12/19 極寒の釜石線駅めぐり(似内~柏木平)&花巻・金ケ崎・水沢を散策
東北遠征最終日は釜石線の残りの駅を巡り、花巻・金ケ崎・水沢を歩きました。
遠野を2分遅れの6:13発普通盛岡行き1652D(キハ100-10+キハ100-24+キハ100-22)で晴山(はるやま)へ。大正3年4月、土沢から伸びてきた岩手軽便鉄道の終点として開業し、12月の岩根橋延伸で途中駅となりました。国鉄時代は交換可能駅で大きな駅舎もあったものの、平成8年頃に盛岡支社管内標準仕様の木造待合室に改築されています。正直、岩手二日町と見分けろと言われて見分けられる自信はありません。
駅で目を惹いたのはこちらの桜の木と鳥居。鳥居にはどういう由緒があるのか不明ですが、正式な神社ではなさそうです。駅名の由来は明治22年の町村制で十二鏑村(じゅうにかぶらむら)が成立するまで存在した旧:東和賀郡東晴山村でしょう。明治の町村制までは晴山舘迫村もあったそうで、こちらは谷内村(たんないむら)の一部となっています。同じ花巻市内には郡が違うものの稗貫郡西晴山村(→湯口村)も存在したそうで、偶然かもしれませんが、対をなす地名となっています。駅のある東晴山は猿ヶ石川北岸の集落で、対岸はかつての谷内村です。
晴山7:05発普通釜石行き1653D(キハ100-27+キハ100-17+キハ100-23)で岩根橋へ。目の前を通る国道283号線より一段低い立地の駅で周辺に人家はあまり多くありません。大正3年12月、岩手軽便鉄道の終点として開業、翌年11月の柏木平延伸で途中駅となりました。隣の宮守駅との間にはコンクリートアーチの達曽部川橋梁があり、この橋の通称「岩根橋」が駅名となっています。待合室は平成8年頃に建てられたもので、それ以前は木造駅舎がありました。
3分遅れの岩根橋7:22発普通盛岡行き1654D(キハ100-19+キハ100-28)で土沢へ。平成18年1月に花巻市と合併した旧:和賀郡東和町の玄関口で、昭和18年9月の改軌時に改築されたと思われる木造駅舎が現役で使用されています。大正2年10月、岩手軽便鉄道で最初に開業した区間の終点として開業、宮沢賢治の小説『銀河鉄道の夜』の始発駅のモデルだと言われていますが、花巻電鉄がモデルとの説が近年では有力のようです。
駅開業時の所在地は和賀郡十二鏑村(じゅうにかぶらむら)で、昭和15年12月の町制施行時に改称して和賀郡土沢町となりました。土沢は釜石街道から近隣の村々への道が分岐する交通の要衝で、昭和30年1月の合併で東和町となってからも引き続き町の中心が置かれ続けました。「東和」の町名は和賀郡の東部にあることに由来します。旧街道沿いには古い建物が残っていますが、特に目立つ近代建築はありませんでした。
2分遅れの土沢8:36発普通花巻行き656D(キハ100-25+キハ100-14)で小山田へ。大正2年10月、「幸田停留場」として開業した駅で、大正4年11月に改称されました。駅名は昭和30年1月に東和町が成立するまで存在した旧:和賀郡小山田村に由来しますが、駅は隣の旧:稗貫郡矢沢村にありました。明治22年の町村制までは幸田村で、昭和29年4月の合併で花巻市となっています。
平成30年2月15日13時より使用開始された簡易駅舎は「三郎堤に佇む待合所」がコンセプトで、丸窓や和風の内装に遊び心を感じます。三郎堤は駅裏に広がる溜池で、平安時代末期に奥州藤原氏三代藤原秀衡の三男・泉三郎忠衡によって整備されたと伝わります。駅周辺はのどかな農村地帯です。快速は小山田に停まらないので、隣の新花巻まで歩いて向かいます。
小山田駅から歩くこと20分で新花巻駅の駅舎が見えてきました。建物が少ないので遠くからでも駅舎がよく見えますが、その分見え始めてからなかなか辿り着かないという事態が発生します。
新花巻駅は昭和60年3月の新幹線駅開業と同時に開業した駅で、同時に矢沢駅が廃止されています。釜石線ホームは一面一線。新幹線からは駅舎を一旦出て地下通路を通っての乗換えとなります。この地下通路、新幹線駅と釜石線ホームとの間を横切る道路で旅客が車に撥ねられるのを防ぐためのなのでしょうが、道路の交通量が少なく、バリアフリーが求められる現代となってはもはや旅客に不便を強いるだけのものとなってしまっています。
新花巻9:23発快速はまゆり1号釜石行き3621D(キハ110-4+キハ110-1+キハ110-5)で宮守へ。平成17年10月に遠野市と合併した旧:上閉伊郡宮守村の玄関口で、高いところにあるホームとは地下通路で結ばれています。駅舎は平成27年3月に改築されたもので、木目風の壁やレンガ調タイルは昭和レトロやめがね橋がコンセプトとのことです。改築までは昭和18年9月改軌時の木造駅舎が使用されていました。平成26年4月に無人化されていて、駅舎は無人化後の改築ですが、待合室は広くて立派です。
宮守10:22発普通釜石行き655D(キハ100-14+キハ100-25)で柏木平へ。旧宮守村の東部・下鱒沢の集落にある駅で、天井の高い簡易駅舎は平成12年頃の改築。大正4年7月、鱒沢(初代)から伸びてきた岩手軽便鉄道(東線)の終点として開業し、同年11月に西線が岩根橋から伸びてきたことで岩手軽便鉄道は花巻(国鉄とは別の駅)~仙人峠間の全通を果たしています。国有化後の昭和18年9月、花巻から当駅までが改軌されましたがそこから先は戦争の影響で中断。以降、昭和24年12月に当駅から遠野までが改軌されるまでは当駅で乗換が行われていました。
柏木平10:39発普通花巻行き658D(キハ100-13)で似内(にたない)へ。東北横断自動車道花巻空港IC近くの上似内集落にある駅で、花巻空港へは徒歩で30分ほどと東北本線花巻空港駅よりも近いです。大正2年10月、岩手軽便鉄道で最初に開業した区間の途中駅として開業、昭和18年9月の改軌時に花巻~当駅間が新線に付け替えられて途中にあった鳥谷ヶ崎(とやがさき)駅が廃止されました。開業時の所在地は稗貫郡宮野目村で、昭和29年4月の合併で花巻市となっています。明治22年の町村制までは上似内村と下似内村が存在しました。駅舎は平成9年2月改築、盛岡支社管内でよく見かけるタイプで、釜石線では他に足ヶ瀬と上有住が同型です。
島式ホームの交換駅で、貨物ホーム跡も残っています。改軌前の旧線と新線と分岐点は第7似内踏切辺りで、左手の雪に埋もれた道が軽便時代の旧線跡です。改軌前は駅の位置も違っていたのでしょう。
似内駅から旧線跡を辿り、瀬川を小舟渡橋で渡るとイギリス海岸に着きます。海岸とは言っても北上川の河岸で、泥岩層が露出する様子がイギリスの白亜の海岸のようだと宮沢賢治が名付けました。ただし、ダムの整備で水位が下がらなくなったことから、賢治が生きていた頃のように泥岩層を見ることは難しく、賢治の命日である9月21日のみ関係各所の協力で水位が下げられているそうです。
花巻はかつて鳥谷ヶ崎(とやがさき)と呼ばれたところで、稗貫氏の本拠地・鳥谷ヶ崎城を中心に発展しました。鳥谷ヶ崎城は稗貫氏が滅んだあと、北秀愛によって「花巻城」と改められ、江戸時代には盛岡藩初代藩主・南部利直の次男・政直が入城し、以降は城代が置かれて和賀・稗貫二郡支配の拠点となりました。
岩手軽便鉄道(釜石線旧線)は花巻城南側の高台を走っていました。花巻は高低差のある街で、廃線跡の道路が別の道路を跨ぐ立体交差も存在します。旧線が走るのは花巻市の中心部近くで、国鉄花巻駅に乗り入れるにしてもこのルートを活かすことができていればさぞ便利だったことだろうと思われます。
花巻駅があるのは旧中心市街から少し離れた高台で、明治23年11月の日本鉄道一ノ関~盛岡間延伸時に駅が設置されました。開業にあたっては花巻の豪商で後に貴族院議員となる伊藤儀兵衛が敷地を無償で提供しました。現在の駅舎は昭和36年に建てられたもので、橋上化計画により数年後には姿を消す運命にあります。
3分遅れの花巻13:25発普通一ノ関行き1540M(クハ700-1009)で金ケ崎へ。胆沢郡金ケ崎町の玄関口で、明治30年7月に開業しました。平成16年11月改築の駅舎は東西自由通路併設の半橋上駅舎で、武家屋敷をイメージした和風のデザイン。建物には商工会と農協も入居しています。
金ケ崎は安倍宗任の拠点・鳥海柵が置かれたところで、中世には柏山氏が大林城を拠点として胆沢郡一帯を支配しました。江戸時代以降は南部藩と国境を接する伊達氏仙台藩北限の町として要害が置かれました。要害に配置された家臣の暮らした武家屋敷は重伝建となっていますが、駅からは遠いので今回は県道137号沿いを中心に散策。
懐かしい感じの街並みではあるものの、近代建築と言えるような建物は見当たりません。こちらの葬儀社もストビューで見るといい感じだったものの、現地で見てみると改修でのっぺらぼうになっていました。
3分遅れの金ケ崎14:49発普通一ノ関行き1542M(クハ700-1032)で水沢へ。岩手県第二の都市・奥州市の代表駅で、平成18年2月の合併までは水沢市でした。駅舎は昭和51年6月改築。朝の6:50に当駅を出て盛岡までを約一時間で結ぶ快速「アテルイ」が片道一本のみ設定されていますが、3月ダイヤ改正で廃止となります。名称の由来は平安時代初期の蝦夷の族長・アテルイで、征夷大将軍・坂上田村麻呂に降伏して都へ連行されたのち、田村麻呂による助命の訴えもむなしく処刑されました。水沢はアテルイをはじめ、高野長英、後藤新平、斎藤實、大谷翔平とあらゆる時代の様々な分野の大物を輩出している街です。
「みちのくの小京都」とも呼ばれる水沢は伊達氏仙台藩領内の北の要として要害・水沢城が置かれたところで、江戸時代は伊達政宗の従兄弟・留守宗利以降200年に渡って留守氏(水沢伊達氏)の治める城下町として発展しました。明治以降も商業の中心地として栄え、昭和29年4月に胆沢郡水沢町が周辺5村と合併して水沢市が成立しました。中心部は背の高いアーケードにビルが立ち並び、都会的な景観です。水沢市は人口こそ6万人であったものの、人口密度では盛岡市を抜いて岩手県内第一位でした。しかしながら、そんな水沢も地方都市の常で中心部の空洞化が目立つのは寂しいところです。
水沢市街には多くの近代建築が残されています。今回見たのはほんの一部。高橋翠川印房は昭和10年築、旧阿部呉服店は昭和12年築、小野寺時計店は大正14年築、エイヨー食堂は昭和4年築です。駅から離れたところにも色々あるみたいなので、また暖かくなったら再訪したいものです。
5分ほど遅れの16:07発普通一ノ関行き1544M(クハ700-1034)で水沢を後にし、一ノ関16:39発普通小牛田行き556M(クハ700-1504)、小牛田17:31発普通仙台行き2554M(クハE720-33)で仙台へ。仙台19:40発夜行バスフォレスト号で大阪への帰途に就いたのでした。