まだ見ぬ駅を求めて~逆瀬の駅巡り旅~

駅巡りの記録をひたすら載せていくブログです。やたら更新する時と全く更新しないときがあります。

3/23 春雨の土讃線駅巡り(豊永~朝倉)

この日の天気はあいにくの雨でしたが、引き続き土讃線高知エリアの駅を巡りました

218D

高知を6:36発普通土佐山田行き218D(1039+1019+1014+1002)で出発。予定では始発の5:41発阿波池田行き4216Dに乗るはずでしたが、目覚まし時計をかけ忘れて起きたら5時半だったので乗れませんでした。始発を逃すと土佐山田より先へ行く列車は12:44までありませんが、調べてみると挽回できそうなので一安心。

土佐山田駅

終点の土佐山田で下車。香美市の代表駅で、特急「南風」「しまんと」も全列車が停車します。駅舎は開業時のもので、改装されてセブンイレブンが入居しています。大正14年12月5日、高知から伸びてきた高知線の終点として開業。当時の所在地は香美郡山田町でした。山田町は明治29年1月27日に山田野地村が町制施行したもので、明治の町村制までは野地村を名乗っていました。山田町は昭和29年9月1日の合併で香美郡土佐山田町となり、平成18年3月1日の合併で香美市となっています。

旧:八井田医院

竹本歯科診療所

生憎の雨ですが、駅前をちょっとだけ散策。土佐山田には二軒の医院建築が残っています。探せば他にも色々あるかもしれません。

土佐長岡

土佐山田7:42発普通高知行き215D(1020+1038)で土佐長岡へ。国道195号沿いの田園地帯にある駅で、昭和27年5月1日に開業しました。当時の所在地は長岡郡長岡村で、昭和31年9月30日の合併で長岡郡後免町となり、昭和34年10月1日の合併で南国市となりました。普通列車のうち、7時台の土佐山田行きは当駅を通過します。

山田西町駅

土佐長岡7:55発普通土佐山田行き714D(1023+1011+1042)で山田西町へ。土佐長岡と同時に開業した駅で、同じく7時台に通過列車があります。駅があるのは土佐山田町の住宅街で、土佐山田駅とは1㎞も離れていません。

土佐大津

山田西町8:17発普通高知行き217D(1042+1011+1023)で土佐大津へ。相対式ホームの交換可能駅で、とさでん交通舟入川対岸を走っています。駅舎はコンクリートブロック造で、おそらく昭和40年代の改築でしょう。大正14年12月5日開業時の所在地は長岡郡大津村で、昭和47年2月1日に高知市編入されました。

布師田駅

土佐大津8:43発快速高知行き5811D(9640-4)で布師田へ。昭和27年4月15日に開業した駅で、国分川に架かる橋梁の架け替えに伴い平成15年3月7日に移転して高架化されました。立派な外観の割に周辺は田園地帯でのどかな雰囲気。旧駅は土佐長岡と似たような簡素な駅で、駅南側の空き地にあったようです。当地は昭和17年6月1日に高知市編入されるまで土佐郡布師田村でした。

土佐一宮

布師田9:21発普通高知行き4219D(9640-1+1043)で土佐一宮(とさいっく)へ。「志那禰(しなね)様」として土佐の人々の信仰を集める土佐国一之宮・土佐神社の最寄り駅で、高知運転所の車両基地が布師田駅との間に設置されています。駅舎は昭和50年代頃に改築された簡易なもので、ホームは幅広の単式ホームを二つ並べた変則的な造り。大正14年12月5日開業時の所在地は土佐郡一宮村で、昭和17年6月1日に高知市編入されました。

薊野駅

土佐一宮9:53発普通伊野行き4223D(1028)で薊野(あぞうの)へ。布師田と同日、昭和27年4月15日に開業した駅で、平成13年2月27日に土佐一宮よりに100m移転して交換設備が新設されました。当地は明治の町村制で一宮村となるまでは土佐郡薊野村で、江戸時代は板垣退助の一族・乾氏の所領でした。駅近くには乾(板垣)氏歴代の墓所・板垣山があります。乾氏は武田家臣・板垣信方の孫から始まる土佐藩士で、退助の代に板垣に復姓しています。

円行寺口駅

薊野10:20発普通高知行き5853D(9640-5)と高知10:29発普通伊野行き4725D(1028)を乗り継いで円行寺口へ。高知市街にある無人駅で、昭和39年10月1日に開業しました。平成20年2月26日に高架化されています。国鉄時代は普通列車でも多くが通過していました。

入明駅

15分遅れの円行寺口10:50発普通高知行き4730D(1017)で入明へ。昭和36年12月15日に開業した駅で、円行寺口と同じく国鉄時代は普通列車でも多くが通過していました。平成20年2月26日に高架化。令和2年7月3日に「志の龍馬駅」との愛称が設定され、高架下に「志の龍馬像」が設置されました。

朝倉駅

7分遅れの入明11:09発普通須崎行き4727D(1038)で朝倉へ。高知大学朝倉キャンパスの最寄り駅で、特急「あしずり」「しまんと」の一部が停車します。昭和61年12月23日改築の駅舎はログハウス風で、「旧国鉄初のログハウスの駅」とされています。築40年近いものの、あまり古さは感じさせません。かつては駅舎内にJR四国系列のパン屋「ウィリーウィンキー」の1号店が入居していました。大正13年11月15日開業時の所在地は土佐郡朝倉村で、昭和17年6月1日に高知市編入されています。

旭駅

27分遅れの朝倉11:13発普通高知(土佐山田)行き4732D(1018+1024)で旭へ。高知学園の最寄り駅で、特急「あしずり」「しまんと」の一部が停車します。駅舎は民営化後に改装されて「ウィリーウィンキー」が入居していましたが、平成25年7月31日に閉店しています。建物のうち駅舎として使われているのは右端の一部だけで、残りは全てウィリーウィンキーの店舗でした。大正13年11月15日開業時の所在地は土佐郡旭村で、開業間もない大正14年1月1日に高知市編入されています。

高知商業前駅

旭12:04発普通窪川行き4729D(1017)で高知商業前へ。高知商業高校の最寄り駅で、道路橋との交差地点に設置されています。昭和61年11月1日に「高知商業前臨時乗降場」として開業、民営化時に常設駅となりました。駅の構造は非常に簡素で、上屋すらありませんが、道路橋が屋根の代わりを果たしてくれています。

土佐北川駅

土佐北川駅

高知商業前11:46発普通高知行き4734D(1012+1040?)と高知12:44発普通琴平行き4232D(1043+1018+1024)を乗り継いで土佐北川へ。全国的に見ても珍しい鉄橋上にある駅で、第三穴内川橋梁上に島式ホームが設置されています。昭和35年10月1日開業、昭和61年3月3日に防災のため新線に切り替えられた際に大王信号場と統合される形で現在地に移転しました。面白い駅なのでじっくりと見たいところですが、足元の悪い雨の日なので一通り撮って切り上げました。さすがに足を滑らせて川に落ちたら洒落になりませんので。当地は明治の町村制で天坪村となるまで長岡郡北川村でした。

角茂谷駅

土佐北川駅から雨の中を35分ほど歩いて角茂谷へ。穴内川沿いのわずかな平地に設けられた駅で、国道32号は対岸を通っているため、駅前はひっそりとしています。駅舎は解体され、跡地には「天坪ふれあい休憩所」という待合室が建てられています。昭和5年6月21日、土佐山田から伸びてきた高知線の終点として開業。当時の所在地は長岡郡天坪村で、明治の町村制までは長岡郡角茂谷村が存在しました。天坪村は昭和30年3月31日の合併で大豊町となっています。

繁藤駅

角茂谷15:06発普通高知行き4237D(1034)に乗り、9分の停車時間で繁藤(しげとう)駅を撮影。四国で最も標高の高い347mに位置する駅で、改装された木造駅舎が残っています。昭和5年6月21日に「天坪(あまつぼ)」として開業。当地は明治の町村制まで長岡郡四手藤村(しでとうむら)だったところで、町村制で瓶岩村(かめいわむら)の一部となるも、明治37年4月に天坪村に編入されました。天坪村は昭和30年3月31日の合併で大豊町となるも、瓶岩村から編入された地区などは昭和31年9月1日に土佐山田町編入されて今に至ります。言ってみれば「天坪駅」は本来の天坪ではなく後から編入された地区にあったわけで、昭和38年10月1日に本来の地名である「繁藤」に改称されました。

繁藤駅

昭和47年7月5日、この駅を悲劇が襲います。豪雨の影響で駅前にある追廻山の斜面が崩壊、土石流が駅と駅周辺の民家を呑みこみました。ちょうど3番線に停車中の高知発高松行き224列車(機関車牽引の客車4両)も機関車と客車1両が呑みこまれ、駅背後の穴内川にまで押し流されています。死者60名を出した繁藤災害で、土讃本線は復旧までに23日を要しました。当時の写真を見ると、繁藤駅のうち跨線橋より阿波池田側は完全に土石流に埋もれており、土石流の恐ろしさを感じるとともによくここから復旧したものだとも思わされます。土石流は上写真の左手から来て構内を埋め尽くし、ちょうど同じ場所に停まっている列車を押し流したとのことですが、半世紀も経っているのでさすがに当時を思わせるものはありません。慰霊碑は駅から少し離れた場所にあります。

新改駅

引き続き乗車し、新改(しんがい)で下車。四国に二つしかないスイッチバック駅のうち一つで、鉄道ファンには秘境駅として知られています。駅前に人家は一軒もなく、集落からも大きく離れているため、人の気配が感じられません。駅舎は古いものですが、出入口に扉が無いため、雨が吹き込んできて内部もビショビショでした。雨が降るとすぐ湿度が上がるのか、壁も黴ています。

新改駅

昭和10年11月28日に「新改(しんかい)信号場」として開業、戦時中には天然の要塞として四国軍管区司令部などが疎開してきました。戦後の昭和22年6月1日に駅に昇格して「新改(しんかい)駅」となっています。当時の所在地は長岡郡新改村で、昭和29年9月1日の合併で土佐山田町となりました。駅名の読みは昭和31年12月5日に地名に合わせて「しんがい」に変更されています。昭和45年10月1日の無人化後は駅前の商店に簡易委託されていましたが、昭和62年ごろの商店閉店で廃止となり、今は建物も壊されて跡形もありません。

新改集落

土佐電気鉄道バス 廃車体

駅から山道を15分ほど下って新改の集落へ。途中、JRの見回りの車とすれ違いました。新改川を堰き止めた休場(やすば)ダムに橋が架かっていて、向こうに酒店と廃校を改装したホテルがあります。橋の袂のT字路脇には年代物のバス廃車体が置いてありました。塗装から見るに土佐電気鉄道のもののようです。一体いつから置いてあるのでしょう。これを見るために駅から歩いてきたようなものですが、歩いた甲斐がありました。

新改駅

今度は山道を登って新改駅に戻ります。見回りは終わったようで、今度は下ってくるJRの車とすれ違いました。

豊永駅

新改16:40発普通琴平行き4240D(1020)で豊永へ。長岡郡大豊町の東の玄関口で、かつては特急も一部が停車していました。昭和62年2月改築の駅舎はログハウス風。平成22年9月1日に無人化されるまでは平日午前中のみ駅員が勤務していました。昭和9年10月28日に大杉から伸びてきた高知線の終点として開業。当時の所在地は長岡郡東豊永村で、昭和30年3月31日の合併で大豊町となりました。「大豊」は「杉」「永」の合成地名です。

大田口駅

豊永17:33発普通高知行き4245D(1010)で大田口へ。公的施設などがある比較的大きな集落にある駅で、前面だけ改装された木造駅舎が残っています。駅名の由来は徒歩30分ほどのところにある大田山豊楽寺で、日本三大薬師の一つ「柴折薬師」として知られています。昭和9年10月28日開業時の所在地は長岡郡西豊永村で、昭和30年3月31日の合併で大豊町となりました。

夜の大田口駅

日も暮れてきたのでこの日の駅巡りはここまで。18:43発普通高知行き4251D(1013)で高知へ戻り、高架下の王将で夕食を食べてから22:50発よさこい号9便に乗りこみ、関西へと帰りました。