まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

7/26 灼熱の奥羽本線(山形線)・仙山線駅巡り

この日も引き続き山形の駅を巡りました。

新庄市役所

笠地蔵とおりの建物

旧:楯岡銀行

門脇医院

陽の長い季節なので5時にホテルを出て、始発までの時間で新庄市街を散策。昭和29年に建てられた新庄市役所をはじめとして、新庄には古い建物が多く残っています。早朝だけあって霧が出るほどの涼しさで、夏に街歩きをするなら早朝一択だなと思います。

芦沢駅

新庄5:47発普通米沢行き1420M(クハ700-5505)で芦沢へ。東北地方で最も人口の少ない市・尾花沢市にある唯一の駅ですが、市の中心部からは大きく離れています。大正5年12月1日開業時の所在地は北村山郡福原村で、明治の町村制までは北村山郡芦沢村でした。福原村は昭和29年10月1日の合併で北村山郡尾花沢町となり、昭和34年10月1日に市制施行して尾花沢市となっています。芦沢駅には平日午前中のみ営業する簡易委託の窓口があり、訪問時には駅員のおじさんが駅舎内外を掃除していました。掃除が終わるのを待って入場券を購入し、スタンプも押させてもらいました。銀山温泉がデザインされたスタンプは、もう一つのスタンプを重ね押しにすることで冬仕様にできる珍しいものです。

大石田駅

芦沢6:37発普通山形行き1424M(クモハ701-5503)で大石田へ。最上川の舟運で栄えた北村山郡大石田町の駅で、隣接する尾花沢市への玄関口でもあります。昭和45年9月10日までは山形交通尾花沢線が分岐していました。駅舎は平成11年12月4日の山形新幹線新庄延伸に合わせて改築されたもので、屋根が階段状になった珍しい造りです。

大石田の建物

大橋

大石田の洋館

旧:大石田銀行本店

大石田の洋館

最上川沿いに形成された大石田の市街地を散策。詳細は不明ですが、古そうな建物が多く残っていました。まだ7時台ですが日が出てきて早くも暑くなりつつあります。

村山駅

大石田7:51発普通山形行き1428M(クハ718-5002)で村山へ。村山市の代表駅で、平成11年12月4日の山形新幹線新庄延伸に合わせて改築されると同時に「楯岡」から改称されました。明治34年8月12日、奥羽南線の終点として開業。当時の所在地は北村山郡楯岡町で、昭和29年11月1日の合併時に市制施行して村山市となりました。

丸藤

楯岡町消防組 消防団第一分団第三部

旧:小川履物店

早川食堂

楯岡(たておか)の市街地を散策。楯岡は羽州街道の宿場町として栄えたところで、江戸時代初期までは楯岡城が置かれていました。蝦夷地探検で知られる最上徳内の出身地でもあります。現在でも質の高い近代建築が多く残っていますが、数年前までは大正時代の図書館やかつての役場も残っていたそうで、惜しまれるところです。

置賜駅

村山8:48発普通山形行き1430M(クハ700-5507)と山形9:34発普通米沢行き428M(クハ718-5002)を乗り継いで置賜(おいたま)へ。その名の通り置賜盆地の田園地帯にある駅で、昭和58年改築の駅舎は山形県内標準仕様の簡易駅舎。使われなくなったホームと途中で塞がれた跨線橋も残っています。大正6年12月20日開業時の所在地は東置賜郡上郷村で、明治の町村制までは東置賜郡浅川村でした。上郷村は昭和33年2月1日に米沢市編入されています。

羽前中山駅

置賜10:46発普通山形行き435M(クモハ719-5002)で羽前中山へ。村山盆地と置賜盆地を隔てる峠越えの途中にある駅で、山形方が複線、米沢方が単線となっています。駅舎は平成13年改築。昭和27年11月15日開業時の所在地は東置賜郡中川村で、明治の町村制までは東置賜郡中山村でした。中川村は昭和30年6月10日の合併で赤湯町となりますが、大字中山のみ昭和32年3月21日に上山市編入されました。

赤湯駅

羽前中山11:26発普通米沢行き430M(クハ700-5506)で赤湯へ。山形鉄道フラワー長井線の分岐駅で、南陽市の玄関口です。赤湯温泉および赤湯市街へは少し離れています。山形新幹線開業に一年遅れて平成5年7月14日に竣工した駅舎はハンググライダーを模したもので、大曲駅も設計した建築家・鈴木エドワードの設計によるものです。明治33年4月21日に奥羽南線の終点として開業。当時の所在地は東置賜郡冲郷村で、駅名は隣接する東置賜郡赤湯町から取られました。沖郷村は昭和30年4月1日に梨郷村と合併して東置賜郡和郷村となり、昭和42年4月1日に赤湯町・宮内町と合併して南陽市となっています。

茂吉記念館前駅

赤湯11:52発普通山形行き437M(クモハ719-5012)で茂吉記念館前へ。斎藤茂吉記念館の最寄り駅で、平成4年7月1日の山形新幹線開業に合わせて「北上ノ山」から改称されました。昭和27年3月5日開業時の所在地は南村山郡上山町で、昭和29年10月1日の合併で上山市となりました。駅のある弁天地区に隣接する金瓶地区(旧:南村山郡金瓶村)はアララギ派歌人斎藤茂吉の出身地。金瓶村の守谷家に生まれた茂吉は、青山脳病院の院長だった同郷の精神科医・斉藤紀一の婿養子となり、病院経営や研究に携わりながら活動しました。上山は斎藤一族をモデルに次男・北杜夫が書いた『楡家の人びと』の重要な舞台の一つになっています。

中川駅

茂吉記念館前12:25発普通米沢行き432M(クハ718-5002)で中川へ。東北では貴重な貨車駅舎が残る駅で、昭和61年3月に木造駅舎から有蓋貨車転用の駅舎に改築されました。駅構内にはカミキリムシの死骸が多く、墓場といった感じです。駅の前と裏に工場があり、構内はそこを行き来する社員の通路としても使われているようです。平日日中にサラリーマンが結構な頻度で行き交う無人駅の跨線橋というのも珍しいでしょう。明治36年11月3日開業時の所在地は東置賜郡中川村で、昭和30年6月10日の合併で東置賜郡赤湯町となり、昭和42年4月1日の合併で南陽市となりました。

かみのやま温泉駅

中川12:52発普通山形行き439M(クモハ701-5506)でかみのやま温泉へ。上山市の代表駅で、平成4年7月1日の山形新幹線開業に合わせて「上ノ山」から改称されました。駅舎は同年6月25日改築。上山温泉は湯野浜・東山と並んで「奥羽三楽郷」に数えられる名湯で、肥前出身の僧・月秀が温泉で傷を癒している鶴を見て発見した伝説から「鶴脛の湯」の別名を持ちます。

上山の建物

山内呉服店

よね本旅館

旧:上山郵便局

上山(かみのやま)は江戸時代には上山藩の城下町だったところで、能見松平家をはじめとして蒲生家・土岐家・金森家と藩主がころころと変わったのち、藤井松平家三万石が十代174年続きました。温泉町かつ城下町だけあって古い街並みも残っていますが、あまりの暑さに事前にチェックしていた建物を見ただけで駅に戻りました。夏は街歩きには厳しい季節です。

蔵王駅

かみのやま温泉14:13発普通山形行き443M(クモハ719-5002)で蔵王へ。山形市南郊外の住宅地にある駅で、蔵王山を望む立地ですが、駅名に反して蔵王観光の玄関口ではありません。明治44年11月25日に「金井」として開業。当時の所在地は南村山郡金井村で、昭和29年11月1日に山形市編入されています。駅名は昭和26年3月1日に改称、駅舎も翌27年9月に石造り風に改築されました。窓口閉鎖時間帯ながら待合室はクーラーが効いていたのがありがたかったです。

羽前千歳駅

蔵王15:08発普通山形行き445M(クモハ719-5001)と1分遅れの山形15:48発普通新庄行き445M(クモハ701-5509)で羽前千歳へ。奥羽本線仙山線の分岐駅で、幅の違う二つの線路が島式ホームを挟んでいます。分岐駅ながら駅舎はなく、平成11年12月4日の山形新幹線開業に新庄延伸に合わせて改築された跨線橋上に券売機があります。

高瀬駅

羽前千歳16:21発普通仙台行き842M(クハ720-1007)で高瀬へ。のどかな田園地帯の中にある駅で、ジブリ映画『おもひでぽろぽろ』にも登場しますが、駅舎は平成13年3月の改築により当時とは変わってしまっています。昭和25年7月1日開業時の所在地は東村山郡高瀬村で、昭和29年10月1日に山形市編入されました。

楯山駅

高瀬16:59発普通山形行き841M(クモハE721-1019)で楯山へ。平成11年3月改築の駅舎は仙台支社管内でよく見かけるタイプのもの。駅舎内では登山帰り?のおっさんがシャツを脱いで着替えて上半身裸になっていたので、おっさんがいなくなって写真を撮れるようになるまでだいぶ待ちました。駅舎内にはカミキリムシが多く、死骸がある一方で生きてるものもいましたが、また別のおっさんが生きてる虫を勢いよく蹴ってホームから線路へ落としており、常軌を逸したものを感じました。畑に出る害虫ならともかく駅にいる虫をわざわざ殺す必要はないでしょうし、殺し方もいい年した大人のやり方という感じではありませんでした。旅の締めくくりの駅としてはなんとも後味の悪い感じです。駅は昭和8年10月17日開業。当時の所在地は東村山郡楯山村で、昭和29年10月1日に山形市編入されました。

楯山17:22発普通仙台行き844M(クモハE721-34)で仙台へ。20:30発JAMJAM EXPRESS361便で京都まで帰り、7:45発新快速姫路行き3413M(クモハ223-2057)と尼崎8:28発快速新三田行き5427M(サハ207-2016)を乗り継いで宝塚に帰りました。

 

7/25 灼熱の奥羽本線(山形線)駅巡り

7/25~26の二日間、山形の駅を巡りました

仙山線

前夜21:10に梅田プラザモータープールを出たJAMJAM EXPRESS362便が仙台駅に着いたのは定刻より3分早い8:57。仙台からは9:12発仙山線快速山形行き3827M(クモハE721-1007)に乗車します。

天童駅

羽前千歳で10:28発普通新庄行き1429M(クモハ701-5505)に乗り換えて天童へ。織田氏天童藩陣屋町だった天童市の代表駅で、山形新幹線も停車します。平成4年2月8日完成の半橋上駅舎は天童市の名産品である将棋の駒をイメージしたデザイン。明治34年8月23日に奥羽南線の駅として開業した当時の所在地は東村山郡天童町で、昭和33年10月1日の市制施行で天童市となりました。

漆山駅

天童11:01発普通山形行き1434M(クハ700-5508)で漆山へ。相対式ホームの交換可能駅で、平成21年3月21日に簡易駅舎に改築されています。明治35年11月1日開業時の所在地は東村山郡羽村で、明治の町村制までは東村山郡漆山村が存在していました。出羽村は昭和29年10月1日に山形県編入されています。

高擶駅

漆山11:42発普通新庄行き1431M(クモハ701-5508)で高擶(たかたま)へ。斯波義直によって築かれた高擶城址の最寄り駅で、ホーム上に待合室があるだけの無人駅です。山形新幹線新庄延伸までは普通列車でも一部しか停車しませんでした。昭和27年3月5日開業時の所在地は東村山郡高擶(たかだま)村で、昭和30年1月1日に干布村と合併して東村山郡豊栄村となり、昭和37年10月20日天童市編入されました。

南出羽駅

1分遅れの高擶12:34発普通山形行き1436M(クハ700-5505)で南出羽へ。ホームから離れたところに東屋風の駅舎がある駅です。山形県立中央病院の移転に伴って平成12年3月にホームが線路の反対側に移転して駅舎が新築されました。昭和27年3月5日開業時の所在地は東村山郡羽村で、その南部にあったことから「南出羽」と命名されました。当地は明治の町村制までは東村山郡七浦村でした。

さくらんぼ東根駅

南出羽13:40発普通新庄行き1435M(クモハ701-5505)でさくらんぼ東根へ。平成11年12月4日の山形新幹線新庄延伸に合わせて「蟹沢」駅を移転改称した駅で、さくらんぼの生産日本一で知られる東根市の代表駅です。駅周辺は移転改称に合わせて再開発されており、東根市の新市街地といった雰囲気。移転前の蟹沢駅は昭和29年12月1日に開業したホームと待合室だけの小さな駅でした。

東根駅

さくらんぼ東根14:43発普通村山行き1437M(クモハ719-5102)で東根へ。さくらんぼ東根駅ができるまで東根市の代表駅だった駅で、東根温泉の最寄り駅です。駅舎は昭和34年4月改築。かつては特急「こまくさ」も一部が停車していましたが、東根市の中心から離れていることもあってローカル駅に転落しています。明治44年12月5日開業時の所在地は北村山郡東根町で、昭和33年11月3日に市制施行して東根市となりました。

羽前豊里

東根15:25発普通新庄行き1439M(クモハ701-5504)と新庄16:36発普通真室川行き623M(クモハ701-19)で羽前豊里へ。最上郡鮭川村唯一の駅で、村の中心から離れた北の外れに位置しますが、駅前には村の中心へ向かう村営バスが発着しています。駅舎は平成21年4月1日改築で、地元産の木材が使用されています。大正10年12月15日開業時の所在地は最上郡豊里村で、昭和29年12月1日の合併で鮭川村となりました。

真室川

羽前豊里17:06発普通新庄行き624M(クハ700-19)で一旦新庄へ戻り、17:32発普通大曲行き2453M(クハ700-37)で真室川へ。最上郡真室川町の玄関口で、折り返し列車も設定されています。平成15年12月改築の駅舎「森の停車場」は物産展との合築で、和風デザインの立派なもの。明治37年10月21日に「新町(あらまち)」として開業し、大正5年9月20日に改称されています。当時の所在地は最上郡真室川村で、昭和25年4月1日に町制施行しました。

急行食堂

真室川18:09発普通新庄行き2448M(クハ700-37)で新庄へ戻り、急行食堂でカツ丼を食べてから新庄グリーンホテルに宿泊しました。

 

7/21 梅雨明けの高山本線駅巡り

この日は高山本線下呂以北の未訪問駅を巡りました

角川駅

杉原5:26発普通下呂行き1820D(キハ25-1107)で出発し、角川(つのがわ)へ。平成16年2月1日の合併で飛彈市となった旧:吉城郡河合村の玄関口ですが、村の中心からは少し離れています。駅前にはバスセンターと旅館2軒と小集落があるだけで閑散としています。駅舎は平成22年12月改築。明治8年の合併で河合村が成立するまで駅周辺は吉城郡小無雁村(こむかりむら)で、角川村は小鳥川を挟んだ隣村でした。

坂上駅

角川6:02発普通猪谷行き1821D(キハ25-1006)で坂上へ。平成16年2月1日の合併で飛彈市となった旧:吉城郡宮川村の玄関口で、駅前には農協や宮川振興事務所などが集まり市街地が形成されています。平成8年11月改築の駅舎は「遊ingギャラリー」と合築の二階建ての立派なものですが、無人駅でギャラリーも近年はあまり使われていないようです。昭和8年11月12日に杉原から伸びてきた飛越線の終点として開業。当時の所在地は吉城郡坂上村で、昭和31年9月30日の合併で宮川村となりました。

杉崎駅

坂上6:33発普通美濃太田行き1822D(キハ25-1104)で杉崎へ。古川国府盆地にある駅で、昭和31年12月に建てられた小さな木造駅舎が残っています。昭和27年12月25日に杉崎(すぎざき)仮乗降場として開業。昭和30年10月15日の駅昇格時に「すぎさき」に読みが変更されました。当地は明治8年の合併で細江村となるまで吉城郡杉崎村でした。

飛彈古川駅

杉崎7:29発普通高山行き1824D(キハ25-1106)で飛彈古川へ。平成16年2月1日に吉城郡古川町神岡町・河合村・宮川村が合併して誕生した飛彈市の代表駅で、特急「ひだ」の一部が折り返しています。JR東海が管理する最北の有人駅で、特急が発着する時間帯のみ、みどりの窓口が営業しています。駅舎は昭和9年10月25日開業時のもので、主要駅らしく天井の高い風格あるものです。新海誠監督の映画『君の名は』にも登場しました。

打保駅

飛彈古川8:03発普通猪谷行き823D(キハ25-2)で打保(うつぼ)へ。宮川流域の小集落にある駅で、昭和8年11月12日に飛越線の駅として開業しました。駅名は明治8年の合併で坂下村が成立するまで存在した吉城郡打保村に由来します。カマボコ型のコンクリート打ち放し駅舎は平成15年3月改築。駅構内には高山本線で唯一スノーシェルターがが設置されています。平成16年10月22日の台風23号で不通となって列車が駅構内に取り残された際にはシェルターが車両の保護に使われました。不通区間の工事が再開して車両が搬出されたのは平成19年2月9日で、最後まで普通となっていた角川~猪谷間が運転再開したのは9月8日でした。

上枝駅

打保9:26発普通高山行き1826D(キハ25-102)で上枝(ほずえ)へ。高山盆地の北部にある駅で、昭和9年10月25日開業時の木造駅舎が残っています。駅周辺は昭和18年4月1日に高山市編入されるまで大野郡上枝村でした。「上枝」は川郷・三郷から一字ずつ取った合成地名で、穂先を意味する「穂末」を盆地北端に位置する当地に当てはめたものだと言われています。令和4年12月5日に高山市で発生した偽電話詐欺事件では犯人が「うええだ」駅と読み間違えたのを不審に思ったタクシー会社社員が通報して事件の解決に繋がりました。難読駅名はこうした場面で役に立つこともあるのですね。

上枝駅

訪問時、駅には列車を見に来たのであろうおじいちゃんと孫がいました。入道雲が浮かぶ青い空はいかにも夏休みといった感じ。駅前には道路工事のトラックが停まっていて、駅舎を撮っていると作業員の方が「すみません」と声をかけてきました。てっきり「トラックに近づかないように」「トラックが写らないように」と注意されるのかと思いきや低姿勢で「(撮影の邪魔にならないように)どかした方がいいですか?」と聞かれたので、こちらが恐縮してしまいました。

飛彈国府駅

上枝10:33発普通飛彈古川行き1851D(キハ25-2)で飛彈国府へ。平成17年2月11日に高山市編入された旧:吉城郡国府町の駅で、古川国府盆地の南部に位置します。町の玄関口だっただけあって駅舎は上枝駅よりも大きめです。昭和9年10月25日開業時の所在地は吉城郡国府村で、昭和39年11月3日に町制施行しました。国府町はその名の通り飛彈国の国府が置かれたと伝わるところで、多くの遺跡・旧跡が残っています。

カミキリムシ

駅舎内を撮ろうとした際、なにか硬いものを踏んでしまったと思ったら、それがガサガサと勢いよく動き出しました。生き物のようでなにかと思って見てみると大きなカミキリムシでした。駅巡りをしていると普段目にしないような生き物を目にすることがあります。

高山駅

飛彈国府10:56発普通高山行き1852D(キハ25-102)で高山へ。言わずと知れた世界的観光地・高山市の代表駅で、多くの外国人観光客で賑わっています。訪問するのは旧駅舎を見に来て以来実に8年半ぶり。現駅舎は平成28年10月2日より使用開始された巨大なもので、町家の黒格子をイメージしたデザインです。

旧駅舎(H26-12-23)

旧駅舎時代と比べるとあまりの変わりようにとても同じ駅とは思えません。中学生の頃に18きっぷで日帰りでとんぼ返りしてからもう8年半になるのかとしみじみ思いました。

飛彈一ノ宮駅

昼食を食べてから高山12:45発普通美濃太田行き1716C(キハ25-1103)に乗車し、停車時間で飛彈一ノ宮を撮影。平成17年2月11日に高山市編入された旧:大野郡宮村の駅で、飛彈国一之宮・水無神社の最寄り駅です。平成28年7月25日以来7年ぶりの再訪ですが、木造駅舎は変わらず健在で嬉しくなります。高山本線は数年前まで毎年1~2駅が改築されていましたが、最近は改築のペースが落ちていて思いのほか古い駅舎が残っているなという印象です。とはいえ、この駅舎も果たしていつまで残るでしょうか。

禅昌寺

禅昌寺で1716Cを下車。臨済宗妙心寺派の古刹・禅昌寺の最寄り駅で、単式ホームと通過線という珍しい構造をしています。駅舎は平成9年2月改築。昭和6年5月9日開業時の所在地は益田郡萩原町で、明治8年の合併までは益田郡中呂村でした。もし地名から「中呂駅」となっていたら、下呂中呂上呂が駅名として揃っていたことでしょう。

飛彈宮田駅

禅昌寺14:06発普通高山行き1717C(キハ25-1002)で飛彈宮田へ。高山本線では数少ない棒線駅の一つで、地元の請願により昭和30年10月1日に開業しました。ホーム上の待合室は平成28年1月に改築されています。駅周辺は明治30年4月1日の萩原村成立まで益田郡宮田村でした。宮田村は明治8年の合併で一度三郷村になっていますが、明治16年6月1日に分立して復活しました。

飛彈宮田駅

帰路が長いのでこの日の駅巡りはここまで。飛彈宮田15:34発普通美濃太田行き1718C(キハ25-103)、美濃太田17:36発普通岐阜行き748D(キハ75-3402)、岐阜18:21発快速米原行き2539F(クハ312-309)、米原19:18発新快速姫路行き3527M(モハ223-2033)、尼崎20:58発快速宝塚行き5529M(クモハ320-23)と乗り継ぎ、6時間近くかけて帰宅しました。

 

7/20 梅雨明けの城端線・高山本線駅巡り

7/20~21の二日間、越中・飛彈の駅を巡りました

砺波駅南口

前夜21:50に梅田三番街を出た阪急観光バス107便がJR砺波駅南に到着したのは定刻より10分以上も早い4:58。日の長い季節なのでもう明るくなっています。城端線の砺波駅は砺波市の代表駅で、みどりの窓口も設置されています。明治30年5月4日に中越鉄道の「出町」として開業。当時の所在地は東礪波郡出町で、昭和27年4月1日の合併で東礪波郡砺波町となり、昭和29年4月1日に市制施行しました。駅名は昭和29年11月10日に改称。駅舎は平成10年2月5日に橋上化されています。

高儀駅

砺波5:51発城端行き321D(キハ47-1092+キハ47-25+キハ47-1013)で高儀へ。砺波平野らしい散居村をホームから望むことのできる駅で、廃止された下りホームの跡が残っています。駅舎は昭和62年12月25日改築。明治32年5月30日に中越鉄道の駅として新設。当時の所在地は東礪波郡野尻村で、駅構内を東野尻村との村境が通っていました。駅名は明治の町村制で野尻村が成立するまで存在した礪波郡高儀村に由来しますが、駅のあるところは礪波郡川除新村でした。野尻村が昭和16年4月1日に福野町編入されて南砺市となった一方、東野尻村は砺波市となったため、駅構内には今も市境が通っています。

野尻駅

高儀6:07発高岡行き320D(キハ47-66+キハ47-1134)で東野尻へ。地元の請願により昭和26年8月10日に開業した駅で、ホーム上には平成31年3月12日改築の待合室があります。開業時の所在地は東礪波郡東野尻村で、昭和29年1月15日に砺波町に編入されています。

東石黒駅

東野尻6:17発城端行き323D(キハ47-1064+キハ47-140+キハ47-42)で東石黒へ。東野尻と同日に開業した駅で、ホーム上の待合室は令和2年2月改築。開業時の所在地は西礪波郡東石黒村で、昭和29年7月20日に東礪波郡福野町と合併し、平成16年11月1日の合併で南砺市となっています。

高山本線

東石黒6:45発高岡行き324D(キハ47-1013+キハ47-25+キハ47-1092)と高岡7:34発普通泊行き427M(クモハ521-21)を乗り継いで富山へ。ここからは高山本線の駅を巡っていきます。

越中八尾

富山8:03発普通猪谷行き852D(キハ120-349+キハ120-351)で越中八尾へ。平成17年4月1日の合併で富山市となった旧:婦負郡八尾町(やつおまち)の玄関口で、特急「ひだ」も停車します。昭和2年9月1日、富山から伸びてきた飛越線の終点として開業。当時の所在地は婦負郡保内村で、八尾町とは井田川の対岸で少し離れていました。保内村は昭和28年12月1日の合併で八尾町となっています。開業時に建てられた駅舎は寄棟屋根に縦長窓というどっしりとした洋館風で、今は亡き参宮線山田上口駅を思い出させます。みどりの窓口で2枚目の青春18きっぷを購入しました。

婦中鵜坂

越中八尾9:38発普通富山行き857D(キハ120-351+キハ120-349)で婦中鵜坂へ。高山本線活性化社会実験の一環として平成20年12月1日に開業した駅で、当初は平成23年春まで3年間限定の臨時駅でした。地方の駅には珍しく利用者は増加傾向で、実験終了後も存続し、平成26年3月15日に常設駅となりました。駅名は平成17年4月1日の合併で富山市となった旧:婦負郡婦中町昭和17年6月1日の婦中町成立まで存在した婦負郡鵜坂村に由来します。

笹津駅

婦中鵜坂10:21発普通猪谷行き856D(キハ120-347+キハ120-318)で笹津へ。平成17年4月1日の合併で富山市となった旧:上新川郡大沢野町の駅で、かつては富山地鉄笹津線や神岡軌道も乗り入れていました。駅前は富山平野から神通川に沿って山間へ分け入っていく手前の街といった感じで、かつては神岡鉱山の貨物輸送の拠点として栄えたところでした。駅舎は平成17年10月29日完成で、それ以前は富山鉄道(笹津線の前身)が建てた木造駅舎でした。

西富山駅

笹津11:21発普通富山行き861D(キハ120-318+キハ120-347)で西富山へ。神通川で隔てられた富山市西郊の住宅地にある駅で、背後に呉羽山断層帯が連なっています。富山大学五福キャンパスや富山工業高校富山商業高校にも近いことから学生の利用が多いです。駅舎は昭和2年9月1日開業時のもの。

千里駅

西富山12:28発普通越中八尾行き858D(キハ120-347+キハ120-318)で千里(ちさと)へ。西富山よりも少し小ぶりな木造駅舎の残る駅で、こちらは待合室が仕切られています。昭和2年9月1日開業時の所在地は婦負郡千里村で、昭和17年6月20日婦負郡富川村と合併で婦負郡神保村となり、昭和34年1月1日に婦中町編入されました。

速星駅

千里13:16発普通富山行き863D(キハ120-318+キハ120-347)で速星へ。平成17年4月1日の合併で富山市となった旧:婦負郡婦中町の玄関口で、特急「ひだ」の一部が停車し、みどりの窓口も設置されています。駅舎は昭和2年9月1日開業時のものですが、前面が隠されているのが残念。駅裏には日産化学富山工場があり、高山本線の駅では唯一貨物取扱が残っています。

楡原駅

速星14:26発普通猪谷行き860D(キハ120-349+キハ120-351)で楡原(にれはら)へ。平成17年4月1日の合併で富山市となった旧:婦負郡細入村の役場最寄り駅で、昭和5年11月27日に開業しました。高いところにあるホームとは屋根付き階段で結ばれていますが、この階段は30段で高低差21m。土合駅筒石駅などのトンネル駅ができる以前の昭和30年代は国鉄の駅で一番の高低差でした。駅舎は平成元年3月18日改築。待合室には全国各地の行方不明者に関する貼り紙が貼られていました。

旧:婦負郡細入村役場

駅前には旧:婦負郡細入村役場などの公共施設が集まっています。昭和47年に建てられた旧役場は合併以降、細入中核型地区センターとして使われてきましたが、令和5年3月27日に旧細入総合福祉センターに移転して役目を終えました。

八尾駅

楡原15:28発普通富山行き867D(キハ120-351+キハ120-349)で東八尾へ。地元の請願により昭和31年6月1日に開業した駅で、ホーム上には令和3年3月改築の待合室があります。待合室は城端線の東野尻、東石黒と同型。閉め切れないので内部は蜘蛛の巣だらけでした。

猪谷駅

東八尾16:35発普通猪谷行き864D(キハ120-347+キハ120-318)で猪谷へ。富山県最南端かつJR西日本JR東海の境界駅で、特急を除き当駅で系統が分断されます。平成18年12月1日まで神岡鉄道が分岐していました。昭和5年11月27日に飛越線の終点として開業。駅名は明治の町村制で細入村が成立するまで存在した婦負郡猪谷村に由来します。猪谷は越中と飛彈の国境として江戸時代には富山藩の関所が設けられたところでした。

飛彈細江駅

猪谷17:17発普通美濃太田行き1832D(キハ25-103+キハ25-3)で飛彈細江へ。宮川が古川国府盆地に別れを告げて山間へと分け入っていく手前にある駅で、猪谷方面から乗ってくると周辺が一気に開けた印象を受けます。木造駅舎は赤トタン屋根で、黒瓦屋根だった富山県内の駅と比べると別の地方に来た感があります。昭和9年10月25日開業時の所在地は吉城郡細江村で、昭和31年4月1日の合併で古川町となりました。駅名に「飛彈」が冠されているのは静岡鉄道駿遠線の細江駅と区別するためでしょう。

杉原駅

飛彈細江18:23発普通猪谷行き1834D(キハ25-6+キハ25-106)で杉原へ。岐阜県最北端かつJR東海管轄最北端の駅で、傾斜地に建てられている故に駅前と駅舎とホームに高低差があります。昭和7年8月20日に飛越線の終点として開業。当時の所在地は吉城郡坂下村で、昭和31年9月30日の合併で宮川村となりました。駅周辺は明治8年の坂下村成立まで吉城郡杉原村でした。この日は駅近くの民宿ほらに宿泊。翌日は飛彈地方の駅を巡っていきます。

 

7/6 炎天下の久大本線・鹿児島本線駅巡り

この日は久大本線(久留米~豊後中川)と鹿児島本線筑後エリア)の駅を巡りました

日田駅

日田駅からスタート。ホテルには朝食を食べに戻るので、部屋に荷物を置いての出発です。江戸幕府の九州支配の拠点として西国郡代が置かれた天領・日田市の代表駅で、駅舎は昭和47年6月改築。平成27年3月に水戸岡鋭治氏のデザインで改装されて黒く塗られました。漫画家・諌山創氏の出身地であることから駅の内外に『進撃の巨人』関連の装飾やパネルがあります。

光岡駅

日田5:48発普通久留米行き1824D(キハ200-1105+キハ200-105)で光岡(てるおか)へ。日田市街の西の外れにある駅で、駅前を日田往還朝倉街道が通っています。かつてあった木造駅舎は平成18年12月に解体。当初の計画では代わりの駅舎は建てられない予定でしたが、地元の要望により平成19年3月に「すこやか光岡」と名付けられた駅舎が建てられました。昭和9年6月25日開業時の所在地は日田郡光岡村で、昭和15年12月11日の合併で日田市となりました。元は「三岡」という地名だったところに「光岡」の字をあてたところ、読みが変化したのが地名の由来と言われています。

光岡駅

ホームの様子や入線する列車を撮っていたところ、「家庭不和や戦争を引き起こす組織が~」とブツブツ言っているおっさんに「盗撮するな!警察を呼ぶぞ!」と怒鳴りつけられました。きっと彼の中では自分はディープステートか何かの手先か集団ストーカーとして認識されていたのでしょう。おかしな人に遭遇しては夏の早朝の心地よい空気も台無しです。

筑後大石駅

光岡6:16発普通鳥栖行き1826D(キハ200-1012+キハ200-12)で筑後大石へ。筑後平野の東端部・筑後川が平野部に出てきたところにある駅で、「ふれあいの場 大石」と掲げられた駅舎は平成19年7月改築。昭和6年7月11日に久大線の終点として開業。当時の所在地は浮羽郡大石村で、昭和26年4月1日に浮羽郡御幸町編入御幸町が改称して浮羽町となりました。

豊後中川駅

筑後大石6:57発普通大分(※不通のため豊後森止まり)行き1821D(キハ200-1502+キハ200-201)で豊後中川へ。国道210号沿いにひっそりと存在する駅で、平成27年3月14日改築の駅舎は高塚愛宕地蔵尊をイメージした社殿風デザインです。かつては農協との合築駅舎がありました。昭和9年11月15日開業時の所在地は日田郡中川村で、昭和30年3月31日の合併で日田郡栄村、昭和41年4月1日に町制施行して天瀬町となり、平成17年3月22日に日田市に編入されました。駅名標には「大分県天ヶ瀬町」との表記があり、旧町名とは表記が異なっています。

豊後三芳駅

学生で混みあう豊後中川7:34発普通久留米行き1832D(キハ200-1554+キハ200-554)で豊後三芳へ。日田市街の東部にある駅で、周辺は住宅街です。平成8年頃改築の駅舎は三芳地区コミュニティー消防センターとの合築。昭和9年11月15日開業時の所在地は日田郡三芳村で、昭和15年12月11日の合併で日田市となりました。

田主丸駅

豊後三芳から20分ほど歩いてホテルに戻り、朝食を食べてから日田9:18発普通久留米行き1842D(キハ200-1012+キハ200-12)で田主丸へ。平成17年2月5日に久留米市編入された旧:浮羽郡田主丸町の駅で、河童伝説にちなんで河童の顔の形をした駅舎が建てられています。平成4年4月23日改築の駅舎はふるさと会館との合築で、内部には簡易委託の窓口もあります。

筑後吉井駅

田主丸10:02発普通筑後吉井行き1837D(キハ200-204+キハ200-205)で筑後吉井へ。うきは市の代表駅で、特急「ゆふ」も停車します。昭和3年12月24日、久大線の終点として開業。駅舎は開業時に建てられたもので、筑後吉井の街並みに因んで白壁風に改装されています。

筑後吉井の街並み

筑後吉井豊後街道の宿場町として栄えたところで、白壁土蔵造りの街並みは重伝建に指定されています。平成17年3月20日浮羽町と合併してうきは市となるまでは浮羽郡吉井町でした。

うきは駅

筑後吉井10:54発普通日田行き1839D(キハ200-105+キハ200-1105)でうきはへ。平成17年3月20日吉井町と合併してうきは市となった旧:浮羽郡浮羽町の駅で、簡易委託の窓口があります。昭和6年7月11日に「筑後千足(ちくごせんぞく)」として開業。当時の所在地は浮羽郡御幸村で、昭和26年1月1日に町制施行して御幸町となり、昭和26年4月1日の3村編入時に改称して浮羽町となりました。駅名は平成2年5月1日に改称。駅舎は開業時のもので、天井からは燕の糞除けに傘が逆さ吊りされています。

久留米高校前駅

うきは12:06発普通久留米行き1850D(キハ200-5011+キハ200-11)で久留米高校前へ。平成21年3月14日に開業した比較的新しい駅で、令和4年3月12日に無人化されています。周辺は久留米市郊外の住宅地で、久留米高校以外にも多くの学校があります。

筑後草野駅

久留米高校前13:14発普通日田行き1847D(キハ200-204)で筑後草野へ。昭和35年7月1日に久留米市編入された旧:三井郡草野町の駅で、耳野山地北麓の扇状地に位置しています。周辺にはぶどう畑が広がっており、扇状地ということもあって九州というよりは甲信越や福島辺りを思い出させる風景です。駅舎は平成6年6月7日午前2時10分頃の不審火により焼失し、平成8年11月上旬に「草野町観光会館」として再建されました。

久留米大学前駅

筑後草野13:53発普通久留米行き1852D(キハ200-1012+キハ200-12)で久留米大学前へ。久留米市久留米大学の費用負担により平成12年3月11日に開業した駅で、令和2年3月11日で窓口の営業を終了したものの有人駅として出札は行われています。ホームは駅舎より一段低い掘割にあり、駅舎とは階段で結ばれています。周辺には久留米大学御井学舎をはじめとして多くの学校があり、学生向けアパートが多く建つなど学生街らしい雰囲気です。

御井駅

13分ほど歩いて御井(みい)へ。久留米市郊外の住宅地にある駅で、平成14年頃に簡易駅舎に改築されて駅前が掘り下げられています。駅周辺は昭和18年10月1日に久留米市編入されるまでは三井郡御井町で律令国時代に筑後国国府が置かれていたことからかつて「府中」と呼ばれていました。

善導寺駅

御井14:37発普通日田行き1853D(キハ200-12+キハ200-1012)で善導寺へ。減築された木造駅舎の残る駅で、浄土宗大本山善導寺の最寄り駅です。昭和3年12月24日開業時の所在地は三井郡善導寺村で、昭和15年2月11日に町制施行して善導寺町となり、昭和42年4月1日に久留米市編入されました。

南久留米駅

善導寺14:52発普通久留米行き1854D(キハ200-5011+キハ200-11)で南久留米へ。久留米市街の南東部に位置する駅で、平成13年に減築された寄棟造の木造駅舎が残ります。ホームは築堤上にあり、駅舎とは地下通路で結ばれていますが、その通路の上屋も木造の古いもので味があります。駅周辺は大正13年11月1日に久留米市編入されるまで三井郡国分町で、明治の町村制までは御井郡野中村でした。

久留米駅

南久留米15:26発普通久留米行き1856D(キハ200-204)で久留米へ。福岡県第三の人口を誇る筑後地方の中心都市で、有馬氏久留米藩の城下町としての歴史を持つ久留米市の代表駅です。鹿児島本線から久大本線が分岐するだけでなく九州新幹線も停車するターミナル駅で、新幹線開業に先がけて平成22年4月3日より新駅舎の使用が開始されました。ここからは鹿児島本線の駅を巡っていきます。

荒木駅

博多方面からの接続待ちのため4分遅れの久留米15:47発普通大牟田行き353M(クハ814-5)で荒木へ。平成8年3月に改築されたコンクリート打ちっぱなしの駅舎がある駅で、駅裏を九州新幹線の高架が通っています。明治43年4月20日開業時の所在地は三潴郡荒木村で、昭和24年9月1日に町制施行して三潴郡荒木町となり、昭和30年1月1日に安武村と合併して三潴郡筑邦町となりました。筑邦町は昭和42年2月1日に久留米市編入されています。ちなみに荒木町は松田聖子さんの出身地。

415系

駅構内には引退した415系が留置されています。津久見でも見た光景ですが、果たしていつまでこうして置いておくのでしょうか。

羽犬塚駅

荒木16:15発普通大牟田行き355M(クハ814-3)で羽犬塚へ。筑後市の代表駅で、みどりの窓口も設置されていますが、訪問時間帯には既に無人でした。平成21年12月改築の駅舎は九州新幹線の高架下にあります。昭和60年4月1日まで八女市とを結ぶ矢部線が分岐していました。明治24年4月1日開業時の所在地は上妻郡羽犬塚村で、明治29年4月1日に八女郡所属となり、大正4年1月1日に町制施行して八女郡羽犬塚町となりました。昭和29年4月1日に周辺町村と合併して筑後市となってからはその中心として市役所が置かれています。駅前には地名の由来となった伝説の「羽犬」の像があります。

筑後船小屋駅

羽犬塚16:57発普通熊本行き359M(クハ814-6)で筑後船小屋へ。九州新幹線との乗換駅で、駅前広場を挟んで新幹線駅舎と向かい合っています。在来線駅舎は小さなもので、ローカル駅然とした雰囲気です。平成23年3月12日の新幹線開業に合わせて移転改称されるまでは「船小屋」を名乗っていました。昭和3年7月20日開業時の所在地は八女郡水田村で、昭和29年4月1日の合併で筑後市となっています。

南瀬高駅

筑後船小屋17:33発普通大牟田行き361M(クハ814-7)で南瀬高へ。みやま市南部の田園地帯にある駅で、昭和52年3月30日改築の駅舎は南九州でよく見かけるタイプのもの。昭和10年3月23日に「井手ノ上」として開業。当時の所在地は山門郡瀬高町で、平成19年1月29日の合併でみやま市となりました。

西牟田駅

南瀬高18:12発普通久留米行き358M(クモハ815-7)で西牟田へ。筑後市北部の住宅と田園が混在する地帯にある駅で、昭和51年に簡易駅舎に改築されましたが、平成8年の再有人化に際して事務室が増築されました。平成28年3月26日には再無人化されており、駅舎の増築部は無用の長物と化しています。昭和12年5月17日開業時の所在地は三潴郡西牟田村で、昭和28年4月1日に単独町制施行して三潴郡西牟田町となるも、昭和30年3月10日に筑後市編入されました。

肥前旭駅

西牟田18:35発区間快速小倉行き4138M(クハ813-2236)で肥前旭へ。鳥栖と久留米、二つの主要駅に挟まれた影の薄い駅で、快速は停車しません。駅舎は昭和37年3月改築。昭和3年12月23日に「旭信号所」として開業し、昭和9年6月7日に駅に昇格して「肥前旭」に改称されました。開業時の所在地は三養基郡旭村で、昭和29年4月1日の合併で鳥栖市となっています。

鳥栖駅

肥前旭18:54発普通門司港行き2350M(クモハ810-2009)と鳥栖19:18発快速門司港行き4232M(クハ813-2226)を乗り継いで博多へ。乗り換え時間を利用して鳥栖の駅舎を撮影。博多からは20:40発オリオンバス242便で梅田へと帰りました。

 

7/5 梅雨空の日田彦山線・後藤寺線駅巡り

7/5~6の二日間、北九州の駅を巡りました。予定では二日とも久大本線の駅を巡る予定でしたが、豪雨により豊後森由布院間が運休してしまったため、7/5は日田彦山線後藤寺線の駅を巡ることに

西小倉駅

前夜21:15に梅田を出たWILLER EXPRESS YJ1554便が小倉駅前に到着したのは定刻より10分以上早い午前5時前。駅前のマクドで朝食をとりつつ時間を潰してから小倉6:31発快速羽犬塚行き4221M(クモハ817-3004)で西小倉へ。鹿児島本線日豊本線の分岐駅で、日豊本線の書類上の起点ですが、列車は全て小倉駅に発着しています。昭和33年3月1日に現在地に移転するまで、小倉駅は当駅の位置にありました。小倉駅移転から16年が経った昭和49年12月14日、二代目小倉駅の跡地に日豊本線の単独駅として西小倉駅が開業、昭和62年10月1日に鹿児島本線ホームが新設されました。平成15年3月29日に半橋上駅舎に改築、同年7月7日より快速停車駅に昇格しています。

城野駅

西小倉6:44発普通大分行き552M(クハ411-1511)で城野(じょうの)へ。日豊本線日田彦山線の分岐駅ですが、こちらも小倉駅にすべての列車が発着しています。明治28年4月1日に九州鉄道の駅として開業。昭和31年11月19日の線路付け替えで日田線(現:日田彦山線)が乗り入れるようになりました。平成26年12月6日に半橋上駅舎に改築。ペデストリアンデッキに接続しているために全貌がつかみにくい駅舎です。

呼野駅

城野7:11発普通田川後藤寺行き929D(キハ147-1033+キハ147-58)で呼野へ。昭和58年まで福岡県唯一のスイッチバックがあった駅で、現在も旧ホームが草に埋もれながら残っています。大正4年4月1日開業時の所在地は企救郡東谷村。明治の町村制で東谷村が成立するまで企救郡呼野村が存在していました。東谷村は昭和23年9月10日に小倉市編入されています。

石原町駅

呼野7:46発普通小倉行き932D(キハ40-2007+キハ147-1058)で石原町へ。カルスト台地平尾台への最寄り駅で、かつては石灰石鉱山への専用線呼野駅との間で分岐していました。駅舎は大正4年4月1日開業時に建てられたもので、増築跡がかつての栄華を感じさせます。駅名は明治の町村制で東谷村が成立するまで存在していた企救郡石原町村に由来しますが、駅があるのはかつての新道寺村です。

志井公園駅

石原町8:02発快速小倉行き3920D(キハ147-54)で志井公園へ。北九州モノレールの終点・企救丘駅に近接した駅で、周辺にはニュータウンが広がっています。開業はモノレールの方が先で、運賃の安いJRに駅を設置されるとそちらに乗客を奪われるとモノレールの運営母体である北九州市は駅の設置に反対しましたが、結局折れて当駅が平成元年3月11日に開業しました。ホームは掘割にあり、階段を登ったところに小さな駅舎が設置されています。今年3月18日に完全無人化されました。

志井駅

志井公園8:31発普通田川後藤寺行き933D(キハ40-8063+キハ147-1044+キハ147-90)で志井へ。ニュータウンから一転して農村部にある駅で、北九州モノレールにも同名駅があるものの大きく離れています。昭和8年10月23日に小倉鉄道の志井停留所として開業。昭和17年6月10日に廃止となるも、翌年2月25日に現在地に移転して再開業しました。駅舎は平成26年3月改築の簡素なものです。当地にはかつて企救郡志井村があり、明治の町村制で企救郡東紫村、明治40年6月1日に城野村と合併して企救郡企救村となり、大正6年10月1日の町制施行で企救郡企救町となりました。企救町は昭和12年9月1日に小倉市編入されています。

石田駅

2分遅れの志井8:41発普通小倉行き934D(キハ47-182)で石田へ。住宅街の中にある駅で、平成14年4月の改築まで開業時の木造駅舎が残っていました。昭和31年11月19日に城野までの短絡線が開業するまで、日田線(日田彦山線の前身)は東小倉駅を起点としていました。明治の町村制で企救郡城野村が成立するまで当地には企救郡石田村が存在していました。

一本松駅

石田9:38発普通田川後藤寺行き937D(キハ147-1125+キハ147-182)で一本松へ。平成9年3月22日に開業した駅で、田川高校の最寄り駅であることから学生の利用が多いです。駅前には大きな病院とスーパーがあり、スーパーの駐車場の片隅を間借りしているような印象を受けます。

香春駅

一本松10:32発普通小倉行き946D(キハ147-182+キハ147-1125)で香春(かわら)へ。セメント産業で栄えた田川郡香春町の玄関口で、駅前からは香春岳を望むことができます。香春町五木寛之の小説を映画化した『青春の門』の舞台で、そのポスターなどが駅舎内に掲示されています。駅舎は平成8年3月に建てられたもので、平成7年9月10日に焼失した旧駅舎のイメージを引き継いで女性職員がデザインしたものだそうです。

田川後藤寺

香春10:50発普通田川後藤寺行き939D(キハ147-1033)で田川後藤寺へ。日田彦山線後藤寺線平成筑豊鉄道糸田線の3線が集まるターミナル駅で、田川市の代表駅ですが、昼間は無人となります。明治29年2月5日に豊州鉄道の「後藤寺」として開業。当時の所在地は田川郡弓削田村で、明治40年4月1日に町制施行して田川郡後藤寺町となり、昭和18年11月3日に伊田町と合併して田川市となりました。駅名は昭和57年11月3日に改称されています。駅舎は平成9年3月12日に改築されたもので、待合室は駅の規模の割に狭いです。

後藤寺線

ここからは後藤寺線の駅を巡っていきます。後藤寺線田川後藤寺駅の0番線に発着。単行のキハ40が行ったり来たりするだけの路線ですが、田川市筑豊の中心都市・飯塚市を結ぶ路線だけあって日中でもそれなりに乗車はあるようです。

上三緒駅

田川後藤寺11:14発新飯塚行き1548D(キハ140-2041)で上三緒へ。飯塚市郊外の農地と住宅が混在する地域にある駅で、かつては筑前山野まで貨物支線が分岐していました。駅舎は簡素なもので、交換設備も撤去されています。明治35年6月15日開業時の所在地は嘉麻郡笠松村で、明治の町村制で笠松村が成立するまで嘉麻郡上三緒村が存在していました。笠松村は明治42年6月1日に穂波郡飯塚町と合併し、昭和7年1月20日の市制施行で飯塚市となっています。

船尾駅

上三緒11:50発田川後藤寺行き1547D(キハ140-2041)で船尾へ。かつては石灰石の積み出しで栄えた駅で、駅前では麻生セメント船尾鉱山が今も操業を続けています。駅前をセメント工場のメカメカしい構造物が埋め尽くす様は圧巻で、駅前にセメント工場があるというより駅がセメント工場の中にあるといった方がいいような状況です。大正11年2月5日、九州産業鉄道の終点として開業。九州産業鉄道は麻生グループ創始者麻生太吉麻生太郎元総理の曽祖父)によって石炭・石灰石輸送を目的に創業された鉄道でした。

下鴨生駅

船尾12:19発新飯塚行き1550D(キハ140-2041)で下鴨生へ。嘉麻市唯一の鉄道駅ですが、嘉麻市役所のある稲築から離れているためか代表駅として扱われていません。大正5年2月1日、上三緒と漆生を結ぶ筑豊本線貨物支線上に「赤坂」として開業。大正15年7月15日に船尾から九州産業鉄道が伸びてきて接続したことで後藤寺線の原型が出来上がりました。駅名は昭和31年12月20日に改称。当駅から分岐していた漆生線は昭和61年4月1日に廃止されています。

筑前庄内駅

下鴨生12:54発田川後藤寺行き1551D(キハ140-2041)で筑前庄内へ。平成18年3月26日の合併で飯塚市となった旧:嘉穂郡庄内町の駅ですが、町の中心からは3㎞ほど離れています。大正15年7月15日、九州産業鉄道の船尾~赤坂炭坑間開業に設置されました。

新飯塚駅

筑前庄内13:25発新飯塚行き1552D(キハ140-2041)で新飯塚へ。筑豊本線後藤寺線の分岐駅で、飯塚市役所の最寄り駅です。飯塚市の旧市街は対岸ですが、昭和39年の市役所移転以来、当駅周辺が飯塚市の中心として栄えるようになりました。平成13年8月に半橋上駅舎に改築されています。

西添田駅

新飯塚13:46発田川後藤寺行き1553D(キハ140-2041)で田川後藤寺に戻り、14:13発添田行き951D(キハ147-1125+キハ147-182)に乗り換えて西添田へ。明治36年12月21日、初代「添田」駅として開業した駅で、昭和17年8月1日に改称されました。平成6年改築の駅舎はドーム屋根の立派なものですが、荒れた印象を受けます。駅裏にはオークホール(添田町公民館・音楽堂)があります。

池尻駅

西添田14:38発田川後藤寺行き958D(キハ147-182+キハ147-1125)で池尻へ。田川後藤寺から先では唯一の交換可能駅で、田川郡川崎町の北部に位置します。かつてあった駅舎は平成20年9月に解体され、翌年3月頃に駅舎跡に屋根付きベンチが設置されています。壁もなく待合所というより四阿といった感じです。明治の町村制で川崎村が成立するまで駅周辺は田川郡池尻村でした。

豊前川崎駅

池尻15:24発添田行き953D(キハ147-1044+キハ147-90)で豊前川崎へ。田川郡川崎町の玄関口で、簡易委託の窓口が設置されています。かつては飯塚とを結ぶ上山田線が乗り入れており、柚須原までの柚須原線も計画されていましたが、柚須原線は建設途中で凍結され、上山田線は昭和63年9月1日に廃止されました。駅舎は平成12年9月改築で、ホームは棒線化されて分岐駅の名残はありません。

採銅所駅

豊前川崎15:50発田川後藤寺行き964D(キハ147-90+キハ147-1044)と田川後藤寺15:58発小倉行き966D(キハ140-2067+キハ147-1058)を乗り継いで採銅所へ。大正4年4月1日、小倉鉄道の駅として開業した際に建てられた木造駅舎が残る駅で、旧事務室は香春町の移住・交流施設に改修されています。後藤寺線を巡っていた時は結構降っていたのにここに来て晴れてきたので逆光になりました。撮影するなら午前中の方が綺麗に写りそうです。駅周辺は昭和31年9月30日の合併で香春町となるまで田川郡採銅所村でした。

添田駅

採銅所16:51発添田行き957D(キハ147-1033+キハ147-58)で添田へ。田川郡添田町の玄関口で、昭和60年4月1日までは香春とを結ぶ添田線が乗り入れていました。添田駅は元々添田線(国有化前は小倉鉄道)の「上添田」として大正4年4月1日に開業、昭和8年に「彦山口」に改称されました。昭和17年8月1日の国有化時に「添田」に再改称、同年8月25日に田川線(現:日田彦山線)西添田~彦山間が開業して当駅に乗り入れました。昭和63年3月改築の駅舎は物産館との合築です。

添田駅ホーム

日田彦山線のホームは後から開業した経緯ゆえに駅舎から離れています。添田から先は九州北部豪雨による被害を受けて平成29年7月5日から不通となっており、BRTひこぼしラインとしての復旧が予定されています。

代行バスで日田へ

添田からは18:03発日田彦山線代行バスに乗車して日田を目指します。BRTひこぼしラインの運行開始は8月28日が予定されていましたが、7月10日の豪雨で専用道が崩落する被害を受けており、予定通り開業できるのか心配になります。

日田駅

日田には定刻よりも6分は約19:22着。遅延に備えて日田への到着時刻のみ余裕を持って設定されているようです。この日はプラザホテルフジノイに宿泊。翌日は久大本線の駅を巡っていきます。

 

6/28 伊那・安曇建築巡りドライブ

信州建築巡りドライブ二日目は飯田からスタート

飯田の洋館

まずは飯田の洋館H邸を撮影。3月に駅巡りした際に車内から見かけて気になっていましたが、ようやく見ることができました。

JAみなみ信州山本支所

杵原学校

下伊那郡阿智村役場

下伊那郡根羽村役場 旧庁舎

木造校舎や庁舎を見ながら山本、阿智と南下し、根羽村へ。山を越えれば愛知県という県境の村で、中心部には昭和44年から平成30年まで使用されていた旧役場が残っています。

JAみなみ信州新野支所

信濃機関集落センター

和田の街並み

売木峠を越えて阿南町新野を経て、天龍村平岡へ。ガソリンを入れてから北上して飯田市和田へ。平成17年10月1日に飯田市編入された旧:下伊那郡南信濃村の役場が置かれていたところで、古くは遠山郷と呼ばれていました。

下伊那郡泰阜村役場

続いて泰阜村(やすおかむら)へ。丸窓が目を惹く泰阜村役場は昭和44年10月竣工で、市街地ではなく山の上にあります。

旧瀧澤医院

飯田市ふれあいの郷・松ぼっくり

遠山ジンギス丼

再び飯田市に入り、近代建築2件を見てから昨晩も来た丼々恋 グルメ館へ。昼食は遠山ジンギス丼。

JAみなみ信州生田支所

昼食を済ませると再び北上し松川町生田へ。昭和34年9月1日の松川町編入まで下伊那郡生田村だったところです。農協の支所は閉所済みです。

上峠の廃バス

そこからさらに山間に分け入った路線バスの終点・上峠には信南バスの廃車体が置かれていました。

柄山隧道とずいどう口バス停

上峠から戻る道中、行きは気付かなかった古そうなトンネルを発見。柄山隧道と言うそうで、バス停の名前は「ずいどう口」。異世界に通じてそうで雰囲気満点の光景でした。

南向発電所

上伊那郡西天竜土地改良区

南向発電所を撮り、天竜川を渡ってさらに北上し、箕輪町へ。上伊那郡西天竜土地改良区の建物は昭和2年築だそうで、昔ながらの村役場らしい雰囲気。

旧:林陶社事務所

辰野町に入り、林陶社を撮影。農村の中に見事な石造りの洋館が建っています。

JA上伊那パレスたつの

小野宿

辰野の中心で農協建築を撮ってから小野宿へ。伊那街道最初の宿場町で、宿場の建物と近代建築の両方が残っています。バイパスがなく交通量が多いので落ち着いて見物できる雰囲気ではありません。

小野の旧商店

小野宿の北端、塩尻市との境界近くにはこんな建物もありました。

JA松本ハイランド内田地域交流センター

松本市内田公民館

北上して松本市に入り内田へ。公民館が年季の入った建物でした。

JAあづみ梓川支所

梓川の洋館

松本市梓川支所(旧:南安曇郡梓川村役場)

松本市街を掠めて梓川へ。平成17年4月1日の松本市編入まで梓川村だったところです。梓川支所は昭和42年竣工。

JAあづみ倭ふれあいセンター

JAあづみ明盛ふれあいセンター

JAあづみ三田ふれあいセンター

JAあづみ西穂高ふれあいセンター

JAあづみ有明出張所

倭(やまと)、明盛(めいせい)、堀金三田、西穂高柏原、穂高有明と回って農協建築を撮影。安曇地域はかっこいい農協建築が多く残っています。

旧:三沢屋菓子店

あづみ農協会館

穂高市街の旧菓子店を撮影してから豊科へ。あづみ農協会館は一部の建築趣味者の間でひそかに人気を集めている建物ですが、雨が激しくなってきたので細部の撮影は諦めました。暗くなってきたので今回はここまでとして松本駅に戻り、車を返却。松本BT22:30発阪急観光バスに乗って大阪に帰りました。

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