まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

12/28 師走の飯田線(豊川周辺)駅めぐり

12月末の二日間、飯田線の駅を巡りました。

宝塚を5:15発普通吹田行き1100C(モハ207-510)で出発し、大阪5:54発快速長浜行き700M(クモハ223-2050)、米原8:03発普通大垣行き200F(クモハ311-13)、大垣8:40発新快速豊橋行き2316F(サハ313-5304)と乗り継いで豊橋へ。豊橋には先行列車遅れの影響により3分遅れでの到着で、飯田線に乗り継げるか不安でしたが、接続待ちを取ってくれました。

三河一宮駅

豊橋からは6分遅れの10:12発普通新城行き517M(クハ212-5011)で三河一宮へ。平成18年2月に豊川市編入された旧:宝飯郡一宮町の駅で、三河国一之宮である砥賀神社の最寄り駅です。明治30年7月、豊川鉄道の終点「一ノ宮」駅として宝飯郡富村に開業、翌年4月の新城延伸で途中駅となりました。大正5年1月、駅名の重複を避けるため、「三河一宮」に改称。同日には他に3ヵ所あった一ノ宮駅も上総一ノ宮、尾張一ノ宮、長門一ノ宮に改称されていますが、当駅のみ「ノ」が入らなかったのは私鉄駅だったからでしょうか。とはいえ、当駅も昭和18年8月の飯田線国有化で国鉄の駅となっています。駅舎は豊川鉄道時代の昭和13年12月改築、平成2年12月に砥賀神社をイメージした社殿風デザインに改装されています。JR東海でも他社同様に駅舎の簡素化が進んでいることから当駅の今後も気にかかりますが、末永く残ってほしいと思えるような趣ある駅舎です。ただ、訪問時は残念ながら駅舎内に吐しゃ物が放置されていたので、落ち着いて列車を待てる雰囲気ではありませんでした。

三河東郷駅

対向列車待ち合わせのため4分遅れの三河一宮11:00発普通岡谷行き519M(クハ312-3015)で三河東郷へ。昭和30年4月の合併で新城町(→新城市)となった旧:南設楽郡東郷村の駅で、織田・徳川連合軍が武田軍を破った長篠の戦いにおける決戦地・設楽原古戦場の最寄り駅です。明治33年12月、豊川鉄道の「川路」駅として南設楽郡信楽村に開業、当時の駅名は明治22年の町村制まで存在した川路村に由来します。昭和18年8月の飯田線国有化に際しては、同じく国有化で飯田線となった伊那電気鉄道にも川路駅があることから、村名に合わせて「三河東郷」に改称されました。平成18年12月頃改築の簡易駅舎には、武田騎馬軍団を食い止めるため織田信長が考案したとされる馬防柵をイメージした装飾がなされています。

江島駅

2分遅れの三河東郷11:38発普通豊橋行き532G(クモハ313-3020)で江島へ。カーブしたホーム上に木造待合所があるだけの簡素な駅で、豊川によって形成された河岸段丘上に位置します。大正15年11月に「江島渡停留場」として開業し、国有化時に改称されました。「江島」は豊川対岸の地名で、駅があるのは東上地区です。そこまで辺鄙な立地ではなく、近くには住宅地もあるものの、地形の都合で駅からはあまり人家が見えません。

長篠城駅

江島12:09発普通本長篠行き521G(クハ312-3027)で長篠城へ。長篠城跡の最寄り駅で、大正13年4月に鳳来寺鉄道の「長篠古城址」として開業しました。国有化時に改称されています。平成9年7月改築の駅舎は城をイメージしたデザイン。かつては交換可能駅だった名残で対向ホームが残っています。

長篠城

長篠城跡へは徒歩7分長篠城は寒狭川(かんさがわ・豊川の別称)と大野川(宇連川)が合流する場所に突き出た断崖絶壁上に築かれた城で、奥三河の豪族・菅沼氏の城でした。菅沼氏は今川氏に仕えていたものの、松平元康が独立を果たすとそちらに従いっています。元亀2年、武田信玄三河侵攻の一環で攻められた際には陥落を免れたものの、武田方についた田峯菅沼氏の説得により城主の菅沼正貞は武田方に降伏し、城は武田方の手に渡りました。武田信玄の病によって武田軍が退却すると徳川方が長篠城を奪い返しにかかり、正貞は徳川方に開城降伏しています。天正3年、信玄の後を継いだ武田勝頼三河遠江を再び手に入れるべく長篠城を攻め、これが有名な長篠の戦いとなりますが、織田・徳川連合軍に大敗北を喫して多くの重臣を失うことになりました。ちなみに菅沼正貞ですが、降伏ののち逃れて武田軍に合流したものの、徳川への内通を疑われて信濃小諸城に幽閉され、武田氏滅亡の前後に獄死しています。長篠城については攻防戦で大きく損壊したことから、奥平信昌の新城城築城で廃城となりました。

大海駅

長篠城13:17発普通豊橋行き536G(クモハ313-3027)で大海(おおみ)へ。明治33年9月、豊川鉄道の終点として開業した駅で、明治36年3月から昭和18年8月の国有化までは「長篠」を名乗っていました。当駅から先、三河川合までの区間大正12年2月に豊川鉄道系列の鳳来寺鉄道の手によって開業しており、まもなく開業百周年を迎えます。後に豊橋鉄道田口線となる田口鉄道も当駅を起点として寒狭川沿いに田口を目指す予定でしたが、地形と資金の都合から起点を鳳来寺口(現:本長篠)に変更しています。大海駅の駅舎は昭和44年8月改築、階段上にあるので堂々として見えます。なぜかベンチはホームにしか設置されておらず、駅舎内はがらんどうでした。

本長篠駅

大海13:34発普通本長篠行き523G(クハ312-3020)で本長篠へ。平成17年10月の合併で新城市となった旧:南設楽郡鳳来町の駅で、多くの列車が当駅で折り返します。大正12年2月に鳳来寺鉄道の「鳳来寺」として開業、昭和4年3月に「鳳来寺口」に改称されています。この改称は同年5月の田口鉄道開業に備えたもので、田口鉄道は鳳来寺の門前に二代目となる鳳来寺駅を開業させています。鳳来寺口駅は昭和18年8月の国有化時に「本長篠」に改称されました。田口鉄道は国有化されることなく私鉄として残り、昭和31年10月には豊橋鉄道田口線となりましたが、利用者減少と水害を理由に昭和43年9月に廃止されています。本長篠駅の駅舎は大正12年2月開業時のもので、簡易委託の窓口が設置されています。田口線は駅舎に面したホームを使用していました。

新城市鳳来総合支所(旧:南設楽郡鳳来町役場)

本長篠駅がある長篠は鳳来町のかつての中心。とはいえ、市街地自体はそれほど大きくありません。鳳来町は昭和31年4月に南設楽郡長篠村、鳳来寺村と八名郡大野町、七郷村が合併して誕生した町で、役場は長篠に置かれました。現在は鳳来総合支所となっている旧鳳来町役場は昭和45年竣工で、今年5月に新庁舎に移転して役目を終える予定です。国道を挟んだ反対側では新庁舎が完成間近でした。

鳳来町総合庁舎

総合支所の裏手に建つのは昭和32年建設の旧鳳来町総合庁舎。総合支所となっている建物が建つまではこちらが鳳来町役場本庁舎だったようで、現在は森林組合が入居しています。こちらも移転によって役目を終える予定。

鳥居駅

本長篠14:20発普通豊橋行き540G(クモハ313-3020)で鳥居へ。ホーム一本だけの棒線駅で、ホーム上に平成8年12月築の待合室があります。かつてはホーム入口に木造駅舎がありました。駅名の由来は長篠の戦い長篠城を守り抜いた奥平信昌の家臣・鳥居強右衛門勝商(とりい-すねえもん-かつあき)で、彼の最期の地であることにちなんでの命名です。長篠城が武田軍に包囲された際、城を抜け出して岡崎の徳川家康に援軍を求める役目を託されたのが強右衛門で、岡崎での援軍要請には成功しますが、それをいち早く仲間に知らせようと長篠城に戻った際に近くの有海村(現在の鳥居駅周辺)で武田軍に捕まってしまいます。援軍を知り、いち早く長篠城を落とす必要に迫られた武田勝頼は強右衛門に、助命と武田家臣としての厚遇を条件に、「援軍は来ないから降伏した方がいい」と虚偽の情報を伝えるよう命じました。強右衛門は表向き従ったふりをして城に近づき「あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ち応えるように」と叫んで、勝頼の命令で殺されました。強右衛門は以降、命をかけて忠義を尽くした武士の鑑として語り継がれることになり、戦前には国定教科書でも紹介されました。大正12年2月の駅開業時に地名の「有海」ではなく、強右衛門にちなんだ「鳥居」が採用されたのは、当時の教科書で強右衛門が多くの人に知られていたというのもあるでしょう。

湯谷温泉駅

鳥居14:34発普通天竜峡行き527M(クハ312-5001)で湯谷温泉へ。日本百名湯の一つ・湯谷温泉の最寄り駅で、平成3年12月に「湯谷」から改称されました。平成31年7月から9月にかけて解体された駅舎は鳳来寺鉄道直営の旅館を併設した木造二階建ての立派なもので、国有化後は2階が国鉄職員の寮として使用されていました。跡地は駐車場と化し、駅入口の歓迎アーチだけが残っています。

三河大野駅

湯谷温泉14:57発普通豊橋行き544M(クモハ313-1703)で三河大野へ。昭和31年4月の鳳来町成立まで存在した旧:八名郡大野町の玄関口ですが、駅は宇連川対岸の長篠村富栄に開業しました。平成8年2月改築の駅舎は鳳来寺山に生息するコノハズクをモチーフとしたもので、旧駅舎は湯谷温泉と同じく鳳来寺鉄道直営の旅館が併設された建物でした。高いところにあるホームへは地下通路で連絡しています。

大野宿鳳来館(旧:大野銀行本店)

大野橋を渡って対岸の大野へ。鳳来寺秋葉山本宮を結ぶ秋葉街道、豊橋と別所(東栄町本郷)を結ぶ別所街道が交わる宿場町として栄えたところで、物資の集散地にして宇連川流域の中心となる街でした。秋葉街道を経て静岡県側から買い物客が来るほど賑やかな街で、明治25年4月には八名郡で初めて町制を施行、明治29年には三河初の民間銀行である大野銀行が創立されました。大正14年建設の2代目社屋は現在、喫茶店として活用されています。一時は隆盛を極めた大野の街ですが、鉄道が開通すると地域の中心としての役割が薄れて衰退していきました。

三河槙原駅

3分遅れの三河大野15:44発普通岡谷行き531M(クハ212-5008)で三河槙原へ。宇連川流域の深い山間の集落・ドウデイにある駅で、駅名は近くの槙原集落に由来します。ホームや駅前から見える岩山が見事ですが、ここに掘られた手掘りのトンネルを抜けたところが槙原集落だそうです。「槙原」駅なんて他になかったはずですが、駅名に冠された旧国名はどこと区別するためのものなのでしょうか。駅舎は平成14年11月改築で、島式ホームとは少し離れています。

牛久保駅

3分遅れの三河槙原16:09発普通豊橋行き548M(クモハ213-5003)で牛久保へ。昭和18年6月の豊川市成立まで存在した旧:宝飯郡牛久保町の駅で、昭和18年8月の国有化直後に改築された天井の高い木造駅舎が残ります。牛久保町には豊川町、八幡村にまたがる巨大な軍需工場・豊川海軍工廠昭和14年12月に開廠されており、この工廠の発展が合併による豊川市成立のきっかけとなりました。牛久保駅の駅舎改築は戦争の激化に伴う工廠への通勤客増加で手狭になったことによるもので、この立派すぎる駅舎も戦争の落とし子ということができそうです。ちなみに終戦後、海軍工廠の用地は転用され、一部は日本車輛の鉄道車両工場となっています。

牛久保駅 待合室内

ただし改築工事中のため、見られるのもあとわずか。3月18日には新駅舎の使用が開始され、6月下旬まで旧駅舎の撤去が行われる予定です。駅舎出入口には「山本勘助のふるさと」と掲げられていますが、平成19年大河ドラマ風林火山』に合わせて取り付けられたもののようです。『風林火山』の主人公で、武田信玄の軍師であった山本勘助三河国宝飯郡牛窪の出身と『甲陽軍鑑』には記されています。大河ドラマでは駿河国富士郡山本(富士宮市山本)出身で、三河国牛窪城主牧野氏の家臣・大林勘右衛門の養子に入ったという説が採られました。近年まで実在が疑われていたくらい史実がはっきりしない人物なので、出自や出身地についてもまた諸説あるようです。ちなみに牛窪城主牧野氏家臣であった三河山本氏の子孫(勘助の弟の子孫)は牧野氏が越後長岡藩に転封されてからも付き従い、家老・山本帯刀家になったとの説があります。山本帯刀家は当主が戊辰北越戦争で討ち死にして断絶しましたが、山本五十六が高野家から養子に入って家名を再興しています。

夜の中部天竜駅

牛久保駅近くの丸源ラーメンで夕食を済ませてから、18:07発普通水窪行き545M(クハ312-3026)で中部天竜へ。もう真っ暗なので駅めぐりはせず、20:08発普通豊橋行き568M(クモハ213-5007)で折り返して豊川へと戻りました。

豊川駅 東口

豊川駅は日本三大稲荷の一つ・豊川稲荷門前町豊川市の代表駅で、名鉄豊川稲荷駅が隣接しています。明治30年7月、豊川鉄道最初の開業区間の終点として宝飯郡豊川町に開業、一ノ宮延伸によりわずか一週間で途中駅となりました。駅舎は平成8年12月に橋上化された三代目で、昭和6年12月築の二代目は売店・食堂・物産館・演芸場など様々な集客施設の入居する鉄筋コンクリート造三階建ての立派な駅ビルでした。写真の東口は旧駅舎時代は駅裏で、橋上化に伴って新設されています。この日は快活クラブ豊川店に宿泊しました。