まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

2/19 如月の予土線・予讃線駅巡り その2

宇和島鉄道 1号機関車

四国広島遠征二日目は宇和島からスタート。宇和島駅前には予土線の前身・宇和島鉄道が開業時にドイツのコッペル社から輸入した1号機関車のレプリカが展示されています。宇和島鉄道は軌間762㎜の軽便鉄道で、国有化後の昭和16年7月に国鉄と同じ1067㎜に改軌され、宇和島~務田間が新線に切り替えられました。

松丸駅

宇和島6:04発窪川行き9810D(キハ54-7)で出発し、松丸で下車。北宇和郡松野町の玄関口で、予土線内では比較的利用客の多い主要駅の一つです。平成14年10月改築の駅舎は「松野町ふれあい交流館」との合築で、温泉施設「森の国ぽっぽ温泉」も併設されています。綺麗な駅舎ですが、室内には「犬にマーキング(おしっこ)をさせないでください」との貼り紙が。本当にそんな非常識な人がいるのだろうかと思いきや、婆さんが堂々と駅舎内で犬を散歩させに来ており、犬がゴミ箱やらあちこちにかけているのを目撃しました。さらにホームで吸った煙草を向かいの畑に投げ捨てている爺さんもおり、朝っぱらから醜いものを見てしまってげんなりとしました。

松丸の街並み

旧松丸街道

早朝の駅周辺を散策。松丸は土佐との国境に近い宇和島藩領の要衝として、伊予と土佐の交易によって栄えた街で、古い建物が多く残っています。明治22年の町村制では北宇和郡明治村(あけはるむら)となりましたが、昭和15年11月の町制施行時に改称して松丸町となりました。北宇和郡丸町は昭和30年3月に吉生村と合併、一字ずつ取って松野町となり今に至ります。

芝歯科医院(旧:四国銀行 松丸出張所)

旧:松丸郵便局

松丸の洋館

近代建築ももちろん残っており、事前に調べて知っていた上2軒の他にもう1軒発見。木に埋もれて分かりづらいですが、窓の形から洋館らしいとわかります。佇まいからして個人邸というより旧医院っぽいですが詳細は如何に。

近永駅

松丸7:48発宇和島行き9813D(キハ32-6)で近永へ。北宇和郡鬼北町の玄関口で、大正3年10月に宇和島鉄道の終点として開業しました。駅舎は昭和8年10月国有化時に改築されたもので、昭和63年10月に改装・減築されています。予土線では貴重な木造駅舎ですが、建て替え計画もあるそうで近い将来見納めになりそうです。

近永駅

ホームは島式1面2線。宇和島鉄道の時代からあまり変わっていないのか狭くて低い、窮屈な印象を受けるホームです。左の鉄道ホビートレインは当駅折り返し。予土線の途中駅では最も利用者の多い駅だけあって朝と夕方に一本ずつ折り返し列車が設定されています。

旧:井谷医院

生憎の雨ですが傘をさして近永を散策。近永は土佐街道・梼原街道・松丸街道が集まる交通の要衝で、鬼北盆地の中心に位置します。松丸と比べると明治以前の建物は少ないようですが、近代建築は負けず劣らず質の高いものが揃っています。井谷医院は明治42年に建てられたもの。

旧:旭郵便局

近永は明治22年の町村制で北宇和郡旭村となり、昭和16年11月の町制施行時に改称して近永町となりました。その旧村名を今に伝えるのが旧:旭郵便局。昭和7年に建てられて昭和38年まで使われていたもので、原型から屋根の形を変えたために他では見ない印象の建物に仕上がっています。広報きほくH22.8に原型の写真がありました。

北宇和郡鬼北町役場(旧:北宇和郡広見町役場)

近永町は昭和30年3月の合併で北宇和郡広見町となり、平成17年1月には日吉村と合併して鬼北町となりました。旧町名は広見川に、現町名は鬼北盆地に由来します。広見町となってからの昭和33年に建てられた役場本庁舎は、国登録有形文化財モダニズム建築です。設計はレーモンド設計事務所で、設計担当は田辺博司、構造担当は恩田和夫。レーモンド設計事務所チェコ出身のアメリカ人建築家:アントニン・レーモンドによって設立された事務所で、社長の中川軌太郎が広見町の前身:三島村の出身であった縁で庁舎の設計を担当することになりました。

煉瓦倉庫

駅周辺を一通り歩いて駅前へ。ホームからも見える場所に古そうな煉瓦倉庫があります。その向かいの倉庫の壁に描かれたイラストには鉄道ホビートレイン。小さな新幹線はすっかり予土線の代名詞となっているようです。

務田駅

近永9:00発宇和島行き4815D(キハ32-3)で務田(むでん)へ。鬼北盆地最西端、宇和島との間の山越えを控えた駅で、駅舎は撤去されて便所併設の待合所に替わっています。駅名は明治22年の町村制まで存在した北宇和郡務田村に由来。隣の伊予宮野下駅とはわずか0.9㎞しか離れていないため、次の列車までの時間を利用して歩きます。

旧:渡邊医院

務田駅から田んぼの中の道を一直線に北上して務田の集落へ。ここには昭和3年に建てられた旧医院が残っています。現在は個人邸のようですが、綺麗に保たれていて良さげな雰囲気。

伊予宮野下

寄り道しながら20分ほど歩いて伊予宮野下へ。平成17年8月の合併で宇和島市となった旧:北宇和郡三間町の玄関口で、大正3年10月に宇和島鉄道の「宮野下」として開業しました。国有化時に国名が冠されましたが、同名の駅は他にないため同音の「宮ノ下」との混同を避けるためと思われます。宮ノ下駅箱根登山鉄道阪堺線と台湾の淡水線にありましたが、果たしてこれらと区別する必要があるかと言うと微妙なところです。

伊予宮野下

駅舎は吉野生と同じく昭和8年8月国有化時に改築されたもので、民営化後に改装・減築されています。相対式ホームの交換可能駅で、カーブの途中に設けられているため、ホームは大きく弧を描いています。

十川駅

伊予宮野下9:52発窪川行き8814D(キハ54-4)で十川へ。昭和49年3月に開業した区間にある駅で、平成18年3月の合併で四万十町となった旧:幡多郡十和村の玄関口です。十和村は昭和32年8月に幡多郡川村と昭村が合併して誕生した村で、一字ずつ取って命名されました。駅がある十川地区は十和村の中心で、駅前には小規模ながらも市街地が形成されています。駅前の標識には「国鉄」の文字が残っていました。

十川駅

ホームは村を見下ろす高いところにあり、駅前からは階段を登って地下通路を通り、さらに階段を登っての連絡となります。島式ホームの交換可能駅でしたが、平成28年3月より棒線化されました。ホーム上には上屋があるのみでベンチも少なく、列車を待つには最低限の設備と言った感じです。

十川観光物産センター

駅前から階段を登ったところ、地下通路の入口脇には十川観光物産センターがあり、こちらが待合室を兼ねているようです。三角屋根の同じ建物は土佐昭和駅にもあり、そちらは施錠されていましたが、こちらは開いていてすんなり入れました。かつてはここで切符を売っていたようです。中に入ってみると、時間が止まっているかのようで、貼ってあるポスターも昔のまま。指名手配ポスターは平成17年ごろのもので、調べてみると全員既に捕まっていてもはや用を為していませんでした。貼ってある地図も自治体合併以前のもので、ある意味貴重です。

北宇和島

十川11:48発宇和島行き4817D(キハ54-7)で北宇和島へ。予讃線予土線の分岐駅で、昨夜に訪問済みですが、暗かったので駅舎や駅前の様子はよく分かりませんでした。改めて撮影していきます。駅舎は昭和16年7月開業時のもので、民営化後に改装・減築されています。分岐駅にも関わらずホームは島式1面2線と非常にシンプルで、停車する列車も多くありません。周辺は宇和島市郊外の住宅街で、エディオンモスバーガーもあってそれなりに街中です。次の八幡浜方面行きは2時間以上後なので、隣の高光駅まで歩いて向かいます。

高光駅

途中のうどん屋での昼食休憩を挟みつつ国道56号を30分ほど歩き、高光へ。昭和30年3月に宇和島市編入された旧:北宇和郡高光村の駅で、国道56号に面した立地です。駅舎は無く、予土線で散々目にした待合所(平成元年3月築)があるだけの簡素な駅ですが、かつてはJR系列のラーメン店とコンビニが併設された待合室が手前にありました。コンビニは比較的早めに閉店して撤去され、ラーメン店はテナントが何度も変わって営業を続けたものの、平成28年頃に待合室もろとも撤去されてしまいました。駅名の由来となった高光村は明治22年の町村制で串村と満村が合併した際に一字ずつ取って名付けられた合成地名です。

八幡浜

高光15:35発普通八幡浜行き4646D(キハ54-3)で八幡浜へ。関西や九州との海上交易で栄えた港町・八幡浜市の代表駅で、この駅から松山方面は普通列車の本数もぐっと増えます。昭和14年2月開業時に建てられた駅舎は天井の高い風格あるもので、ゆったりとした構内と共に、昔ながらの主要駅の姿を今に伝えています。

松山駅

八幡浜からは16:45発普通松山行き(伊予長浜経由)4924D(キハ54-5)で県都・松山へ。宇和島から松山まで普通で移動するだけで3時間以上かかり、すっかり日も暮れてしまいました。松山へ来るのは中学一年の夏以来実に約十年ぶりですが、松山駅の駅舎は当時と変わっていません。しかし高架化工事により数年後にはすっかり姿を変えていることでしょう。この日は駅前のビジネスホテルあかやねに宿泊。翌日は松山の路面電車で駅巡りをしていきます。