口で、昭和9年3月に岩徳西線の終点として開業しました。終着駅だったのはわずか8か月ほどで、同年12月には山陽本線新線として全通しています。開業時の所在地は熊毛郡高水村で、昭和31年9月の合併で熊毛町となっています。駅舎は同日に開業した周防久保と同じデザインで、寸法を除けばそっくりですが、駅名表示や屋根の材質が違うだけでだいぶ印象が異なります。

島田駅

高水16:41発徳山行き2235D(キハ47-3019+キハ47-63)で櫛ヶ浜へ。17:08発山陽本線普通岩国行き3336M(クモハ227-17)に乗り換え、島田で下車。東海道本線にも同名の駅がありますが、こちらの読みは「しまた」でよくある読みとは異なります。昭和47年4月改築の駅舎は微妙に簡素な造りで、屋根と壁の間に隙間があります。開放的な造りにしている以上、雨風や虫や埃はどっちみち入って来るのだからあまり問題はないのかもしれませんが。おそらく壁の上部を屋根と密着させるよりも工費が安く済むからでしょう。明治30年9月開業時の所在地は熊毛郡島田村(しまたそん)で、昭和14年4月の合併で周南町(現:光市)となりました。

岩国駅

島田17:56発普通岩国行き3338M(クモハ227-6)で岩国へ。山口県最東端・岩国市の代表駅で、岩徳線が分岐しています。明治30年9月開業時の所在地は玖珂郡麻里布村(まりふそん)で、駅名も昭和4年2月から昭和17年4月までは「麻里布」でした。麻里布村は昭和3年4月に町制施行して麻里布町となり、昭和15年4月の合併で岩国市となっています。平成29年11月26日使用開始の橋上駅舎は四代目で、旧玖珂郡域の中心都市の玄関口にふさわしい風格を見せています。

岩国駅 旧西口駅舎(H27-8-23)

前回訪問は実に7年半前。改築工事に向け三代目駅舎が役目を終えると聞いての日帰り強行軍でした。三代目駅舎は昭和24年改築、二代目駅舎が昭和20年8月14日の空襲で焼失したことによって建てられたものでした。天井の高い立派な戦後派駅舎で、反対側にはこじんまりとした東口駅舎がありました。あまりの変わりようにとても同じ駅とは思えず、7年半の月日を感じました。

この日は駅前のシティホテル安藤に宿泊。

1/5 新春北近畿駅めぐり(篠山口・梁瀬・上夜久野・玄武洞・国府・豊岡・竹野・江原)&豊岡・江原を散策

この日は18きっぷ北近畿の未訪問駅を巡りつつ、豊岡・江原を散策しました

篠山口駅

宝塚を6:24発普通福知山行き2525M(クハ222-6111)で出発し、篠山口へ。大阪方面からの列車の多くが折り返す福知山の運行拠点駅で、京阪神大都市圏の最北端といった趣があります。青山氏篠山藩五万石の城下町で知られる丹波篠山市の代表駅ですが、駅自体は町外れ(平成11年4月の合併で篠山市となるまでは多紀郡丹南町)にあって、駅前は閑散としています。駅舎は平成9年2月改築の橋上駅舎で写真は東口。明治32年3月、三田から延伸してきた阪鶴鉄道の終点「篠山」として多紀郡味間村(昭和30年4月の合併で丹南町)に開業、国有化を経て昭和19年3月に「篠山口」に改称されました。その20日後には篠山駅(2代目)を経て福住に至る篠山線が開業しています。篠山線の歴史は短く、昭和47年3月には早くも廃止されました。

梁瀬駅

篠山口7:27発普通福知山行き2529M(クハ222-5508)で福知山へ。8:54発普通豊岡行き427M(クハ222-5509)に乗り換えて梁瀬で下車。平成27年8月30日以来7年ぶりの再訪ですが、特に変わったところはありません。平成17年4月の合併で朝来市となった旧:朝来郡山東町の駅で、簡易委託の窓口が設置されています。明治44年10月、播但線支線として和田山~福知山間が開業した際に開設。開業時の所在地は朝来郡梁瀬村で、大正15年4月に町制施行して梁瀬町に、昭和29年3月の合併で山東町になりました。駅舎は開業時に建てられた寄棟造廻廊付きの木造駅舎で、かなり手が加えられているものの、窓口の造りは昔の駅の姿をよく残しています。

上夜久野駅

梁瀬9:52発普通福知山行き430M(クモハ223-5507)で上夜久野へ。京都府兵庫県の県境に近い夜久野高原にある駅で、梁瀬と同じく明治44年10月に開業しました。駅名は開業時の所在地、天田郡上夜久野村に由来します。上夜久野村は昭和34年1月に夜久野町(下夜久野村と中夜久野村が昭和31年10月に合併)と合併して夜久野町の一部となり、平成18年1月に福知山市編入されました。上夜久野駅に駅舎は無く、跨線橋の入口に券売機とバス停のように簡素な待合所が設置されています。ホーム上には木造の締切可能な待合室があり、大正5年3月の建物財産標がついていました。

上夜久野駅 記念庭園

駅前には鉄道開通(上夜久野駅開業)50周年を記念して昭和36年に寄贈された記念庭園があるものの、忘れ去られたように雪と落ち葉に埋もれています。看板が割れて寄贈者名も読み取れません。有人駅時代は手入れされていたのでしょうが、無人化から40年近くが経過した今、撤去されていないだけまだマシなのでしょう。

上夜久野駅を通過する特急きのさき1号

駅裏の高台に回って駅を撮影していると、特急きのさき1号が通過していきました。カニの季節で乗客が多いためか増結されていた後ろの3両は普段なら特急「くろしお」に使用されている編成。普段は走らないであろう雪景色の中を駆け抜けていきました。

玄武洞駅

上夜久野9:17発普通城崎温泉行き427M(クモハ112-5303)で玄武洞へ。景勝地玄武洞の最寄り駅で、玄武洞へは駅前から渡船で連絡しています。円山川の畔に位置し、駅前を交通量の多い県道3号豊岡瀬戸線が通っているものの、駅前に建物はあまりありません。昭和56年12月改築の駅舎は寒冷地にしては開放的な造りです。

国府駅

玄武洞11:49発普通福知山行き434M(クモハ113-5303)で国府へ。駅舎のない無人駅で、各ホーム上に待合室が設置されています。昭和23年10月に城崎郡国府村に新設開業、当初は有人駅でした。国府村は古代、但馬国国府が置かれたという説のある所ですが、但馬国府についてはまだ詳しいことが分かっておらず、置かれた場所についても複数の説があります。国府村は昭和30年3月の合併で日高町、平成17年4月の合併で豊岡市となりました。

国府駅

冷たい雨の降る中、国府駅を撮影。駅舎は無いものの、待合室隣の建屋(信号室?)に駅名が掲げられています。2番ホームへは線路の下をくぐるトンネルで連絡していますが、このトンネルが工事現場にでもありそうなジャバラの円形トンネルでした。駅のトンネルではまず見ないタイプのトンネルです。

豊岡駅

国府12:25発普通豊岡行き431M(クモハ112-5302)で豊岡へ。但馬地方の中心都市・豊岡市の代表駅で、山陰本線の他に京都丹後鉄道宮豊線が乗り入れています。駅舎は平成23年2月改築の半橋上駅舎で、こうのとりと柳行李をイメージしたデザイン。自由通路で駅前ショッピングセンター「アイティ」に直結しています。

豊岡駅 東口駅前トイレ

駅前タクシー乗り場の近くに設置された公衆トイレは旧駅舎をイメージしたデザイン。知っていないと気付きませんが、こうした形で消えた建物の記憶を引き継いでくれるのはいい試みだと思います。

豊岡駅 旧駅舎(H21-4-4)

ちなみに旧駅舎はこんな建物でした。大正15年改築で、昭和10年10月一部改築。地方中心都市の玄関口にふさわしい風格ある駅舎でした。この写真を撮影したのは私が小学4年生の頃で、家族旅行の時にお古のデジカメを貸してもらって撮ったものです。全体が写っていないものの構図自体は良く、よくぞ撮ったと当時の自分を褒めてあげたいくらいですが、当時撮った他の写真を見るとどれもブレていたりピンボケだったりなので、豊岡駅の旧駅舎だけ綺麗に写っているのが奇跡なのでしょう。当時はそこまで駅舎に興味はなく、駅めぐりを始めたのも中学生になってからでした。

経済協力会

豊岡の復興建築

香住行きまでの乗り換え時間で駅近くの近代建築を撮影。いずれも昭和初期の耐火建築で、北但馬地震からの復興時に建てられたいわゆる「復興建築」です。

竹野駅

豊岡13:02発普通香住行き173D(キハ47-1+キハ47-1133)で竹野へ。平成17年4月の合併で豊岡市となった旧:城崎郡竹野町の駅で、簡易委託の窓口が設置されています。明治44年10月、播但線の城崎~香住間開業時に開設、当時の所在地は城崎郡中竹野村でした。中竹野村は昭和30年3月の合併で竹野村となり、昭和32年4月に町制施行して竹野町になっています。竹野駅の駅舎は開業時に建てられた寄棟造の木造駅舎で、風格を感じる見た目をしています。予定では駅前の喫茶店で昼食を食べるはずでしたが、休業していたので駅から少し歩いたところのローソンのイートインで昼食を済ませました。

城崎温泉駅

竹野14:23発普通城崎温泉行き174D(キハ47-1133+キハ47-1)で城崎温泉へ。言わずと知れた有名温泉地・城崎温泉の玄関口で、特急列車の多くは当駅を終点としています。明治42年9月開業、駅舎は大正15年5月改築の2代目で、初代駅舎が前年5月の北但馬地震で倒壊したことから、地震に強い鉄筋コンクリート造で再建されました。今年で築97年を迎える大変古い駅舎ですが、洗練されたデザインのおかげであまり時代を感じさせません。駅名は平成17年3月に「城崎」から改称、所在地の城崎郡城崎町も翌月の合併で豊岡市となっています。訪問時はちょうどカニのシーズン真っ只中とあって多くの観光客で賑わっていました。城崎温泉と言えば、政務活動費をカラ出張で支出していた野々村元県議を思い出しますが、あの事件も今年で10年になるのですね。

豊岡駅 駅名標

城崎温泉14:42発普通福知山行き438M(クモハ113-5307)で豊岡へ。豊岡駅2・3番ホームの端には国鉄様式の懐かしい駅名標が残っています。駅舎改築時に撤去されずに生き延びたということは意図的に残しているのでしょうか?

つるや

豊岡の復興建築

オーベルジュ豊岡1925(旧:兵庫県農工銀行豊岡支店)

豊岡市役所本庁舎(旧:城崎郡豊岡町役場)

生憎の天気ですが、豊岡市中心部を散策。豊岡は杉原氏・京極氏豊岡藩の城下町として栄えたところで、明治4年から9年までは豊岡県の県庁が置かれていました。大正14年5月23日の北但馬地震では甚大な被害を受け、その復興に際しては多くの復興建築が建てられています。今なお復興建築の多くが現存する近代建築の豊富な街で、観光資源として活用されているものもあります。その一つ、豊岡市役所本庁舎は昭和2年城崎郡豊岡町役場として建てられたもので、昭和25年4月の合併・市制施行で豊岡市役所となり、築90年を超えた今なお現役で使用されています。

豊岡の復興建築

豊岡の復興建築

豊岡の復興建築

高石医院

エンドー鞄

豊岡劇場

あまりに近代建築が多く、シャッターを切る手が止まりません。豊岡劇場は昭和2年開業。兵庫県北部では唯一の映画館で、平成24年3月末に一度閉館しましたが、地元企業が引き受けてリノベーションして再開。しかしながらコロナ禍の影響により昨年8月末に休館を余儀なくされています。豊岡から映画館が無くなれば最寄りは三田になるそうで、地元では有志により再開に向けての活動が行われています。

C57 11

市街地の東端にある中央公園にはC57 11が保存されています。昭和12年9月に大阪汽車会社で製造、小郡に新製配置され、昭和18年に門司、昭和21年に門司港に転属しました。昭和28年には特急「かもめ」の牽引機に指定され、お召列車を牽引したこともありました。その後、米子を経て、昭和32年7月に豊岡機関区に転属。山陰本線を中心に活躍しました。昭和47年3月に福知山に移り、8か月後に廃車を迎えています。

豊岡の復興建築

豊岡の復興建築

達徳会館(旧:豊岡尋常中学校本館)

明治29年に建てられた豊岡尋常中学校本館は兵庫県指定文化財昭和16年の校舎改築の際、消滅を惜しんだ卒業生たちの手で移築され、同窓会の名称をとって「達徳会館」と呼ばれるようになったそうです。

松屋

佐藤家及び西村家住宅(登録有形文化財

京極湯

豊岡はとにかく近代建築が多く、色々見ているうちに列車の時間が迫ってきたので、最後の方は撮っては走り撮っては走りのの繰り返しでした。存在を知らず見逃し建物もありそうで、またゆっくりと来なければいけません

江原駅

 

豊岡16:21発普通福知山行き440M(クモハ223-5509)で江原へ。平成17年4月の合併で豊岡市となった旧:気多郡日高町の駅で、みどりの窓口もある特急停車駅です。駅舎は平成9年2月橋上化。かつては出石とを結ぶ出石鉄道が分岐していました。

江原河畔劇場(旧:気多郡日高町役場)

江原駅周辺を散策。駅近くの江原河畔劇場は昭和10年に気多郡日高町役場として建てられたもので、昭和57年からは日高町商工会館として使われていました。令和2年4月に劇場としてリニューアルオープン、その際にかつてあった塔がシンボルとして復元されています。

江原の街並み

江原も古い建物が多く残る街で、コンクリートの近代建築が多かった豊岡とは対照的に瓦屋根の町家が多い和風の街並みです。線路の向こう側にSLの保存車を見つけましたが、日没が迫っていたため撮影は次来た時に回すことにしました。

113系S2編成

江原17:47発普通福知山行き442M(クモハ113-5302)で福知山へ。乗り換え待ちの時間で駅前のつけ麺屋で夕食をとり、19:31発丹波路快速大阪行き2780M(クモハ223-6123)で宝塚に帰りました。

1/4 新春吉備線駅めぐり

新年一発目の駅めぐりは吉備線

まねき 学割うどん

逆瀬川を5:06発普通西宮北口行き2(5506)で出発し、西宮北口5:19発普通新開地行き5(7627)、高速神戸5:56発直通特急山陽姫路行き9053(8238)を乗り継いで姫路へ。姫路7:31発普通新見行き1307Mへの乗り換え時間を利用してホーム上の駅そば店「まねき」の学割うどんで朝食としました。

総社駅

姫路7:31発普通新見行き1307M(クハ111-566)で総社へ。総社市の代表駅で、伯備線吉備線のほか、井原鉄道も乗り入れています。大正14年2月、伯備南線の倉敷~宍粟(現:豪渓)間開業時に「西総社」として開業、同年8月に中国鉄吉備線が初代「総社」駅(現:東総社)から延伸して乗り入れました。中国鉄吉備線昭和19年6月に国有化、西総社駅は昭和34年11月に改称されて二代目「総社」駅となりました。駅舎は井原鉄道開業を前にした平成10年12月に橋上化されています。

D51 889

総社駅から10分ほど歩いて石原公園へ。ここには伯備線などで活躍したD51 889が保存されています。昭和19年4月12日に日立製作所笠戸工場で製造、門司に新製配置されて熊本、人吉、吉松と九州で長く活躍したのち、昭和45年10月30日に新見にやってきて最後の二年間をここで過ごしました。廃車は昭和47年7月4日です。屋根があるので状態は良いのですが、柵が高すぎるのと前照灯がないのが残念。

総社市役所

続いて総社市役所へ。総社はかつて吉備国国府が置かれていたところで、市名は備中国総社宮に由来します。市役所本庁舎は昭和44年、西庁舎は昭和47年竣工とそれぞれ耐震性が低いことから新庁舎建設が計画されています。残念ながら逆光だったので建て替えまでにまた来たいところ。

カヤノ写真館

総社の個人邸

総社の個人邸

旧亀屋

まるこし

総社の個人邸

総社市役所から北東に行ったところに総社のかつての中心があり、商店街通りに沿って数多くの近代建築が残っています。北向きの建物が多いので、天気が良すぎると逆光になってしまうのが難点。やはり建物の撮影は曇りの日が一番です。

総社市まちかど郷土館(旧総社警察署)

総社市まちかど郷土館は明治43年に総社警察署として建てられたもので、昭和34年まで警察署として使われていました。設計は以前のドライブでも多くの作品を目にした江川三郎八。

東総社駅

旧市街の最寄りは吉備線東総社駅明治37年11月に中国鉄吉備線の終点「総社」として開業した駅で、昭和34年10月に「東総社」に改称されました。当駅改称の一カ月後に西総社駅が二代目の総社駅となっています。元はこちらが総社駅だっただけあって総社市の中心へはこちらの方が近いものの、中心の座を譲ってから60年が経つため活気には欠けます。昭和55年3月改築の駅舎は開放的な造りで、平成16年4月までは有人駅でした。

総社駅

東総社10:56発総社行き739D(キハ47-3001+キハ47-99)で再び総社へ。吉備線の終点で、吉備線は切欠きホームの0番線を使用しています。先程は撮れなかった部分を色々を撮影。

足守駅

総社11:13発岡山行き744D(キハ47-99+キハ47-3001)で足守へ。集落よりも少し高いところにある棒線駅で、昭和48年10月築の簡素なブロック造待合所と平成19年10月築のさらに小さな待合所が並んで建っています。かつては有人駅で駅舎もありました。駅名は昭和46年5月に岡山市編入された吉備郡足守町(旧:賀陽郡足守村)に由来しますが、駅が設置されたのは隣の生石村福崎(町村制までは賀陽郡福崎村)でした。足守は豊臣秀吉の正妻・ねね(北政所)の兄・木下家定小早川秀秋の父)を祖とする木下氏が治めた足守藩二万五千石の陣屋町で、緒方洪庵の出身地としても知られています。駅が足守にないのにその名を名乗ったのは、足守という地名の知名度もあるでしょうが、吉備線を開業させた中国鉄道社長の藤田連蔵が足守に居を構えていたという事情もあるそうです。

服部駅

足守11:36発総社行き741D(キハ47-1038+キハ47-45)で服部へ。明治41年4月に新設された駅で、駅名は昭和46年4月に総社町編入された吉備郡服部村に由来します。無人駅ですが、岡山県立大学の最寄り駅のためローカル駅にしては利用客が多めです。

服部駅 旧駅舎

駅裏手には現駅舎への改築まで使われていた旧駅舎が移築の上で倉庫として使われています。詳細は不明で移築年もよく分かっていませんが、建物の特徴から見て明治41年開業時のものの可能性もあります。瓦屋根に中国鉄道のマークが残っていますが、撮り忘れました。

備中高松駅

服部12:21発岡山行き746D(キハ47-45+キハ47-1038)で備中高松へ。昭和46年1月に岡山市編入された旧:吉備郡高松町の駅で、令和3年5月31日までみどりの窓口が設置されていました。駅舎は昭和55年12月改築、簡素な駅が多い吉備線の途中駅の中では一番立派な駅舎です。最上稲荷の最寄り駅で、昭和6年2月までは「稲荷」を名乗っていました。明治44年5月には当駅から分岐して最上稲荷門前の「稲荷山」に至る中国鉄道稲荷山線が開業したものの、国有化前の昭和19年1月に廃止されています。また、羽柴秀吉の水攻めで有名な清水宗治の居城・備中高松城址の最寄り駅でもあります。

高松の洋館

岡山県立高松農業高等学校資料館(旧岡山県立農学校堆肥舎)

次の列車までの時間で駅前を散策。岡山県立高松農業高等学校資料館は明治42年岡山県立農学校堆肥舎として建てられたもので、国の登録有形文化財。煉瓦壁に虫籠窓、茅葺屋根という和洋折衷スタイルです。

大安寺駅

備中高松13:16発岡山行き748D(キハ40-3004+キハ40-3005)で大安寺へ。吉備線では唯一の島式ホームの駅で、有人駅時代は駅舎がありました。大正3年2月、中国鉄道の大株主だった畳表問屋の豪商間野氏の出資による仮停留場として開業、翌年7月に停留場となり、昭和3年11月に正式な駅となりました。駅入口にある待合所は昭和48年11月築で、ホーム上には昭和5年6月設置の古い木造上屋が残っています。駅名の由来は明治22年の町村制で大野村が成立するまで存在した御野郡大安寺村に由来します。御津郡大村は昭和27年5月に岡山市編入、実業家・土光敏夫の出身地(生家は北長瀬)でした。

上正野田公会堂

駅前の道を少し北へ行くと上正野田(かみしょうのだ)公会堂があります。築年不詳、増築されていますが、相当古い建物のようです。

備前一宮駅

大安寺13:59発総社行き747D(キハ40-3005+キハ40-3004)で備前一宮へ。備前国一之宮・吉備津彦神社の最寄り駅で、明治37年11月に「一ノ宮」として開業しました。駅名は「一宮」となったのち、大正5年2月に「備前一宮」に改称されています。駅舎は平成20年12月に改築されたもので、同年10月末まで中国鉄道開業時以来の木造駅舎が使用されていました。

岡山市北区役所一宮地域センター(旧:御津郡一宮町役場)

駅前には一宮地域センターの旧庁舎が残っていました。昭和31年2月に御津郡一宮町役場として建てられたものです。一宮町は昭和46年1月に岡山市編入、以降は支所、そして地域センターとして使われてきたものの、令和4年5月16日の移転で役目を終えました。築60年越えの古い建物なので、さすがに今後解体されるでしょうね。

備前三門駅

備前一宮14:21発岡山行き750D(キハ47-45+キハ47-1038)で備前三門へ。岡山市郊外の住宅街にある駅で、昭和48年10月築と平成19年10月築、二つの待合所が設置されています。便所には明治37年10月の建物財産標がありました。明治37年11月に「三門」として開業、国有化時に外房線三門駅と区別するために「備前」が冠されました。開業時の所在地は御津郡石井村下伊福で、大正10年3月に岡山市編入されています。石井村は明治22年の町村制までは御野郡巌井村で、明治11年9月の郡区町村制施行から明治16年6月までは御野郡役所が置かれていました。

岩井の洋館

三門西町の洋館

アトラス吉備寮

備前三門駅からは周辺の近代建築を見ながら歩いて東へ。備前三門駅周辺は岡山の山の手住宅地といった感じで、風格ある洋風住宅が残っていました。

岡山気動車

そのまま東へ歩き、歩道橋で岡山気動車区と山陽本線を越えました。津山線吉備線をはじめとした岡山支社管内の路線で使用される気動車が所属する車両基地で、津山線開業時の始発駅「岡山市」駅もこの辺りにあったとされています。タラコ色のキハ40が勢ぞろいする様は圧巻ですが、このような景色も果たしていつまで見られるでしょうか。

番町の洋館

番町の洋館

ミニサロンAKEBONO(旧:廣瀬醫院)

番町の洋館

両備文化振興財団番町分室

線路を越えたところの番町は近代建築の宝庫。戦前に建てられた洋館が数多く残っています。

紬屋旅館

紬屋旅館は築80年の古民家を改装した一日一組限定の旅館。

南方の洋館

みんなが集まる博士の家 広瀬町コミュニティハウス

「みんなが集まる博士の家」は昭和初期に医学博士・津田誠次(1893~1973)によって建てられた住宅を公益的活動のために改修したもので、地域の人々の集まる場所として活用されています。

sites.google.com

近代建築を探しながら歩き、旭川を岡北大橋で渡って西川原・就実駅へ。16:47発普通姫路行き1326M(モハ114-1158)、姫路18:10発新快速4号野洲行き3514M(モハ223-1006)、阪急三宮19:01発特急梅田行きK1900(1052)、西宮北口19:27発普通宝塚行き1979(5541)を乗り継いで帰宅しました。

12/31 大晦日の紀勢本線(熊野エリア)駅めぐり

令和4年最後の日、紀勢本線熊野エリアの駅を巡りました

新宮駅

紀三井寺を6:10発普通紀伊田辺行き321M(クモハ226-1029)で出発し、紀伊田辺で7:50発普通新宮行き2329M(クモハ226-1024)に乗り換えて新宮へ。実に7年9か月ぶりの再訪で、前回あったみどりの窓口は券売機プラスに変わっていました。熊野地方の中心都市・新宮市の代表駅で、大正2年3月1日に新宮鉄道の駅として開業。昭和9年7月の買収で紀勢中線の駅となり、昭和13年5月に現在地に移転しています。駅舎は昭和27年12月竣工の3代目で、ガラス張りの近代的なデザインのおかげか、とても築70年以上の駅舎とは思えません。

紀伊市木駅

新宮10:52発普通多気行き328C(キハ25-1608)で紀伊市木へ。昭和33年9月の御浜町成立まで存在した旧:南牟婁郡市木尾呂志村の駅で、昭和31年9月の合併までは市木村でした。駅は昭和15年8月の紀勢西線新宮~紀伊木本(現:熊野市)間の開業時に開設。開業時の木造駅舎が長らく残っていたものの、平成27年11月下旬から解体され、平成28年2月に簡易駅舎に改築されました。駅舎は締切不可の非常に簡素なもので、これならまだ四国の銀の箱の方が居住性が良さそうだと感じます。

紀伊市木駅前の風景

駅があるのは下市木の集落を見下ろす高台で、駅前からは山の麓にみかん畑が広がる市木の風景を眺めることができます。紀伊市木駅がある御浜町はみかんの生産が盛んなところで、年中様々な品種が出荷されています。

緑橋防潮水門

紀伊市木駅を後に、国道42号を歩いて阿田和駅方面へ。市木川を渡る橋の部分では国道に歩道がないため、旧道に迂回しました。旧道が市木川を跨ぐ地点に架けられた緑橋は防潮水門を兼ねていて、大正7年竣工。石材と煉瓦を組み合わせた、歴史ある構造物で、土木学会選奨土木遺産となっています。訪問時は耐震工事中でした。

南牟婁郡御浜町役場

市木川を渡って国道に戻り、しばらく歩くと右手に南牟婁郡御浜町役場が見えてきました。御浜町は昭和31年9月に阿田和町・神志山村・市木尾呂志村が合併して誕生した町で、町名は熊野灘に面した七里御浜に由来します。役場は阿田和地区に置かれており、庁舎はおそらく平成10年竣工。

阿田和駅

さらにしばらく行くと阿田和駅に到着。紀伊市木と同じく昭和15年8月の紀勢西線新宮~紀伊木本(現:熊野市)間の開業時に開設。駅舎は開業時のもので、「昭和14年12月」の建物財産標が付いています。南牟婁郡阿田和町の玄関口として多くの利用が見込まれたためか、周辺駅と比べると立派な木造モルタル駅舎で、高い天井が風格を感じさせます。

Bランチ(さばふぐの竜田揚げ)

ちょうどお昼時で、次の列車まで時間もあるので、駅前の道の駅パーク七里御浜にあるレストラン「ごちそうダイニング by 辻さん家」で昼食。一年で最後の昼食ということで奮発して1540円のさばふぐ竜田揚げを頂きました。

紀伊井田駅

阿田和13:05発普通新宮行き329C(キハ25-1502)で紀伊井田へ。平成18年1月に鵜殿村と合併した南牟婁郡紀宝町の駅で、昭和29年10月の紀宝町成立までは井田村でした。合併前は紀宝町唯一の駅でしたが、合併で役場が鵜殿に移ったことで、町の玄関口も鵜殿駅に移っています。昭和15年8月の紀勢西線新宮~紀伊木本(現:熊野市)間の開業時に開設。紀伊市木同様に木造駅舎が近年まで残っていましたが、平成24年に解体されて簡素な待合所に変わっています。(建物財産標の表記は平成24年9月)

新鹿駅

紀伊井田13:38発普通紀伊長島行き330C(キハ25-1613)で新鹿へ。昭和31年4月、紀伊木本(現:熊野市)から伸びてきた紀勢西線の終点として開業した駅で、昭和34年7月の当駅~三木里間開業を以て紀勢本線は全通することになりました。駅のある新鹿(あたしか)地区は昭和29年11月の熊野市成立までは南牟婁郡新鹿村で、駅は高台にあるものの、建物に遮られて海は見えません。駅舎は開業時のもの(建物財産標は昭和30年12月)で、木製の引き戸が残っています。

新鹿海水浴場

次の列車までは2時間あるので、集落を下って海水浴場へ。新鹿海水浴場は鉄道開通を前に昭和28年に開かれたもので、鉄道開通を機に海水浴客で賑わうようになりました。山と海に囲まれた新鹿は鉄道開通まで陸上交通に恵まれない「陸の孤島」だったところで、外とのやり取りは専ら船に頼っていたようです。

周参見駅

新鹿16:23発普通新宮行き331C(キハ25-1514)で帰途に就きます。新宮で17:10発普通紀伊田辺行き2340M(クモハ227-1023)に乗り換え。途中、周参見で22分の停車があったのでこれを機会に訪問。令和4年最後の訪問駅となりました。西牟婁郡すさみ町の玄関口で、特急「くろしお」を含め全列車が停車します。昭和11年10月、紀伊椿(現:椿)から伸びてきた紀勢西線の終点として開業、昭和13年9月の江住延伸で途中駅となりました。平成12年3月改築の駅舎は「すさみ町民コミュニティープラザ」との合築で、日中は観光案内所と喫茶店も営業しています。かつてはみどりの窓口もありましたが、令和3年5月31日で営業を終了、翌日より無人駅となりました。

紀伊田辺からは20:39発普通和歌山行き396M(クモハ223-2511)に乗車。紀三井寺の祖母宅で新年を迎えました。

12/29 東海道本線駅めぐり(西岐阜・関ケ原・柏原)

名古屋市営駅めぐりの後は、東海道本線の未訪問駅3つに下車しました

西岐阜駅

名古屋14:15発新快速大垣行き2325F(クハ312-306)で西岐阜へ。昭和61年11月に開業した駅で、岐阜市西部の住宅地にあります。線路を跨ぐ陸橋に直結した構造の橋上駅舎でホームは島式。線路自体が築堤上にあるので、駅舎は結構な高さです。

岐阜県

西岐阜駅から早足で12分歩いて岐阜県庁へ。岐阜市中心市街から離れた立地で、最寄り駅からも1.2㎞あるので、お世辞にも便利な立地とは言い難いです。こちらも1月4日より新庁舎に移転予定なので、最後に見ておこうと歩いてきました。役目を終える4代目庁舎(右)は昭和39年起工、昭和41年竣工。完成当時、周辺は一面の田園地帯でした。最寄りの西岐阜駅もない時代、何でよりにもよってそんな不便なところに移転したのか理解に苦しむところです。令和5年1月4日開庁となる5代目庁舎(左)は令和3年7月1日着工、令和4年12月16日竣工。地上21階建て、高さは106mで、12階建ての4代目庁舎が小さく見えます。岐阜県で3番目に高い建物となりました。

西岐阜駅から見た岐阜県

周辺は郊外で高い建物が少ないこともあって、県庁は1.2㎞離れた西岐阜駅からでも十分に見ることができます。しかし、歩いてみると見えているのになかなか近づかないので体感では遠く感じられました。県庁を撮影を手短に済ませ、列車に間に合うように走って西岐阜駅に戻るとかかった時間は10分ちょっと。身体と心はひどく疲れました。

関ケ原駅

西岐阜15:22発快速大垣行き2527F(クモハ313-302)と大垣15:37発普通米原行き237F(クハ312-406)を乗り継いで関ケ原へ。天下分け目の関ヶ原の戦いで有名な不破郡関ケ原町の玄関口で、昭和19年10月(あるいは12月)改築の木造駅舎が改装の上で使用されています。明治16年5月、長浜から伸びてきた官設鉄道の終点として開業し、翌年5月の大垣延伸で途中駅となりました。関ケ原越えは東海道本線の難所の一つで、SL時代はさぞ賑わったのでしょうが、今では単なる途中駅の一つといった感じです。

柏原駅

関ケ原16:23発普通米原行き239F(サハ311-6)で柏原(かしわばら)へ。平成17年2月の合併で米原市となった旧:坂田郡山東町の駅で、滋賀県最東端の駅です。昭和30年7月の山東町成立までは柏原村でした。柏原は中山道60番目の宿場町・柏原宿として栄えたところです。駅舎は昭和32年3月改築のブロック積みですが、建物財産標には「昭和46年11月」とあります。駅の背後に聳えるのは霊峰・伊吹山

この日はこれで終了し、柏原16:58発普通米原行き241F(サハ311-9)、米原17:17発新快速播州赤穂行き3511M(サハ223-2075)、尼崎18:58発快速宝塚行き5513M(クモハ207-1018)を乗り継いで帰宅しました。

12/29 名古屋市営地下鉄(名城線・桜通線)改称予定駅+αめぐり

飯田線駅めぐりの後は名古屋市営地下鉄の改称予定駅とその隣駅を巡りました

堀田駅

金山でドニチエコきっぷを購入し、11:15発名城線左回り115(2107)で堀田(ほりた)へ。空港線妙音通が交差する地下鉄堀田交差点の地下にある駅で、昭和49年3月に4号線の駅として開業しました。同名の名鉄堀田駅とは300mほど離れています。当駅は改称予定駅ではありませんが、乗換駅でもないのに同名なのはややこしいので、地名からとって「苗代町」とでも改称した方が良かったのではないでしょうか。

伝馬町駅(現:熱田神宮伝馬町駅)

堀田11:36発名城線右回り130(2615)で伝馬町(てんまちょう)へ。訪問後の1月4日に「熱田神宮伝馬町」に改築されました。熱田神宮正門の最寄り駅で、参詣駅として多くの利用があることが改称の理由とされています。伝馬町の地名は馬が交通の主役であった時代の「伝馬制」という制度に由来するもので、江戸時代の城下町では領主の移動や通信のための「伝馬」の世話をし、費用を負担した地区が「伝馬町」と呼ばれました。

神宮西駅(現:熱田神宮西駅)

伝馬町11:48発名城線右回り134(2632)で神宮西へ。訪問後の1月4日に「熱田神宮西」に改築されました。その名の通り、熱田神宮の西側にある駅で、改称内容もどの神宮の西側なのかをはっきりさせたにすぎません。地上に出ると東南側の駅前には神宮の森が広がっています。

西高蔵

神宮西12:10発名城線右回り142(2620)で西高蔵へ。高座結御子(たかくらむすびみこ)神社西参道と伏見通が交差する西高蔵交差点の地下にある駅で、名古屋有数のターミナル駅の一つ・金山駅の隣駅にしては静かなところです。高座結御子神社熱田神宮境外摂社の一つで、熱田神宮と同じく尾張の祖神を祀る歴史ある神社です。祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)。西高蔵の地名はこの神社の西にあることから付いたのでしょうが、地名(および駅名)・神社名・祭神名の3つでいずれも「くら」の漢字が違うのが面白いところです。

名城公園

西高蔵12:22発名城線右回り146(2616)で名城公園へ。名城公園の最寄り駅で、名古屋城の最寄り駅と勘違いされることが多いことから、駅のあちこちに「名古屋城ドルフィンズアリーナの最寄りは隣の市役所駅です」との案内があります。名城公園名古屋城跡を活用した面積80.41ヘクタールの広い公園で、スポーツ施設のある北園と名古屋城愛知県体育館ドルフィンズアリーナ)のある南園からなります。名城公園の最寄りはこのうち北園。

市役所駅(現:名古屋城駅)と名古屋市役所

名城公園12:51発名城線左回り159(2124)で市役所へ。訪問後の1月4日に「名古屋城」に改築されました。名古屋市役所・愛知県庁をはじめ、多くの官庁が集まる官庁街にある駅で、名古屋城の最寄り駅です。昭和40年10月、名城線で最初に開業(当時は2号線)した市役所~栄町(現:栄)間の始発駅で、昭和46年12月の市役所~大曽根間開業で途中駅となりました。「市役所前」は路面電車の停留場も入れれば全国で8つと日本では最も多い駅名ですが、「前」の付かない「市役所」を名乗るのは全国でここだけでした。ただし、当駅の改称と同日に長崎電気軌道の「市民会館」停留場が「市役所」停留場に改称されたため、「市役所」という駅名は遠く長崎で復活しています。

市役所駅と愛知県庁

3号出口が最寄りの名古屋市役所昭和8年9月竣工。昭和天皇即位の記念事業として公募によって選ばれた平林金吾の設計で建てられました。市役所の南隣に建つ愛知県庁は昭和13年3月竣工。名古屋城天守閣をイメージした瓦屋根が目を惹くデザインです。いずれも、近代的なビルに瓦屋根を載せた和洋折衷の「帝冠様式」で、共に国の重要文化財に指定されています。どちらの建物もカッコいいですが、個人的に愛知県庁の方が好みです。

市役所駅(現:名古屋城駅) 7番出入口

市役所駅のうち、名古屋城に一番近い7番出入口は名古屋城高麗門をモチーフとしたデザイン。改称によって見た目と名前が一致することになりました。

久屋大通駅 案内路線図

市役所13:08発名古屋港行き165(2612)で久屋大通へ。名城線桜通線の乗換駅で、あまりに大きな駅なので今回は改札外には出ず、駅名標や路線図を中心に撮影。従って、訪問駅にもカウントしません。1月4日に改称された4駅が名城線桜通線に固まっていたので、幸いにも改称予定駅めぐりは楽でした。

中村区役所駅(現:太閤通駅)

久屋大通13:26発(6815)で中村区役所へ。平成元年9月に開業した桜通線の起点で、訪問後の1月4日に「太閤通」に改築されました。太閤通環状線が交差する太閤通三丁目交差点地下にあります。中村区は豊臣秀吉(太閤)の出身地として知られるところで、その縁で愛知県道68号名古屋津島線の一部が太閤通と呼ばれるようになりました。

名古屋市中村区役所 旧庁舎

駅の北側には中村区役所の旧庁舎があります。昭和39年12月竣工の区役所は3階までが庁舎、4階から10階までがマンションという構造で、訪問前日の12月28日限りで業務を終えていました。老朽化のため、東山線本陣駅近くに建設された新庁舎に移転して、1月4日より開庁。これにより中村区役所の最寄り駅は本陣駅に替わっています。

名古屋駅

中村区役所14:00発徳重行きK1400T(6113)で名古屋へ。名古屋市営地下鉄駅めぐりはこれで終了し、名古屋からは再び東海道本線に乗り、西岐阜へと向かいます。

12/29 師走の飯田線駅めぐり その2

飯田線駅めぐり二日目は豊川からスタート

野田城駅

3分遅れの豊川6:14発普通天竜峡行き501M(クハ312-3017)で野田城へ。戦国時代に存在した菅沼氏の居城・野田城に由来する駅名を持つ駅で、昭和7年12月に建てられた木造駅舎が現役で使用されています。大正7年1月、豊川鉄道の駅として南設楽郡千郷村に開業しました。千郷村は明治39年5月に千秋村と西郷村が合併して誕生した村で、両方の村から一字ずつ取られています。千郷村は昭和30年の合併で新城町となり、その後新城市となりました。元亀4(1573)年、当地を舞台に繰り広げられた野田城の戦い三方ヶ原の戦いに続く戦いです。三方ヶ原で勝利を収めた武田軍が徳川方の武将・菅沼定盈(さだみつ)の守る野田城を包囲し、一か月で開城降伏させています。野田城の勝利により、武田軍は徳川軍の三河防衛網を崩壊させることに成功しましたが、信玄の病状悪化によって侵攻を止めて引き返したために徳川の息の根を止めることはできませんでした。信玄は戦いの三か月後、甲斐に戻る途中の信濃で死去したため、野田城が最後の戦いとなっています。

茶臼山駅

2分遅れの野田城6:55発普通本長篠行き503M(クハ312-3024)で茶臼山へ。長篠の戦い織田信長が本陣を置いた茶臼山に由来する駅名を持つ駅で、大正15年5月に開業しました。駅舎は平成8年2月改築で、アーチを描く形状が印象に残ります。開業時の所在地は南設楽郡東郷村で、明治39年5月までは石座村、明治8年までは富永村でした。

東新町駅

茶臼山7:13発普通豊橋行き512M(クモハ313-3024)で東新町へ。新城市中心市街地の東端にある駅で、大正3年1月開業。簡易委託の窓口が設置されています。ホームは一本ながらかつては立派な木造駅舎がありましたが、新城方にある踏切の拡幅工事のため、平成20年12月に現駅舎に改築されました。開業時の所在地は南設楽郡東郷村で、明治39年5月までは平井村でした。

新城駅

東新町7:44発普通豊橋行き514M(クモハ313-3024)で新城へ。江戸時代には交代寄合(旗本)・菅沼氏(野田城城主の子孫)の陣屋町であった新城市の代表駅で、みどりの窓口も設置されています。天井の高い立派な木造駅舎は建物財産標によれば豊川鉄道時代の昭和15年12月改築、国有化後に改築された牛久保駅とも似たデザインです。素晴らしい駅舎ですが、駅前整備で障害物が多くなってなかなか綺麗に撮れないのが残念です。せめて電線を地中化するだけでも駅舎が一気に映えると思うのですが。

牛久保駅

新城8:17発普通豊橋行き516M(クモハ213-5003)で牛久保へ。昨日来たばかりですが、その時は窓口が開いていませんでした。昭和18年8月国有化時に改築された駅舎で、改めて比べてみると新城駅と兄弟と言っていい程度には似ています。しかし、車寄せの形状が違いますし、通気口の位置や形状、屋根の形状が違います。建築主体は豊川鉄道と国鉄という風に異なりますが、時期的に豊川鉄道時代に設計を済ませていたので似た駅舎になったという可能性はありそうですが。

牛久保駅

ホーム上には新駅舎を建設中。3月18日より使用開始予定で、新駅舎には窓口や駅員の勤務スペースがないのを見るに、新駅舎使用開始に合わせて無人駅となるのでしょう。この駅舎を味わえるのもあと二ヶ月ほどです。

船町駅

牛久保8:53発普通豊橋行き412M(クモハ313-3023)で船町へ。昭和2年6月、豊川鉄道の「新船町停留場」として開業した駅で、国有化時に駅に昇格して「新」も外されました。飯田線の線路と地上を走る貨物線に挟まれて昭和34年12月改築の小さすぎる駅舎があり、築堤上に狭い島式ホームがあります。元私鉄だけあってスケール感はとてもJRの駅とは思えません。駅前の線路は貨物駅(現在はオフレールステーション)に繋がっており、この貨物駅が国有化までは「船町」を名乗っていました。

船町駅

船町駅のある区間飯田線名鉄名古屋本線の線路共用区間で、飯田線の列車だけでなく、名鉄の列車も通過していきます。これは名鉄の前身である愛知電気鉄道が豊橋(吉田)に乗り入れる際、豊川に架かる橋の建設費を抑えるべく豊川鉄道と共同使用する契約を結んだことによるもので、愛電と豊鉄がそれぞれ単線を所有して複線として豊橋~平井信号場間を共同使用しています。この契約は豊川鉄道国有化も受け継がれて今に至ります。

下地駅

船町9:11発普通本長篠行き515G(クハ312-3027)で下地へ。船町に引き続き、名鉄との共用区間にある駅で、東海道本線も並走しています。ホームは「H」のような形状をしていて、その間に駅舎が建てられているという不思議な構造の駅。元は普通の島式ホームだったそうですが、豊川橋梁架け替えに伴って昭和49年8月にこのような配置になりました。

下地駅

ホームに挟まれた駅舎は昭和49年8月改築。駅舎正面の階段を下ると駅の出入り口です。船町と共に普通列車でも通過する程度に停車本数の少ない駅ですが、飯田線に加えて名鉄東海道本線と目の前を列車がひっきりなしに通過していきます。大正14年12月、開業時の所在地は宝飯郡下地町で、昭和7年9月に豊橋市編入されました。

豊川橋

豊川橋梁 橋台跡

次の列車までの時間で豊川橋梁を見学。下り線が豊川鉄道(→国鉄→JR)、上り線が愛知電気鉄道(→名鉄)の建設し、所有したものでした。上下線の間には架け替え前のレンガの橋台が残っています。

小坂井駅

下地9:43発普通豊川行き411G(クハ312-3023)で小坂井へ。平成22年2月に豊川市と合併した旧:宝飯郡小坂井町の駅で、明治31年3月に開業しました。開業時の所在地は宝飯郡豊秋村で、明治39年9月に伊奈村と合併して小坂井村、大正15年9月に町制施行して小坂井町となっています。大正15年4月、愛知電気鉄道豊橋線が当駅まで開業、翌年6月の伊奈~吉田(現:豊橋)間延伸までは当駅で愛電から豊橋方面への乗換が行われていました。吉田開業時、伊奈~小坂井間は小坂井線として本線から切り離され、以降は名鉄から豊川方面への直通経路として維持されたものの、昭和29年12月に名鉄豊川線が全通すると廃止されています。かつては乗換駅として賑わった小坂井駅は平成11年3月に無人化、平成14年2月に簡易駅舎に改築されました。

飯田線駅めぐりはこれで終了。小坂井9:54発快速豊橋行き2524M(クモハ313-3019)と豊橋10:21発新快速大垣行き2313F(モハ313-5012)を乗り継いで金山へと向かいました。