まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

2/5 小野田線・宇部線・山陽本線駅めぐり

山口遠征最終日となるこの日は小野田線宇部線の残りの駅を訪問し、防府市街を散策しました

妻崎駅

宇部新川を6:07発小野田行き1221M(クモハ123-3)で出発し、妻崎へ。宇部電気鉄道の手により昭和4年5月に開業した駅で、開業時に建てられた木造駅舎が残っています。内部には地元中学の美術部が制作した絵やかつて小野田線で活躍したクモハ42の写真が飾られていました。狭い駅前や独特の形状の木造駅舎が地方私鉄駅らしい雰囲気を醸し出しています。

雀田駅

妻崎6:48発長門本山行き1223M(クモハ123-2)に乗車。途中の雀田で5分間停車しました。本山支線の分岐駅で、妻崎と同時に開業。Y字に分かれる小野田線本山支線の線路に挟まれてこじんまりとした木造駅舎が建っています。山陽小野田市立山口東京理科大学の最寄り駅で、平成30年8月に小野田青年会議所と学生有志によってスクールカラーの橙色に塗り替えられました。駅のすぐ北を山陽小野田市宇部市の境界が通っています。

長門本山駅

引き続き1223Mに乗車し、長門本山へ。同じ列車には同業者二人が乗っているだけで地元利用者は皆無でした。本山支線の終点で、折り返す列車は朝に二本と夕方に一本のわずか三本のみ。駅があるのは周防灘に面した住宅地で、決して辺鄙なところではありませんが、この本数では日常使いする人も少ないでしょう。

長門本山駅

乗ってきた列車はわずか6分で雀田へと折り返していきました。同じ列車に乗ってきた二人は乗ったものの、自分は列車のいない駅を撮りたいので発車を撮影して見送ります。終着駅・長門本山はホームが一本あるだけのあまりにあっけない駅で、車止めの先を県道354号妻崎開作小野田線が横切っています。昭和12年1月に宇部電気鉄道の「本山」として開業、昭和16年12月の宇部鉄道合併時に「長門本山」に改称されました。国名を冠したのは三豊郡桑山村の予讃本線本山駅と区別するためでしょう。今でこそ存在意義の希薄な終着駅ですが、海底炭鉱だった本山炭鉱からの石炭積み出しや鉱員輸送でかつては大いに賑わったようです。平成15年3月までは旧型国電が活躍していたことで鉄道ファンからの注目を集めていました。

浜河内駅

放射冷却で凍える中を8分歩いて浜河内へ。本山支線唯一の中間駅で、長門本山からは1.0㎞、雀田からは1.3㎞しか離れていません。長門本山同様に駅舎は無く、ホーム上に簡素な待合所があるだけです。昭和32年6月開業時からの無人駅です。ここも周辺は住宅地ですが、利用者は極めて少ないです。一日三往復しかない本山支線は平日でもバスで運びきれる程度の利用者しかいないはずで、そのうち廃止になってもおかしくないように思えます。

浜河内駅

浜河内7:38発宇部新川行き1224M(クモハ123-2)で雀田へ戻ります。この列車も乗客は鉄道ファン二名のみで、通勤通学客のいない休日は鉄道ファン以外に需要はないのでしょう。この列車を逃すと次は18:39発宇部新川行きまで11時間も列車がなく、本山支線の列車がいかに少ないかがわかります。

目出駅

雀田で7:45発小野田行き1227M(クモハ123-3)に乗り換えて目出へ。こちらは本山支線と違ってそれなりに乗客がおり、小野田の中心に近い南中川で何人かが下車しました。利用者が確実にいるのは嬉しいですが、それでも一両でまかなえて空席が出るレベルなのが現実。目出は大正11年11月に小野田軽便鉄道小野田~セメント町間開業時に開設された駅で、有人駅時代には「目出たい」の語呂合わせで入場券が人気になったこともあります。せっかくなら有人駅の小野田ででも売れば増収に繋がると思うのですが復活しないでしょうか。駅舎は昭和59年3月改築の簡易駅舎で、構内踏切で島式ホームと結ばれています。

目出駅 ホーム

カーブしたホームは有帆川に面していて、目の前にゆったりとした川面を望むことができます。昭和15年11月の小野田市成立までは川のこちら側が厚狭郡小野田町で、対岸は高千帆町という別の町でした。かつては川に沿って伸びる日産化学工業小野田工場専用線が当駅から分岐しており、川に沿って不自然に空き地が残っているのがホームからでも確認できます。

南中川駅

目出8:31発宇部新川行き1228M(クモハ123-3)で南中川へ。小野田市街を横切る築堤上にある駅で、線内では比較的利用が多いです。築堤上に設けられた駅には珍しく、駅舎や駅前広場も築堤上にあります。大正4年11月開業時は「中川町」停留場を名乗っており、大正10年8月に改称されました。片流れ屋根の駅舎は戦後に改築されたもので事務室がない無人駅仕様です。昭和46年9月末まで有人駅だったということは事務室を撤去して待合室を広げたか、事務室は別棟だったのでしょう。

南中川駅

築堤の下から眺めていると、トマソン階段を発見しました。昔はこちらが駅入口だったのを付け替えたようです。コンクリートの構造物で築堤と一体化しているので壊そうにも壊せないのでしょう。

旅館鉄橋荘

駅近くには「鉄橋荘」という旅館があります。名前の由来は奥にある小野田線の鉄橋でしょう。鉄橋の上には南中川駅のホームがあります。

小野田の近代建築

そのまま南下していくと道沿いに近代建築を発見。門柱の奥の立派な玄関は和風仕様で、単なる民家というよりはなんらかの施設として建てられたもののように見えます。

旧:小野田銀行本店

さらに進むとコンクリートブロックのレトロな建物が見えてきました。大正元年に小野田銀行本店として建てられたもので、現在は山口銀行小野田支店の倉庫となっているそうです。塞がれた窓が無残ですが、銀行建築らしい風格があります。小野田銀行は小野田セメント創業者・笠井順八が地元の商家から「村内に銀行がなく困ってる」と聞いて明治32年に創業したもので、大正12年に百十銀行と合併し、昭和19年の合併で山口銀行小野田支店となりました。

伊藤医院

その近くの伊藤医院は端正な洋風建築。大正14年に建てられたもので設計は野村伸。設計者の野村伸はこれだけ素晴らしい作品を残しながら詳細が全くと言っていいほど今に伝わっていない謎に包まれた建築家で、調べても情報が全然出てきません。

小野田セメント山手倶楽部

伊藤医院のすぐ南には小野田セメント山手倶楽部がありますが、残念ながら非公開。小野田セメントは小野田の町の発展に大きな貢献を果たした企業で、「小野田のセメントかセメントの小野田か」と言われるほどの国内最大級のセメント製造会社でした。山手倶楽部は二代目の笠井真三が英国から持ち帰ったコンクリートブロックの型枠を用いて大正3年に完成させたもので、国の登録有形文化財。同じ敷地内には真三の旧宅も保存されています。

龍遊館(旧:小野田セメント住吉社宅)

その近くにある龍遊館大正13年小野田セメントの重役社宅として造られたもの。木造側壁コンクリート造で、5棟あったうちの1棟が保存されており、市民の活動の場として使われています。

太平洋マテリアル小野田事務所(旧:小野田セメント本社)

野田市街の海側にあるのが太平洋マテリアル小野田工場、かつての小野田セメントの本社工場です。小野田セメント明治維新で失業した士族の救済とセメントの国産化を目指して明治14年5月創業、現在残る旧本社は昭和3年に建てられました。小野田セメントは平成6年10月に秩父セメントを合併して秩父小野田となり、本社を東京に移転、平成10年10月には日本セメントと合併して太平洋セメントとなりました。ちなみに日本セメント鶴見線浅野駅の駅名の由来となった浅野総一郎に創業されたもので、青梅鉄道(青梅線)・五日市鉄道(五日市線)・南武鉄道南武線)・鶴見臨港鉄道(鶴見線)の5つの私鉄買収路線と深い関わりがあります。

セメント町踏切

セメント工場ができる前の小野田は厚狭郡須恵村(旧:西須恵村)と言い、有帆川河口干拓地の寒村に過ぎませんでした。セメント産業の発展に伴って社会インフラも整備されて人口も増加し、大正9年4月には町制施行して小野田町に改称しました。「小野田」は目出から住吉にかけての丘陵地をさす地名で、その沖合は「小野田潟」と呼ばれました。小野田潟の干拓地には小野田古開作・小野田新開作などの地名が付き、セメント会社の社名に使われたこともあって村名の「須恵」よりも知名度が高くなりました。小野田町は工場を中心に市街地が形成され、「セメント町」の地名も残っています。

南小野田駅

小野田町にセメントの原料となる石灰石美祢線沿線で産出)の輸送を目的とした小野田軽便鉄道(後の小野田鉄道)が開通したのは大正4年11月。当初の終点は「セメント町」駅でした。小野田鉄道は昭和18年4月に国有化され、セメント町は「小野田港」に改称されています。昭和22年10月、宇部西線雀田とを結ぶ路線が開通して現在の小野田線の原型が出来上がりますが、これに合わせて小野田港駅も現在地に移転しました。普通であれば旧駅は廃止となるところですが小野田港駅北口として残り、昭和37年3月に独立して別駅の「南小野田」となりました。このため、南小野田駅は旧セメント町駅の位置に存在します。セメント工場の正面という立地で、旧駅が廃止されずに残されたのもセメント工場最寄り駅だったのが理由と思われます。そんなセメント町駅の歴史を受け継ぐ南小野田駅ですが、ホーム一本の簡素な駅で、そのホームも残念ながらセメント町駅時代からのものではありません。

小野田駅

南小野田9:46発小野田行き1229M(クモハ123-2)で小野田へ。山陽本線との接続駅で、かつては直通列車もあったようですが、現在の小野田線の列車は全て小野田止まりです。小野田駅は昨日の記事でも書いたように、本来の小野田町ではなく対岸の高千帆町にあった駅ですが、合併で小野田市となってからは市役所も高千帆に移転してきているため、現在の山陽小野田市の中心は小野田駅となっています。小野田線が一日9往復のローカル線では例え市役所がセメント町にあっても同じことでしょうが。

宇部新川駅

小野田10:16発宇部新川行き1230M(クモハ123-2)で折り返して宇部新川へ。炭鉱都市として発展し、今なお宇部興産企業城下町として栄える工業都市宇部市の中心部にある駅です。大正3年1月、山陽本線宇部駅とを結ぶ宇部軽便鉄道の終点として開業、大正12年8月の床波延伸時に線路付け替えで現在地に移転しました。駅開業時の所在地は厚狭郡宇部村で、大正10年11月に村制から直接市制施行して宇部市となりました。炭鉱の発展に伴う人口増加が市制の理由で、山口県内では赤間関市下関市)に次ぐ二番目の市です。県庁のある山口市が市制施行したのは昭和4年4月と7年5か月も後のことでした。

宇部新川駅

宇部軽便あらため宇部鉄道は小野田線(居能~雀田~長門本山)の前身である宇部電気鉄道と合併したのち、昭和18年5月に国有化されて、宇部東線(現:宇部線)と宇部西線(現:小野田線)になりました。国有化に際して宇部新川は二代目「宇部」駅となり、初代宇部駅は「西宇部」に改称されています。しかし昭和39年9月には再改称して「宇部新川」に戻りました。その一カ月後には西宇部駅が再び宇部駅として代表駅に返り咲いています。駅舎は昭和23年8月に改築されたもので、山口県第3の都市の玄関口にふさわしい風格を見せています。

宇部新川駅 駅舎内(同日朝に撮影)

駅舎は天井が高く堂々とした造りで、いかにも主要駅と言った雰囲気。やって来るのが大体一時間に一本の宇部線と一日11本の小野田線だけなのが寂しいところですが、ローカル線の駅とはいえ早朝夜間を除けば列車到着時には多くの人で賑わいを見せます。日中であれば明り取り窓から日光が入って明るい雰囲気ですが、早朝または夜ともなれば年季の入った駅の雰囲気と人気のなさが合わさってちょっと怖い雰囲気です。調べてみたら心霊スポット扱いされていましたが、夜の人の少ない時間帯に行くと実際怖いのでそうなるのも納得です。宇部市出身の庵野秀明監督による「エヴァンゲリオン」の聖地としても有名ですが、駅舎は映画には登場しないそうです

岩倉駅

宇部新川11:33発新山口行き1840M(クモハ105-12)で岩倉へ。大正14年3月、宇部鉄道全通時に停留場として開業した駅で、昭和18年5月の国有化時に一旦廃止されましたが、10年後の昭和28年8月に100mほど宇部寄りに移転して復活しました。ホーム上に簡素な待合所と便所があるだけの無人駅です。待合所には「昭和31年12月14日」の建物財産標が付いていました。移転したとは言うものの、ホームは戦後のものとは思えない石積みで、ホーム入口には旧駅舎跡らしきものもあるので謎は深まるばかりです。

阿知須駅

岩倉12:18発宇部新川行き1843M(クハ104-9)で阿知須(あじす)へ。平成17年10月の合併で山口市となった旧:吉敷郡阿知須町の玄関口で、簡易委託の窓口が設置されています。大正13年8月、床波から延伸してきた宇部鉄道の終点「本阿知須」として開業。当時は山陽本線本由良駅が「阿知須」を名乗っており、駅名を譲られる形で昭和25年6月に改称されました。開業時の所在地は吉敷郡井関村で、昭和15年11月の町制施行時に改称して阿知須町となっています。阿知須町昭和19年4月に山口市と合併しますが、昭和22年11月に独立して再び阿知須町となりました。現在の新山口駅周辺にあたる小郡町阿知須町の2年後に独立していますが、平成の大合併では共に山口市と再合併の道を歩んでいます。ちなみに「あじす」の地名はアジガモが多くいる中州に由来するとの説があり、駅前にもアジガモを模したモニュメントが設置されています。

阿知須駅

駅舎は昭和53年3月改築で、山口県内では多く見られる仕様のものです。町の玄関口としてはこじんまりとしたもので、待合室も狭いです。窓口は向かって右側ですが、昔の写真を見ると左側で、時期不明ながら改装で位置が変わったようです。平成15年9月に「西京銀行ほっとバンク阿知須店」が駅舎内にオープン(シャッターの位置)とあるので、この時に改装したのでしょうか。駅舎内に銀行(ATM)がある例は山陰本線宝木駅および浅利駅でも目にしましたが、阿知須駅の場合は撤退してしまっています。ホームは島式で、駅舎から跨線橋での連絡です。

周防佐山駅

阿知須13:32発新山口行き1842M(クモハ105-16)で周防佐山へ。大正14年3月の宇部鉄道全通時に開業した駅で、駅名は開業時の所在地である吉敷郡佐山村に由来します。佐山村は明治32年4月に井関村(のちの阿知須町)から分立した村で、昭和19年4月の合併で山口市となりました。井関村あらため阿知須町山口市から独立したのとは対照的にその後も山口市内に残留して現在に至ります。駅開業にあたって「周防」が冠されたものの、「佐山駅」は他にはないため、同音の南海高野線狭山駅」との区別のためと思われます。

周防佐山駅

駅舎は島式ホームの片面を潰して建てられており、築年は不明。室内は全て待合室ですが、不自然な仕切りがあり、無人化後に旧事務室と待合室を隔てていた壁を取っ払って待合室を広げたのではと推測できます。駅前にある古い木造トイレには「昭和25年3月30日」の建物財産標が付いていました。

深溝駅

20分ほど歩いて深溝へ。相対式ホームの交換可能駅で、昭和31年3月改築の駅舎が残っています。引き戸が木製のままなのが味があっていいですね。隣のトイレは周防佐山と同じ日付でした。駅名は明治22年町村制で嘉川村が成立するまで存在した旧:吉敷郡深溝村に由来します。深溝から15:10発新山口行き1844M(クモハ105-15)に乗ったことで宇部線は全駅訪問達成となりました。

富海駅

新山口で15:40発普通岩国行き3334M(クハ115-3102)に乗り換え富海(とのみ)へ。この駅は以前に訪問済みですが、三日前に通った際に工事をしているのが見えたので「これが見納めかもしれない」と再訪しました。明治31年3月、山陽鉄道三田尻(現:防府)延伸時に開業した駅で、「明治30年7月」の建物財産標が付いた木造駅舎が現役です。富海は昭和29年4月の防府市編入まで佐波郡富海村だったところで、西国街道42番目の宿場町でした。

富海駅(R1-8-24)

前回訪問時と比べてみると、駅名表示が変わったほか、車寄せを中心に駅舎の老朽化が激しくなっています。丸形ポストもなくなりました。予感は的中で、駅舎内に改築のお知らせが貼られているのを確認。老朽化対策として昨年11月上旬より駅改修工事を実施中で、3番ホーム待合所は撤去済み。今後1番ホーム上屋も撤去するとのことです。駅舎については2月18日より仮駅舎に移転するとのことで、現駅舎はその後解体されるのでしょう。開業以来125年に渡って使用されてきた駅舎に残された時間はあとわずかです。

防府駅天神口

富海16:45発普通下関行き3333M(クハ115-3016)で防府(ほうふ)へ。周防国国府が置かれた防府市の代表駅で、平成6年5月に高架化されています。明治31年3月、山陽鉄道の終点「三田尻」として開業。当時の所在地は佐波郡三田尻村でした。三田尻村は明治35年1月に佐波村と合併して佐波郡防府町となり、昭和11年8月の合併時に市制施行して防府市となっています。駅名が「防府」となったのは昭和37年11月で、防府町誕生の実に60年後でした。

宮市宿本陣跡と旧:伊藤洋服店

防府天満宮

三田尻村と合併した佐波郡佐波村は西国街道43番目の宿場町であった佐波郡宮市町を前身とする村で、今も宿場町の面影を残しています。宮市は松崎天神(防府天満宮)の鳥居前町として発展したところで、平安以来の長い歴史を持ちます。宮市町の隣・西佐波令村は俳人種田山頭火の出身地でした。

空間茶天

防府天満宮の参道沿いで古そうな建物を発見。喫茶店になっていますが、元はなんだったのでしょう。

三田尻の街並み

JRの高架を潜って南へ。こちらは旧駅名の由来となった三田尻の町で、一馬本店醸造場をはじめ古い建物が多く残っています。三田尻毛利水軍が本拠地とした港町で、江戸時代初期には長州萩藩主が参勤交代で江戸へ向かう際の船出の地でした。昭和以降は塩田跡に工場が建てられ、工業・港湾都市として発展して今に至ります。古い街並みに見え隠れする赤白の煙突は「これぞ工業の盛んな瀬戸内」といった感じで風情がありました。日没間際の慌ただしい訪問だったので見落としたものが色々とありそうで、いずれ泊りがけで来ないといけないなと思います。

徳山駅

防府18:18発普通岩国行き3344M(クハ115-3104)で徳山へ。平成15年4月の合併で誕生した周南市及びそれ以前に存在した徳山市の代表駅で、海側に山陽新幹線の駅があります。乗り換えで何度か利用しており、新幹線でも訪問済みですが、ちゃんと降りるのはこれが初めてです。駅舎は平成26年9月橋上化、図書館などが入居する「周南市徳山駅前賑わい交流施設」が併設されています。明治30年9月、山陽鉄道の終点として開業した際の所在地は都濃郡徳山村で、明治33年10月に町制施行して都濃郡徳山町となり、昭和19年4月の合併で徳山市となりました。阿知須・小郡が分離した山口市と同様、この時合併された富田町・福川町(のちの新南陽市)が戦後に独立しています。徳山は萩藩の支藩である毛利氏徳山藩の城下町で、これまた気になる都市なのですが、日没後なので次の機会に回すとしましょう。

3346M

徳山19:26発普通岩国行き3346M(クハ115-3109)で岩国へ。岩国からは22:15発近鉄高速バスカルスト号で三宮に帰りました。何度も来ている山口県、来るたびに新しい発見があるので、飽きることがありません。