まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

12/17 極寒の青い森鉄道・IGRいわて銀河鉄道駅めぐり&三戸・一戸を散策

東北遠征五日目は青い森鉄道IGRいわて銀河鉄道の駅を巡りました

剣吉駅

ホテルで朝食をとってゆっくりと出発し、本八戸7:42発普通八戸行き426D(キハE132-505)と八戸7:55発普通三戸行き2564M(青い森700-5)を乗り継いで剣吉へ。平成18年1月の合併で南部町となった旧:三戸郡名川町の駅で、昭和30年7月に名川町が成立するまでは北川村でした。駅名は明治22年の町村制で北川村となるまで存在した釼吉村に由来します。地域密着の三セクらしく町の玄関口として窓口が最近まで維持されていましたが、令和4年3月12日に無人化されています。駅舎は昭和44年8月改築の鉄筋コンクリート造平屋建てで、そこまで古そうには見えません。訪問時はあいにく逆光でした。待合室には充実した蔵書の「桃李文庫」が地元住民の手で設置されています。

北高岩駅

剣吉8:39発普通八戸行き2565M(青い森701-5)で北高岩へ。昭和30年4月に八戸市編入された旧:三戸郡館村(たてむら)の駅で、大正12年8月開業時のものと思われる木造駅舎が残っています。駅名は大字上野(うわの)字高岩に由来しており、先に開業していた佐久鉄道高岩停留場(現:小海線高岩駅)と区別するべく「北」を冠したのでしょう。駅舎前に櫟の木が生えていたおかげで逆光を回避できました。かつては南部りんごをはじめとした農産物の貨物輸送で栄えた駅で、福地村や南郷村からの農産物もこの駅から出荷されていました。

北高岩駅 跨線橋からの光景

駅の裏手には馬淵川が流れ、遠くには名久井岳の秀麗な姿を望むことができます。そんな景色を横切るのは東北新幹線の高架。新幹線が八戸に着く際、ちょうど放送が流れる辺りで左の車窓にちらりと北高岩駅を見ることができます。駅裏を通る国道104号側にも出口があり、そちらには無人化後に設置された跨線橋で連絡しています。

金田一温泉駅

接続列車遅れのため5分ほど遅れてやってきた北高岩9:35発普通盛岡行き4524M(IGR7000-102)で県境を越えて金田一温泉へ。明治42年10月に「金田一」として開業した駅で、昭和62年2月に改称されています。所在地の二戸郡金田一村は昭和47年2月に福岡町と合併して二戸市となりました。読みは「きんたいち」で、言語学者や名探偵の苗字と違って濁りません。金田一温泉は座敷わらし伝承のあるところで、父親が金田一村出身で、自身も一時期金田一で暮らしていた作家の三浦哲郎は、多くの作品で金田一を舞台としています。駅舎は昭和44年12月改築で、内外に三浦作品『ユタとふしぎな仲間たち』に登場する座敷わらしが描かれています。

金田一温泉駅 安全の庭

駅舎の隣には改築記念で造成された「安全の庭」があります。この季節ですからもちろん池には氷が張っていてその上に雪が積もっていました。「安全の願いをこめて十八の心一つに造られし庭」これからも大切にしていってほしいものです。

諏訪ノ平駅

4分遅れの金田一温泉10:29発普通八戸行き4525M(青い森701-101)で諏訪ノ平へ。昭和8年1月に開業した駅で、開業時の所在地は三戸郡平良崎村(へらさきむら)でした。明治22年の町村制以前は玉懸村。平良崎村は昭和30年に向村と合併して南部村となっています。駅舎はモダニズムを感じるデザインの木造駅舎で、おそらく昭和20年代くらいの改築でしょう。駅舎前には地元NPO制作のツリーハウスがあります。

諏訪ノ平駅 メッセージツリー

待合室内には南部小学校の子供たちがつくったメッセージツリーとモク(木)レールマップが設置されています。設置から時間が経って埃を被っているのが寂しげでした。

諏訪神社

駅前通りを真っすぐ行くと国道4号に出ますが、国道沿いには諏訪神社がありました。「諏訪ノ平」という地名の由来はこの神社でしょう。社殿は建て替え工事中でした。南部氏の家祖・南部光行甲斐国から陸奥国に入った際、新領開発、 藩中安全の守護神として、 建久三(1192) 年7月27日に創建したと伝わります。南部光行甲斐源氏・加賀美氏の出身で、母親は和田義盛の妹にあたります。石橋山の戦い源頼朝に味方した功績から甲斐国南部牧(現:山梨県南巨摩郡南部町)を与えられて「南部」を名乗りはじめました。奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の功で陸奥国糠部五郡を与えられ、平良ヶ崎城を築きました。この南部氏が以降、幕末に至るまでこの地方を支配し、それゆえ「南部地方」と呼ばれることになりました。

諏訪ノ平駅 ホーム庭園

諏訪ノ平駅に戻ります。2番ホーム上にはかつての駅員が造ったのであろう池が残されていました。放置状態で荒れていますが、当駅が最寄りの白華山法光寺のミニチュアとのこと。法光寺は建長年間(1249~1256)、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼が開基したと伝わる曹洞宗寺院で、国内最大級の三重塔「承陽塔」で知られています。ミニチュアの三重塔の前には本堂と思われる建物があり、その前に鎮座する小さな黄金の仏像に大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』で源頼朝が持っていた観音様を思い出しました。そういえば、諏訪神社も法光寺もあの時代とつながりの深い寺社ですね。

三戸駅

諏訪ノ平11:32発普通三戸行き2566M(青い森700-101)で三戸へ。三戸郡三戸町の玄関口ですが、駅は馬淵川対岸の南部町にあります。明治24年9月、日本鉄道青森線が盛岡から青森まで開業した際に「三ノ戸」として開設、国有化を経て明治40年11月に改称されました。開業時の所在地は三戸郡向村(むかいむら)で、明治22年の町村制以前は大向村でした。村名の由来はおそらく三戸の対岸にあったことによるものでしょう。向村は昭和30年4月の合併で南部村となり、昭和34年2月に町制施行して南部町(なんぶまち)となりました。南部町は平成18年1月に名川町・福地村と合併して新制の南部町(なんぶちょう)となり、本庁舎は福地村役場に置かれました(その後令和3年8月に新庁舎に移転)。三戸駅は合併後も引き続き南部町の玄関口ですが、役場最寄り駅は合併で苫米地駅に移り、移転でさらに諏訪ノ平駅(ただし遠すぎるので役場最寄り駅としての利用はないでしょう)に移っています。駅舎は昭和51年2月改築で、この辺の中心駅といった趣ですが、令和4年3月12日より無人化されています。

三戸駅からバスに乗車

三戸駅からは11:42発道の駅さんのへ経由三戸営業所行きバス(左)に乗車。乗客は自分一人でした。右のバスは田子(たっこ)行きで、こちらに乗りこんでいく人は何人か見受けられました。三戸郡田子町はニンニクの町として有名なところで、こちらもいずれ行ってみたいものです。

三戸市街

11:40 三戸郵便局前で下車。運賃はたったの100円でした。青森県最南端の町・三戸郡三戸町は戦国時代まで南部氏宗家の拠点・三戸城の城下町として栄えた街で、元和元(1615)年に27代南部利直が盛岡城を建設すると、城下の町民も盛岡に移されました。江戸時代以降は代官所が置かれ、近代まで地域の中心であり続けています。

佐瀧本店

三戸の街には多くの近代建築が残されています。佐瀧本店は大正14年に建てられた三戸初の鉄筋コンクリート造の洋風建築。平成9年7月に国の登録有形文化財となっています。「佐滝」は明治19年、佐藤瀧次郎によって雑貨屋として創業され、三戸で最も成功した商家として名を馳せました。

佐瀧別邸

その隣には佐瀧創業者・佐藤家の邸宅として同年に建てられた佐瀧別邸があります。和洋折衷住宅で、八角形の望楼が付いた洋館と数寄屋造りの和館のどちらも極めて質の高い建築です。日本の住宅建築の中でも屈指の美しい建物でしょう。こちらも平成12年3月に国の登録有形文化財となっています。

富田歯科医院(旧:第九十銀行三戸支店)

富田歯科医院は大正13年に第九十銀行三戸支店として建てられたもので、昭和6年から昭和40年代まで歯科医院として使われていました。現在は空き家ですが、管理はなされているようです。ドーム屋根の入口部分が目を引きます。同一設計の第九十銀行前沢支店が水沢信用金庫前沢支店として奥州前沢にも近年まで残っていましたが現存しません。ネットに上がっていた写真を見ると確かに同じ建物です。ただし前沢の方は増築でドーム屋根が失われていました。

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三戸の町家

十字屋

三戸は街を歩けば近代建築に当たるというくらいの近代建築の宝庫で、無名の建物もなかなかの揃いようです。

レストランみうら ミックスグリル定食

お昼は三戸市街にあるレストランみうらでミックスグリル定食(1300円)を頂きました。ボリュームたっぷりのステーキに食後のコーヒーまでついて大満足でした。

松仁製袋店

桐萩遊郭の建物

桐萩遊郭

桐萩遊郭 福徳楼

食後は桐萩遊郭跡へ。その道中でもまた味のある建物を発見。散策には時間的余裕を持った方がいいかもしれません。桐萩の地名は元々「切接ぎ」と呼ばれており、三戸城を防衛するための切り通しでした。赤線廃止後は飲食店街となったものの、昭和40年代以降は衰退し、今では空き家が目立つ寂しいところです。そんな空き家の中で目を引くのが三階建ての福徳楼。廃墟化しているもののかつての栄華が偲ばれます。

照井鮮魚店

小井田金物店

桐萩遊郭を後に、街並みを見ながら三戸駅へ戻ります。ちょうどいいバスがないので2.8㎞を歩いて行くことにしますが、ゆっくりしすぎたので次の列車までの時間はたったの30分。乗り遅れるわけにはいかないので、走っては撮りの繰り返しとなりました。

洋館付き住宅

町の中心を出外れたところで、道沿いに洋館付き住宅を発見。列車に乗り遅れるかどうかの瀬戸際ですが立ち止まって撮影。なかなか味のある建物ですが空き家のようです。

住谷橋

13:47 馬淵川に架かる住谷橋を渡って三戸町から南部町へ。現在の橋は昭和32年7月に架け替えられたもので、先代の木橋の老朽化が深刻であったことから地元にとっては念願の架け替えだったとのことです。

www.town.sannohe.aomori.jp

村井家住宅

やっと三戸駅前通りまで戻ってきました。駅前通りにも古い建物が多く残っていますが、その中でひときわ目を引くのが村井家住宅。製材所を営業していた村井氏の邸宅で、大正12年竣工。平成19年7月に国の登録有形文化財となっています。

目時駅

 

4分遅れの三戸13:56発普通盛岡行き4528M(IGR7000-102)で目時へ。青い森鉄道IGRいわて銀河鉄道の境界駅ですが、全ての列車が直通運転を行っています。駅の南を流れる馬淵川が青森と岩手の県境で、駅があるのは青森県三戸郡三戸町三戸町唯一の駅ですが、町の中心に近いのは南部町にある三戸駅です。大正13年12月に目時信号場として開業し、昭和23年10月に昇格しました。開業時の所在地は三戸郡留崎村(とめさきむら)で、昭和30年3月の合併で三戸町となっています。明治22年の町村制以前は三戸郡目時村が存在しました。かつての駅は目時集落の中心にあったものの、昭和42年12月14日の複線化に際する線路付け替えで当地に移転しています。駅前通りがかつての旧線跡でした。移転時に建てられた駅舎は鉄筋コンクリート造平屋建てで、駅の規模を考えると立派です。

一戸駅

6分遅れの目時15:18発普通盛岡行き4530M(IGR7000-101)で一戸へ。二戸郡一戸町の玄関口で、窓口も営業しています。日本鉄道全通から一年5か月が経った明治26年2月に「一ノ戸」として開業、明治40年11月に改称されました。昭和43年5月改築の駅舎は鉄筋コンクリート造二階建ての立派なもので、さすが新幹線開業前は特急停車駅だっただけあります。この駅は以前訪問済みですが、街並みを見たいために再訪しました。前回あったミニストップは閉店して「いちドキ広場」という交流スペースに替わっています。

一戸の街並み

一戸の街並み

一戸は奥州街道96番目の宿場町として栄えたところで、戦国時代まで南部氏の分家である一戸氏の拠点でした。県道274号沿いを中心に古い建物が残っています。

萬代舘

県道274号は馬淵川に架かる万代橋を渡ったところで突き当たって左に折れますが、その突き当りに建つのが現役の映画館「萬代舘」。明治42年に蔵を改装した人形芝居小屋として創業し、大正時代に映画の上映を始めました。現在の建物は昭和31年に建てられたもので、国の登録有形文化財となっています。

北舘遊郭

萬代舘の前の道を右に行くと味のある建物が何軒かありましたが、帰ってから調べるとここは北舘遊郭跡だそうです。萬代舘から先の県道にもまだまだ古い建物があるようですが、あまり遠くまで行くと列車に乗り遅れるのでここまで来て引き返しました。

一戸の旧旅館

駅への帰り道、脇道に入ってみると旧旅館と思しき和風木造建築がありました。建物自体にあまり荒れた感じはないものの、破れた障子を見るに空き家でしょう。

斗米駅

 

2分遅れの一戸16:26発普通八戸行き4533M(IGR7001-1)で斗米へ。昭和37年12月10日、斗米信号場として開業し、昭和41年10月1日に昇格した駅です。IGRでは珍しいホームだけの簡素な駅で、駅舎はありません。駅の裏手を東北新幹線の高架が通っています。駅名の由来は昭和30年3月の福岡町成立まで存在した旧:二戸郡斗米村で、「斗米」はアイヌ語で「いる所」を意味するオ・マイから来ているそうです。岩手には軽米、世田米など「米(マイ)」がつく地名が多く、内地ながら地名へのアイヌ語の影響の強さが感じられます。

二戸駅

2分遅れの斗米16:47発普通盛岡行き4532M(青い森700-5)で二戸へ。二戸市の代表駅で、日本鉄道青森線全通から3か月後の明治24年12月に「福岡」として開業しました。国有化後の大正10年6月に「北福岡」に改称されましたが、これは北陸本線福岡駅との混同を避けるためでしょう。開業はこちらの方が早いですが、私鉄の駅としての開業でした。ちなみに福岡県福岡市に福岡駅は存在しません。開業時の所在地は二戸郡福岡町で、昭和47年2月に金田一村と合併して二戸市となっています。駅名も市名に合わせて昭和62年2月に改称されました。駅舎は平成14年12月の東北新幹線開業に際して橋上化されたものです。IGRの運行拠点駅ですが折り返し列車の設定は案外多くなく、盛岡方面に朝一本、青森方面に夕方一本となっています。

夜の金田一温泉駅

二戸17:27発普通金田一温泉行き4535M(IGR7000-103)で金田一温泉へ。県境を控えた金田一温泉で折り返す列車は昼に一本、夕方に一本です。乗ってきた列車が折り返しを待つ間に6分遅れの17:35発普通二戸行き2570Mが発車していきました。2570Mを追いかける形の金田一温泉17:42発普通盛岡行き4534M(IGR7001-103)で盛岡へ。金田一温泉は2,3分遅れでの発車だったと思います。

青山駅

盛岡で夕食を食べてから20:29発普通八戸行き4543M(IGR7000-101)で青山へ。平成18年3月に開業した駅で、IGRいわて銀河鉄道本社が併設されています。盛岡市郊外の住宅街である青山は戦時中、「観武ケ原(みたけがはら)」と呼ばれる練兵場があったところで、戦後は大陸からの引揚者によって開発されました。入植に際し、「人間到る処青山有り(世の中その気になればどこででも死ねる)」という不退転の意志から「青山」と名付けられたとのことです。源頼義・義家が奥州の豪族・安倍氏を滅ぼした前九年の役古戦場にも近く、出入口の一つには「前九年口」と名付けられています。駅名を「前九年」にしておけば奥羽本線「後三年」駅と対になって良かったのではと思わなくもありません。この日は青山駅近くの快活クラブ盛岡上堂店に宿泊しました。