12/27 長野電鉄屋代線廃駅巡り
湯田中に泊まった翌日は鉄研の先輩の運転する車で、平成24年に廃止された屋代線の廃駅を巡りました。
天気は生憎の雨。まずは屋代線の分岐駅だった須坂駅で駅裏手の車庫などを撮影。現役の車両のほか、引退した3500系O2編成も留置中でした。
須坂を出て一駅目の井上駅跡には説明板がまるで墓標のように立っていました。昭和47年までは有人駅でしたが、廃止時点ではホームと待合室だけの無人駅でした。
次の綿内駅は廃止まで駅舎が残っていた駅の一つで、今なお大正11(1922)年開業時に建てられた木造駅舎がバス待合室として残っています。廃止時点では駅舎内に学習塾が入居していましたが、いつの間にか撤退したようで、旧事務室は物置と化しています。窓ガラスが消失するなど荒れてきているので今後が気にかかるところです。ホームは駅舎側の1番線を除き更地と化していました。
昭和41年7月開業の若穂駅はホームと待合室だけの無人駅で、跡地はサイクリングロードに転用されています。昭和34年4月から41年10月まで存在した旧上高井郡若穂町の役場最寄り駅でした。「若穂(わかほ)」とは「綿内(わたうち)」「川田(かわた)」「保科(ほしな)」の頭文字を取った合成地名でした。
大正11年6月開業時の駅舎が廃止まで使われていた信濃川田駅は今も駅舎が残っています。現役当時は相対式ホームの交換可能駅で、側線もありましたが、今では駅舎側一番ホームのみ線路が残っています。
廃止前日(平成24年3月30日)に撮った写真と見比べてみると屋根の色が変わっているのと全体的に修繕されて綺麗になっているのが分かります。現役の頃よりも廃止されてからの方が綺麗というのはなんとも皮肉なもんです。
廃止時点では駅跡を鉄道公園として整備する計画があったことから多数の車両が保存前提で留置されていました。その後、計画が頓挫したことにより、それらの車両は他の場所へ移設保存されるなり解体されるなりの措置が取られています。解体された車両のうちモハ1003だけはカットボディが今も駅構内に置かれていますが、ずっとブルーシートを被せられたままで、今後公開されるのかどうかは不明です。
昭和26年11月に開業した大室駅は、カーブしたホームと待合室だけの無人駅でした。跡地は更地になっていますが、土地の不自然な形状でなんとなく駅のあった場所が類推できます。
かつては相対式ホームと貨物側線を持つ大きな駅だった金井山駅は、廃止時点ではホームと待合室だけの無人駅でした。駅跡は駐車場になっており、ホームの石積みが残っています。
2面3線と留置線を持つ線内最大の駅だった松代駅は、廃止まで有人駅でした。大正11年開業時に建てられた木造駅舎は綿内、信濃川田と似たデザインでしたが、一回り大きく主要駅らしい風格を見せていました。駅舎と一番ホームは残っているものの、構内は整地されて松代城址の駐車場になっています。
廃止当日の写真と比べてみると駅名表示が消えた以外はほとんど変わっていません。それにしても改めて見返してみるとすごい人出ですね。廃止当日の鉄道に乗りに行ったのはこれが最初で最後でした。
昭和9年開業の象山口駅は、昭和46年までは有人駅でした。廃止時点ではホームと待合室だけの無人駅で、駅跡は更地になっています。
山の麓にあった岩野駅も昭和47年までは有人駅でした。大正11年開業時の駅舎は無人化後に建て替えられて簡素なものに変わっていましたが、廃止後に解体されて跡形もありません。
開業時は相対式ホームの交換可能駅だった雨宮駅は平成3年まで有人駅でした。廃止時点ではホームと待合室だけの無人駅でしたが、旧ホームが残っていました。駅跡は廃止後に更地となり、「雨宮駅前駐輪場」のみが姿を留めます。更地の広さからしてかつては相当大きな駅だったようです。
民家のような駅舎で近隣住民が改札を行っていた東屋代駅は、廃止まで木造駅舎が残っていた駅のなかで唯一駅舎が解体されています。住宅街の中にひっそりとあった駅で、駅舎は跡形もありません。
しなの鉄道(旧信越本線)との接続駅だった屋代駅は、廃止時点では島式ホームの片面の5番線のみを使用していました。ホームと跨線橋、側線は残っているものの、5番線とホーム上屋は撤去されて、駅跡はセンダングサに覆われています。
屋代線廃駅巡りを終えた後は、ゆいが総本店で昼食を取ってから長野駅で他のメンバーと別れ、雪の中を善光寺へ。粉雪ちらつく中でも外国人観光客が多く参拝に来ていました。
その後、長野駅構内でしなの鉄道115系を中心に撮影をしてから23時発Willer ExpresssH5652便で帰途につきました。