7/23 真夏の西武池袋線・有楽町線・豊島線駅めぐり
この日は西武線一日フリーきっぷを使い、多摩川線を除く西武の未訪問駅を片付けました
池袋を4:58発各停小手指行き5201(2078)で出発。本数が多く駅めぐりがしやすい路線とはいえ、片付けなければいけない駅数が多いので日の出とともにめぐり始めます。
一駅目の椎名町で下車。豊島区の住宅街の中にある駅で、駅名になった椎名町の地名は既に消滅していますが、昭和23年に起きた帝銀事件の舞台になった土地でした。
駅舎は平成23年に橋上化されており、それまでは北口と南口にそれぞれ昭和61年改築の地平駅舎がありました。
椎名町5:14発各停飯能行き5105(2163)で東長崎へ。都営大江戸線の落合南長崎駅との乗り換えも可能な駅で、昭和39年2月と早期に橋上化されましたが、平成19年3月に現在の橋上駅舎に再び改築されました。橋上化に際しては退避設備の新設が行われ、相対式2面2線から島式2面4線に変化しています。
上りホーム練馬方には側線があり、保線基地として活用されています。
東長崎5:32発各停清瀬行き5851(20151)で江古田へ。大正11年1月に「武蔵高等学校用仮停留所」という通学専用駅として開業し、翌年移転して正駅に昇格した駅です。長らく島式2面4線の退避可能駅でしたが、平成20年3月に東長崎駅の退避機能が使用開始されると使用が停止され、平成22年1月の橋上化に際して相対式2面2線になりました。
駅名の読みは「えこだ」ですが、都営大江戸線の新江古田駅は「えごた」と読みが異なります。
江古田5:48発各停豊島園行き5405(20252)で桜台へ。島式1面2線の高架駅で、平成6年から9年にかけて高架化されました。相対式ホームの橋上駅と比べると撮りやすいのでありがたいです。
「桜台」の駅名は石神井川沿いや千川上水堤の桜並木が駅から近かったことから名付けられたもので、駅名が昭和11年開業時に名付けられて先行し、昭和37年に正式な地名となりました。
桜台5:59発各停石神井公園行き5601(20253)と練馬6:10発各停新木場行き6556(6109)を乗り継いで西武有楽町線に入り、新桜台へ
昭和58年10月に小竹向原から伸びてきた西武有楽町線の終点として開業した駅で、平成6年12月に延伸されるまで西武線本体とは切り離された状態でした。西武鉄道が管理する唯一の地下駅ですが、駅構造やデザインなどはメトロの駅と比べて特に違いはありません。
新桜台6:32発各停新木場行き6558(6717)で小竹向原へ。東京メトロ有楽町線との接続駅で、ほとんどの列車がそのままメトロに直通していきます。東京メトロと西武の共同使用駅ですが、駅の管理はメトロが行っており、駅名標もメトロ仕様です。
小竹向原6:41発各停石神井公園行き6601(5271)と練馬6:50発各停豊島園行き5411(2085)を乗り継いで豊島園へ。西武豊島線の終点で、昭和2年に武蔵野鉄道豊島線の豊島駅として開業し、昭和8年に改称されました。としまえん遊園地の最寄り駅でしたが、令和2年8月末で閉園。跡地にはハリーポッターのテーマパークがつくられるとのことなので、再び遊園地最寄り駅として賑わう日が来ることでしょう。
駅自体は頭端式1面2線といういかにも終着駅らしい造りです。
豊島園7:03発各停池袋行き5414(2086)で折り返し練馬へ。練馬駅自体は以前に訪問済みですが、西口を撮ったことが無かったのでこの機に撮影。
練馬7:14発各停清瀬行き5853(20152)で中村橋へ。複々線区間の内側にある島式1面2線の駅で、外側を優等列車が通過していきます。駅舎は平成9年に高架化されたもので、地平時代の旧駅舎を模した飾りが取り付けられています。
中村橋7:25発各停石神井公園行き6301(2085)で富士見台へ。大正14年3月に「貫井」として開業し、昭和8年に改称されました。中村橋と同じく外側に通過線がある高架駅で、南口駅前にはエキナカ商業施設「Emio富士見台」が設けられています。
富士見台7:37発各停小手指行き5209(2085)で練馬高野台へ。平成6年12月の高架・複々線化に合わせて開業した、西武線で最も新しい駅で、計画時の仮称は「東石神井」でした。平成13年から24年までの間、当駅折り返しの列車が設定されていましたが、石神井公園までの複々線区間延長で廃止されました。
練馬高野台7:56発各停小手指行き5211(38213)で石神井公園へ。複々線区間の終端で、折り返し列車も多数設定されている運行拠点駅です。2面4線の高架駅で、上り線は平成22年、下り線は23年に高架化されました。高架下および駅前の商業施設も充実しており、郊外の一大拠点と言ったような雰囲気。
石神井公園8:09発各停小手指行き6803(6403)で大泉学園へ。駅名だけ聞くと同名の学園の最寄り駅のようですが、「大泉学園」という学園はなく、箱根土地が学園都市として開発しようとしたものの学校を誘致できずに終わった歴史を伝える駅名になっています。学園都市は実現しませんでしたが、周辺には東映東京製作所やアニメ制作会社などが集中しています。松本零士氏が練馬区在住という縁からか、発車メロディは「銀河鉄道999」
大泉学園8:20発準急所沢行き4801(4206)で保谷へ。当駅でようやく23区を抜けて西東京市に入ります。平成13年1月に田無市と合併して西東京市となった保谷市の代表駅です。昭和39年と早期に橋上化され、平成3年に現在の橋上駅舎に改築、その後も各部の増値改築や改良が行われています。所沢方に電留線が設置されており、一部列車が折り返すほか、乗務員交代も行われます。
保谷8:38発各停小手指行き6805(10034)で訪問済みのひばりが丘を飛ばして東久留米へ。東久留米市の代表駅で、平成6年に橋上化。平成11年には関東の駅百選に選定されました。橋上化後も北口には昭和24年に建てられた木造駅舎が残されていましたが、平成22年1月に解体されました。この旧駅舎は漫画「めぞん一刻」に登場する時計坂駅のモデルで、解体前にはイベントで駅名標が一時的に「時計坂」に変更されたことがありました。
東久留米9:16発各停所沢行き5301(2189)で清瀬へ。清瀬市の代表駅で、折り返し列車も設定されています。駅舎は昭和46年に橋上化されたもので、今年で築50年。さすがにくたびれてきています。構内は島式2面4線。
清瀬9:27発各停飯能行き5107(2077)で秋津へ。東村山市・所沢市・清瀬市に跨る都県境の駅で、武蔵野線新秋津駅に近接しています。かつては島式1面2線の駅でしたが、昭和49年の改良で相対式2面2線に変更、平成2年には北口が開設されています。橋上駅が多い池袋線にあっては珍しく、改札口はホームに面した地平にあります。
秋津9:52発各停小手指行き5213(20152)に乗車し、次は小手指で降りて飯能行きに乗り換えようと予定していましたが、西所沢で赤電塗装の新101系が停車しているのが見えたので急遽下車。いよいよ全廃が見えてきた新101系、撮れるうちに撮っておかないといけません。
この後、10:10発各停飯能行き4117(40301)で飯能へ。飯能からは秩父方面行きに乗車しました。
6/19 雨の静岡をちょっとだけ歩く
6月のある日、所要で西へ向かう途中、新幹線を静岡で途中下車して少しだけ散策しました。品川9:10発ひかり505号岡山行き(783-2061)から下車。のぞみこそ停まらないものの、県庁所在駅だけあって東海道新幹線の中ではメジャーな方に入る駅ですが、これまで降りる機会に恵まれませんでした。
南口駅前に出て見ると、貸切表示の静鉄バスのブルーリボンが停車中。「静岡競輪場ファンバス」の貼り紙がしてあり、競輪場への送迎バスだったようです。車内にはおじいさんばかり乗っているのが見えました。
続いて北口へ。北口駅ビル「パルシェ」は昭和56年10月8日オープンで、今年で40周年。新耐震基準で建てられているとはいえ、そろそろ建て替えが気になる築年です。
周辺散策へ。途中、静岡鉄道の踏切でやってくる列車を撮ろうとしたら見事にブレました。まあ1000形じゃなくてA3000形だったのでショックはそれほど大きくありません。
少し歩き、とある小学校の前へ。Twitterで写真を見かけて気になっていた洋館が取り壊されずにまだ残っていました。空き家になって久しいようで、以前は木が生い茂っていましたが、切り倒されて全体が見えるようになりました。この手の建物はいつ解体されても不思議ではないので、目にしっかり焼き付けておきます。
静岡城跡の一角に建てられている静岡市民文化会館。市制施行90周年を記念して昭和50年12月21日起工、53年11月3日開館。築40年を過ぎて老朽化や耐震性、バリアフリー面が問題となっており、大規模改修が計画されています。
聖堂は昭和20年の空襲で焼失し、昭和24年に再建されたものです。空襲被害にあった都市では当然のことながら戦前から残っている建物が少なく、古そうな建物だと思って後から調べると戦後築だったということがよくあります。とはいえ戦後の建物でも築70年近かったりするので、もはや戦前・戦後で建物の価値を判断するのはナンセンスかもしれません。
こちらも教会ですが、いかにも戦後の建物らしいモダンなデザイン。昭和33年12月5日に献堂されたもので、設計:田中真雄 施工:竹中工務店
昭和25年に英和女学院の宣教師館として建てられたもので、設計はかのウィリアム・メレル・ヴォーリズ。貴重な戦後のヴォーリズ作品です。
戦後に建てられたという看板建築の銭湯。銭湯と言うとまず想像されるのは寺社仏閣のような和風建築ですが、こちらは洋風。
天神湯があるのは浅間神社の参道で、突き当りにある鳥居と組み合わせて撮ると実に絵になります。
現在は眼科として使われている洋館。明治20年代に建てられた茶貿易商住宅とのことで、この界隈では断トツに古そうです。
昭和12年に建てられた、迫力ある庁舎。やはり戦前の庁舎は堂々とした感じで重厚感があっていいですね。次来る時は中を見てみたいものです。
県庁と向かい合うように建つ市役所。こちらの方が少し古く、昭和9年。尖塔のあるファザードが見事です。
雨だったので足早に散策して、12:07発ひかり509号岡山行き(783-2064)で静岡を後にしました。
5/23 武豊線・東海道本線駅めぐり
2カ月以上経ってしまいましたが、5月下旬、もうすぐ役目を終える半田駅の跨線橋と駅舎を見るついでに中京地区の駅を巡ってきました。
22:20に東京駅鍛冶橋駐車場を出発した東名特急ニュースター号OB005が名古屋駅に到着したのは定刻より少し早い早朝5:05
名古屋から5:29発普通豊橋行き3100F(クモハ313-1113)に乗車し、大府で5:54発普通武豊行き3600F(クモハ311-4)に乗り換えて半田へ
「日本最古」の跨線橋が役目を終えることが報道されていたこともあり、こんな早い時間で既に同業者が一人いました。最終日はかなり人が集まったようですし、早朝に来たのは正解だったようです。跨線橋なんて普段は鉄道ファンからすら見向きもされないものですが、やはり「日本最古」のものが引退するとなれば注目を集めるようです
こちらが日本最古の跨線橋。明治43(1910)年11月に完成したもので、御年110歳。十分歴史的価値があるもので、引退後は移設保存される予定です。しかし単に「日本最古」と言うわけではなく正確には「建設当初から同じ場所に存在する跨線橋の中で現役最古」とのこと。
移設されたものを含めれば山陰本線大田市駅のものが日本最古とされており、明治23(1890)年の銘板が設置されています。半田駅のものより20年古く、鉄道省よりさらに前の帝国鉄道庁時代のものです。大田市駅の開業は大正4(1915)年7月ですが、跨線橋が現在地に移設された時期や、どこから移設されたものかは不明です。
話を半田駅に戻しましょう。跨線橋と同時に引退する駅舎は大正11(1922)年9月に建てられたもの。築百年を目の前にしての引退となりますが、何度か改装されているため、デザインから古さは感じられません。しかし、柱などの細部は歴史を感じさせる造りでした。高架化工事の進展に伴い、6月6日より仮駅舎に移行し、その後解体されました。
半田6:49発普通武豊行き3602F(クモハ313-1108)で武豊へ。武豊線の終着駅で、昭和40年までこの先武豊港まで線路が伸びていました。駅舎は妻面に出入口があるもので、財産標によれば大正11年3月築ですが、昭和8年5月築という説もあります。
駅前には昭和28年の台風による高潮の際、列車を守って殉職した駅員、高橋煕さんの胸像が建てられています。
武豊7:15発区間快速名古屋行き5807F(クハ312-415)で東成岩へ。製鉄工場に隣接した立地の小さな駅で、昭和19年11月に建てられた駅舎は片流れ屋根の変わった形をしています。
東成岩7:34発区間快速名古屋行き5809F(クハ312-1318)で乙川へ。昭和8年、東成岩と同時に開業した駅で、平成18年3月に簡易駅舎に改築されています。駅舎は当初吹きっさらしでしたが、後から左手の壁が増築されたようです。電化されたものの名鉄知多線の駅と比べると本数も少なく、のどかな雰囲気が漂っています。
乙川7:54発区間快速名古屋行き5811F(モハ313-1103)で東浦へ。知多郡東浦町の玄関口ですが、平成25年に無人化されています。駅舎は昭和22年10月改築の木造駅舎で、線内の他の無人駅と比べると待合室は広めです。
東浦8:16発普通武豊行き3610F(モハ310-4)で亀崎へ。明治19(1886)年3月開業時に建てられたとされる、現役最古の木造駅舎が残る駅です。しかし、明治28(1895)年3月7日の火災で焼失したとする説もあり、その場合は明治22年築の土讃線善通寺駅が現役最古の駅舎となります。改装されていた半田駅と違って外壁が板張りのまま残されているので、最古の駅舎にふさわしい雰囲気はありますが、内部はかなり改装されています。
亀崎8:29発区間快速名古屋行き5813F(クハ312-12)で石浜へ。昭和32年4月に開業した、武豊線で最も新しい駅で、元は片面ホームだけの棒線駅でしたが、平成元年にホームが増設されました。駅裏手には開放的な田園地帯が広がっています。
石浜9:06発区間快速名古屋行き5815F(クハ310-4)で緒川へ。東浦町役場とイオンモール東浦の最寄り駅で、武豊線内の駅では最も賑わいを見せています。平成7年5月に線内では唯一高架化されており、雰囲気も都会的ですが、平成25年に無人化されています。
緒川9:48発区間快速名古屋行き5817F(クハ312-415)で尾張森岡へ。片面ホームだけの棒線駅で、武豊線内では最も利用者数が少ない駅です。線路を挟んで東側は田んぼが広がっていますが、西側は住宅街です。田んぼの向こうには刈谷かどこかのマンションが聳えています。
大府は既に訪問済み(亀崎は再訪)なので、武豊線はこれにて全駅制覇。後は東海道本線の駅を巡っていきます。
尾張森岡10:21発区間快速名古屋行き5819F(クハ312-410)と大府10:31発新快速豊橋行き5318F(クモハ313-1)、蒲郡11:00発普通豊橋行き3122F(クモハ313-11)を乗り継いで西小坂井へ。
昭和20年6月に軍需工場への引込線が分岐する西伊奈信号場として開業し、23年8月に昇格した駅で、平成22年に豊川市に編入された旧宝飯郡小坂井町に位置します。駅舎は昇格時に建てられたもので、民営化後に改装されています。
西小坂井11:39発普通岐阜行き3131F(サハ311-2)で三河大塚へ。昭和28年7月に海水浴客のための季節駅として開業し、35年3月に常設化された駅で、駅名は昭和35年に分割編入で消滅した旧宝飯郡大塚村に由来します。駅舎は平成17年7月改築の3代目で、地形の都合でホームは駅舎より高い所にあります。ラグーナ蒲郡の最寄り駅で、イベント時にのみ開設される臨時改札口があります。
三河三谷12:16発普通岐阜行き3133F(クハ312-420)で三河三谷へ。三谷温泉の最寄り駅で、新快速も一部が停車します。駅舎は昭和4年7月開業時のものですが、平成2年に改装されています。かつてはキオスクもありましたが撤退し、駅も平成29年10月から無人化されています。
三河三谷12:50発普通岐阜行き3135F(クハ310-14)で三河塩津へ。民営化後の昭和63年11月に開業した駅で、名鉄蒲郡線の蒲郡競艇場前駅が隣接しています。橋上駅舎は簡素なデザインで、国鉄~JR初期に多く建てられたタイプですが、今となっては増改築ですっかり貴重になりました。しかし、バリアフリーの観点からは課題が多いので何かしら手を打った方が良いと思われます。
三河塩津13:25発普通岐阜行き3137F(クハ310-9)で三ヶ根へ。昭和42年3月、地元の請願と費用負担によって開業した駅で、駅名は三ヶ根山に由来します。駅舎は開業時からの橋上駅舎で、築50年を過ぎた今となってはすっかりレトロさを感じさせます。しかし、無人駅なので簡易駅舎に改築して駅前から直接ホームに入れるようにした方が便利なのではと思わないでもありません。
三ヶ根13:58発普通岐阜行き3139F(クモハ313-310)で幸田へ。額田郡幸田町の玄関口で、明治39年に芦谷信号所として開業し、明治41年に一般駅に昇格しました。昇格時の所在地は額田郡広田(こうだ)村でしたが、広田駅(現:磐越西線)が既に存在していたことから、「幸田」の字が当てられ、村名が駅名に合わせて改称されました。駅舎は昭和28年8月に改築されたものです。
幸田14:31発普通岐阜行き3141F(クハ310-10)で相見へ。平成24年3月に開業した新しい駅で、立派な橋上駅舎が設けられていますが、平成29年に早くも無人化されており、勿体ない気がします。駅名は幸田町(←広田村)の前身の一つで、明治39年5月まで存在した相見村に由来します。
相見15:04発普通岐阜行き3143F(クハ310-13)で西岡崎へ。民営化後の昭和63年3月に開業した駅で、令和2年12月に無人化されています。同じJR化後に開業した駅でもしっかりとした造りの相見とは違って、簡素な造りの橋上駅です。
西岡崎15:36発普通岐阜行き3343F(クハ312-411)で東刈谷へ。昭和41年12月に開業した駅で、地元は旧村名にちなんで「依佐美(よさみ)」を要望していましたが、誤読の恐れがあるとして却下され、次に要望された「野田」についても重複を理由に却下されて「東刈谷」という無難でありきたりな駅名になりました。しかし、「野田」については40年後、隣に開業する野田新町駅に採用されています。
橋上駅舎は開業時からのもので、原型は三ヶ根と似たような感じでしたが、増改築によってすっかり別物になっています。
東刈谷15:57発普通岐阜行き3145F(クハ312-12)で野田新町へ。刈谷市の請願と費用負担によって平成19年3月に開業した駅で、駅名は旧碧海郡野田村に由来します。ここも立派な駅舎を令和2年12月の無人化で持て余しており、実に勿体ない感じです。
野田新町16:18発普通岐阜行き3345F(クハ312-304)で逢妻へ。昭和63年3月に開業した駅で、駅名はそばを流れる逢妻川に由来します。当地には、明治22年から39年まで17年間だけ碧海郡逢妻村が存在していました。逢妻川については、在原業平がかきつばた姫と川を隔てて出会ったという伝承がありますが、あまりによくできた話なので、伊勢物語にちなんだ後世の創作でしょう。
逢妻16:42発普通岐阜行き3147F(サハ311-6)で共和へ。昭和8年12月にガソリンカー専用の簡易停車場として開業し、戦時中の休止を経て戦後復活した駅で、昭和47年と早期に橋上化されています。駅名は明治9年から町村制を経て39年まで存在した旧知多郡共和村に由来しており、村々の合併時に連帯意識の醸成と相互協調の願いを込めて命名されました。
共和17:05発普通岐阜行き3347F(クハ312-16)で南大高へ。この駅から名古屋市内に入ります。平成21年3月に開業した駅で、西口駅前にはイオンモールがありますが、東口駅前は道路を挟んで新幹線の築堤があるだけで建物はほとんどありません。
南大高17:21発普通岐阜行き3149F(クハ310-12)で大高へ。明治19年3月、官設鉄道の武豊~熱田間開業時に開設されたという古い歴史を持つ駅で、駅名は昭和39年4月に名古屋市緑区に編入された知多郡大高町(←大高村)に由来します。新幹線建設に伴い、昭和37年5月には名古屋鉄道管理局管内では初の橋上駅舎が建てられましたが、高架化工事のため昭和49年3月に仮駅舎に移転したため短命に終わりました。昭和53年4月に現在の高架駅になりましたが、東側を新幹線が並走しているため、出口は西側にしかありません。
大高17:40発普通岐阜行き3151F(クハ312-11)で笠寺へ。戦時中に設置された仮信号場から昇格した駅で、名古屋臨海鉄道も乗り入れています。かつての駅舎は新幹線の高架下に設けられていましたが、昭和63年4月に橋上化され、東口は新幹線高架下にありますが、西口はペデストリアンデッキで名古屋市総合体育館に直結しています。
笠寺17:57発普通岐阜行き3349F(クハ312-410)で熱田へ。明治19年3月に武豊から伸びてきた官設鉄道の終点として開業し、熱田宿や熱田港に近い立地で当初は名古屋の玄関口として賑わいを見せました。明治29年9月、熱田神宮に近い現在地に移転し、空襲と再建を経て昭和57年10月に4代目となる現駅舎に改築されました。今でも熱田神宮の最寄り駅ですが、名古屋駅や金山駅にターミナルとしての座を奪われ、今では重厚な駅の造りだけがかつての隆盛を伝えています。
熱田18:17発普通岐阜行き3153F(クハ312-420)で尾頭橋へ。平成7年3月に開業した高架駅で、中央本線との重複区間にありますが、中央本線にはホームが設置されていません。場外馬券売場「ウィンズ名古屋」の最寄り駅で、開設に当たってはJRAが費用の多くを負担しています。
キリのいいところまで来たのでこの日の駅めぐりはこれで終了。とは言っても夜行バスに乗るまでかなり時間があるので、尾頭橋18:37発普通岐阜行き3351F(クハ312-413)で岐阜へ。
ホーム上で弁当を食べてから、岐阜19:45発普通美濃太田行き3737D(キハ75-1203+キハ75-1303+キハ75-3306)、美濃太田20:29発普通多治見行き3364C(キハ75-3403+キハ75-3503)、多治見21:05発快速中津川行き5761M(クモハ313-1328)と乗り継ぎ。
中津川まで行くと帰ってこれないので、美乃坂本で下車し、21:40発普通名古屋行き3712M(クモハ211-5002)で名古屋へ戻りました。
5/6 遠州鉄道駅めぐり
遠州鉄道の終点で、天竜浜名湖鉄道(旧:二俣線)との接続駅である西鹿島は、二俣線建設に伴って昭和13年に現在地に移転した駅です。明治42年開業時の駅名は「鹿島」で、大正12年に「遠州二俣」に改称されました。
現在の洋風駅舎は昭和54年改築で、平成12年には中部の駅百選に選定されました。構内には車両基地が併設されています。
西鹿島14:00発新浜松行き84(2004)で遠州岩水寺へ。天浜線岩水寺駅との混同を避けるために正式名称では「遠州」を冠していますが、駅名標や放送、路線図などでは「遠州」が冠されていません。ログハウス風の駅舎を持つ駅で、平成14年には第4回中部の駅百選に選定されています。平成24年には東口が新設されました。
遠州岩水寺14:14発新浜松行き86(2005)で遠州芝本へ。こちらも駅名標などでは「遠州」が省略されています。かつては棒線駅でしたが、平成2年12月に現在地に移転して1面2線化されました。線路に挟まれた狭いスペースに無理やり造ったような手狭な駅です。
遠州芝本14:28発新浜松行き88(2003)で遠州小林へ。こちらも線路に挟まれた立地の駅で、平成20年に駅舎とホームが改築されてバリアフリー化されました。駅自体は手狭ですが、駅前にはロータリーも設けられています。
遠州小林14:42発新浜松行き90(2007)で美薗中央公園へ。遠鉄線内では数少ない棒線駅で、その名の通り美薗中央公園の最寄り駅です。昭和26年4月に「北浜」として開業し、昭和52年8月に「北浜中学校前」に改称、平成19年8月に現在の駅名になりました。
訪問時は遠足の園児たちがいて駅を撮りづらい雰囲気でしたが、下り列車に乗っていなくなった一瞬を狙ってホームを撮影しました。
美薗中央公園14:56発新浜松行き92(1005)で浜北へ。平成17年に浜松市に編入された旧浜北市の代表駅で、線内でも屈指の利用者数を誇ります。
明治42年開業時の駅名は「貴布禰(きぶね)」で、大正12年に「遠州貴布禰」に改称され、昭和52年に現在の駅名になりました。昭和52年改称時に2階建ての駅ビルが建てられましたが、平成15年12月に現在のコンパクトな駅舎に改築されました。
浜北15:10発新浜松行き94(2008)で遠州小松へ。戦時中の2カ月間だけ、遠州鉄道の重役室と総務部が駅前に疎開してきたこともあるという歴史を持つ駅で、昭和54年6月改築の駅舎は大手私鉄の郊外駅にありそうな雰囲気です。駅前には中部電力小松発電所があります。
遠州小松15:24発新浜松行き96(2004)で遠州西ヶ崎へ。昭和52年までは車両基地が併設されていた駅で、今も鉄道営業所が併設されています。浜松電気鉄道時代の昭和19年までは総延長2.4㎞の笠井線が分岐していました。
西鹿島方には留置線があり、ED28 2とホキ800形からなる保線列車が待機しています。ED28 2は大正14年にイギリスのイングリッシュ・エレクトリック社から輸入された豊川鉄道電機51形が前身で、国有化後にED28 2に改番されて昭和34年に廃車となり、遠州鉄道に譲渡されました。ちなみに兄弟とも言うべきED28 1(鳳来寺鉄道デキ50)は近江鉄道を経て山形交通高畠線でED2として昭和49年まで活躍していました。
遠州西ヶ崎15:38発新浜松行き98(2005)で積志へ。明治42年に「松木」として開業した駅で、遠州松木を経て昭和37年に現在の駅名となりました。積志の地名は、明治8年に産業振興のために設立された「積志講社(積志銀行)」に由来しており、明治41年の3村合併時に「富を積むため同じ志を持てるように」と命名されました。旧浜名郡積志村は、昭和32年に浜松市に編入されています。
積志15:52発新浜松行き100(2003)でさぎの宮へ。線内では珍しい地下通路を持つ駅ですが、それ故に段差が多くバリアフリーの観点ではよろしくなさそうな駅です。
明治42年に「共同」として開業し、「遠州共同」を経て昭和41年に現在の駅名になり、昭和47年10月に現在地に移転しました。共同という珍しい駅名の由来については、2つの地区の境界に設けられ「共同で使う駅」として設置されたからという説、2つの地区が共同で請願したからという説、2つの地区が積志講社で共同で設置費用を積み立てたからという説があります。
さぎの宮16:06発新浜松行き102(2007)で自動車学校前へ。遠鉄系列の遠州自動車学校が併設された駅で、マンションの1階に駅舎が入居しています。開業時の駅名は「市場」で、「遠州市場」を経て昭和41年に現在の駅名になりました。自動車学校の用地は元々、貨物ターミナル建設のために取得されたものでしたが、モータリゼーションによってその計画が頓挫したため、当時では珍しかった自動車学校がつくられました。
自動車学校前16:20発新浜松行き104(1005)で上島へ。平成24年11月に高架化された駅で、地平駅時代は西ヶ崎と同型の駅舎がありました。高架化を含む駅周辺土地区画整理事業については、反対する地権者が事業計画中止を求めて裁判を起こしましたが、地権者側が敗訴しています。
上島16:34発新浜松行き106(2008)で曳馬へ。平成24年11月の高架化と同時に「遠州曳馬」から改称された駅で、開業時は「島ノ郷」を名乗っていました。「曳馬(引馬)」とは遠江地方の古名で、昭和11年までは浜名郡曳馬町が存在していました。
高架化前の駅は1面1線のホームがあるだけの棒線駅でした。
曳馬16:48発新浜松行き108(2004)で助信へ。平成24年11月の高架化と同時に「遠州助信」から改称されました。高架化前は昭和60年改築の3階建て駅舎があり、現在地とは交差点を挟んだ南側に位置していました。
助信17:02発新浜松行き110(2005)で八幡へ。昭和60年12月の高架化時に「遠州八幡」から改称された駅で、駅名は浜松八幡宮にちなんでいます。昭和3年に臨時駅「繭市場前」として開業し、翌年に正駅昇格、昭和26年に「遠州八幡」に改称されています。
浜松が世界に誇るヤマハ本社の最寄り駅で、本社はかつての繭市場の跡に建てられています。
八幡17:16発新浜松行き112(2003)で遠州病院へ。昭和33年に二俣電車線の「遠州浜松」と奥山線の「東田町」という2路線のターミナル駅を統合して誕生した「遠鉄浜松」駅が前身で、昭和60年12月高架化時に移転して「遠州病院前」に改称されました。遠州病院の移転によって平成19年に現駅名に改称されています。
遠州病院17:30発新浜松行き114(2007)で第一通りへ。昭和60年12月の高架新線開業時に新設された駅で、線内では珍しい1面1線の棒線駅です。遠州病院駅とはわずか300mしか離れていません。静岡県最大の都市・浜松市の中心市街地の中にあります。
第一通り17:43発新浜松行き116(1005)で新浜松へ。遠州鉄道のターミナル駅で、2面2線の高架駅ですが、2番線は基本的に使用されず、留置線代わりになっています。昭和2年に「旭町」として開業した、高架化前の旧駅は現在のアクトシティ浜松の辺りにありました。新浜松と遠鉄浜松の間にあった遠州馬込駅は高架化に伴うルート変更で廃止されています。
浜松からは18:17発ひかり516号516A(783-2025)と品川19:41発山手線外回り1821G(サハE235-10)を乗り継いで帰宅しました。
5/6 天竜浜名湖鉄道天浜線駅めぐり
GWの帰省を終えて東京へ向かう途中、遠州鉄道と天竜浜名湖鉄道を訪れました。
宝塚5:37発普通京都行き1102C(クハ207-14)と新大阪6:24発のぞみ80号80A(783-1049)、名古屋7:17発ひかり634号634A(783-1006)を乗り継いで浜松へ
お目当ての遠州鉄道は浜松駅北側の新浜松駅から出ています。昭和60年に移転して高架化された新浜松駅は百貨店も併設されたターミナル駅で、大手私鉄と比べても遜色ありません。
新浜松8:00発西鹿島行き17(2108)と西鹿島8:35発新所原行き111(TH2113)を乗り継いで金指へ。平成17年に浜松市に編入された旧引佐郡引佐町唯一の駅で、昭和28年までの所在地は引佐郡金指町でした。駅舎は昭和13年4月開業時に建てられたものですが、手前に2階建ての建物が増築されて見えづらくなっています。
駅から5分ほど歩いて奥山線金指跨線橋跡へ。昭和39年に廃止された遠州鉄道奥山線は、金指駅の西方で二俣線(現:天浜線)を陸橋で跨いでいました。このような立体交差の場合、後から開業した方が先に開業した方を跨ぐのが普通ですが、二俣線が東海道本線の迂回路として建設されたという経緯ゆえに奥山線の方が二俣線を跨ぐことになりました。奥山線廃止後もこの陸橋だけは奥山線最大の遺構として残り続けてきましたが、金指西バイパス建設のためGW明けより撤去されることになりました。
せっかくなので列車と絡めて撮ってみましたが、ローカル線とはいえ思いのほか速く、こんな写真に。撤去が新聞で報じられたこともあってか、他にも撮りに来ている方がおられました。
跨線橋を撮った後は金指駅に戻り、列車の時間までホーム上屋などを見学。金指駅の貯水槽、ホーム、上屋はいずれも平成23年1月に登録有形文化財に登録されています。駅舎だけ登録されなかったのは増築されているからでしょう。
金指10:21発掛川行き124(TH2108)で宮口へ。昭和31年の浜北町(→浜北市)成立まで存在した旧引佐郡麁玉村の駅で、昭和15年6月開業時の木造駅舎が残っています。駅舎の旧事務室部分には昨年12月12日に持ち帰り餃子専門店「山田幸之助」がオープン。訪問時は準備中でしたが、駅舎を撮っているとお店の方が出てこられ、入口引き戸の片方だけが固定されて埋め込まれていることなど教えてくれました。
築80年の駅舎が雰囲気を残しつつも大事にされて第二の人生を歩んでいる様子はいいものだと感じます。
宮口10:59発新所原行き121(TH2101)でフルーツパークへ。平成8年3月に開業した比較的新しい駅で、はままつフルーツパーク時之栖の最寄り駅です。田園地帯を見下ろす高台に位置し、駅裏には果樹園もあります。
フルーツパーク11:23発掛川行き126(TH2113)で岩水寺へ。天竜川の龍神を祀る岩水寺の最寄り駅で、昭和15年開業時から残るホームと上屋は登録有形文化財です。
かつては宮口と同じような木造駅舎がありました。残っていればこちらも文化財になったことでしょうね。
岩水寺11:54発新所原行き125(TH9200)で都田へ。昭和30年に浜松市に編入された旧引佐郡都田村の駅で、昭和15年6月開業時の駅舎は喫茶店として改装されています。原型は宮口と同じような形だったようですが、屋根など一部に面影を留める程度。この改装は平成27年にグッドデザイン賞を受賞しています。
都田12:19発掛川行き128(TH2103)で二俣本町へ。平成17年に浜松市に編入された旧天竜市(←S33二俣町)の中心近くにある駅で、昭和31年12月開業時の駅舎は一日一組限定の宿として活用されています。ホームは駅舎より一段高い所にあり、ホーム上にも待合室が設置されています。
二俣本町12:50発新所原行き327(TH2105)で常葉大学前へ。転換翌年の昭和63年3月に「浜松大学前」として開業した、片面ホームだけの簡素な駅です。浜松大学は平成25年に常葉大学に統合されて浜松キャンパスとなり、駅名もそれに合わせて改称されています。駅周辺には大学以外何もないと言ってよく、周囲には田園地帯が広がっています。
常葉大学前12:17発掛川行き128(TH2101)で西鹿島へ。天浜線ホームは1面1線で、遠鉄の駅の裏にひっそりと存在するかのようです。
5/1 帰省ついでに米原市の3庁舎を見る
お久しぶりです。前回からだいぶ間が空いてしまいましたが、今回はGWの帰省ついでの庁舎めぐりの様子をお届けします。
高田馬場を5:53発山手線内回り0504G(サハE235-3)で出発し、品川で6:34発ひかり631号新大阪行き631A(783-1015)に乗り換えて米原へ。この日は富士山が綺麗に見えました。
米原9:18発特別快速豊橋行き5110F(クハ313-12)で近江長岡へ。平成26年12月28日以来6年半ぶりの訪問です。昭和36年3月改築の駅舎は左手の石をはめ込んだ壁が個性的。いわゆる国鉄モダニズム駅舎の典型で、今年で築60年になりますが、まだまだ頑張ってほしいものです。
近江長岡駅9:45発の伊吹登山口行きバスで伊吹庁舎前へ。旧伊吹町役場を転用した米原市役所伊吹庁舎は、鉄道からはかなり離れたところにあります。
こちらがお目当ての伊吹庁舎。定礎によれば昭和33年4月完工、昭和55年2月改築。さらに平成13年4月にも増築が行われています。手前が昭和33年に建てられた部分で、階段室の塔屋や窓の形が古さを感じさせます。5月6日からの新庁舎への統合を前に、4月30日で業務を終了したようで、「米原市役所伊吹庁舎」の表記は早くも剥がされていました。
伊吹山を擁することからその名がついた伊吹町は、平成17年2月に米原町・山東町と合併して米原市となっています。ちなみに伊吹町はあの尾木ママの出身地だそうです。
同じ敷地内にある別館もなかなか年季の入った建物です。コンクリート打ち放しのため余計に古そうに見えます。
本館の方は、新庁舎への統合後も当面は地域自治センターが残されるとのことですが、老朽化や耐震性の問題を考えるとそのうち解体されることになりそうです。
伊吹庁舎前10:07発のバスで近江長岡駅へ戻り、10:31発特別快速米原行き5111F(クハ312-5016)と米原11:01発新快速近江塩津行き3432M(クモハ223-3008)を乗り継いで坂田へ。相対式ホームの簡素な駅で、平成3年9月に現在地に移転しました。駅前に「近江母の郷コミュニティハウス」という合築駅舎が建てられています。
坂田駅から15分歩いて近江庁舎へ。平成17年10月に米原市に編入された近江町の旧役場です。左手の少し奥まった部分が昭和38年3月竣工、「米原市近江自治センター」と掲げられた部分が昭和57年3月増築、それらの間の色が違う出っ張った部分が平成14年3月増築です。こちらも新庁舎への統合により、4月30日限りで業務を終了しました。
こちらは昭和57年増築部分の方が面積的には大きいですが、増築部分とはいえ築40年近いので、いずれは地域自治センターとしての規模に見合った小ぶりな建物に建て替えられるのかもしれません。
近江庁舎を見た後は歩いて米原駅へ。途中、箕浦という集落を通りましたが、いい雰囲気の瓦屋根の街並みでした。
天野川を渡って国道に出、しばらく行くと道沿いにバスの廃車体が2台放置されています。東海道本線の車内からも一瞬見える廃車体で、ずっと気になっていたのですが、ようやく近くで見ることが出来ました。国道沿いで目につきやすいのか落書きの被害を受けています。
もう一台は草に遮られて近付けませんでしたが、「近江町」の文字が見えるあたり、公用車だったようです。児童の送迎にでも使われていたのでしょうか?こちらも自然に還りつつあります。
米原駅からまた列車に乗る前に駅前の新庁舎を撮影。5月6日開庁の新庁舎は山下設計によるもので、米原・伊吹・山東・近江の4庁舎に分散していた機能を集約しているためかなり大きなものになりました。新幹線も停車する市の市役所として遜色のない立派なものです。
ちなみにかつての米原庁舎はこんな感じでした(R2-6-4撮影)。こちらも新庁舎への統合で役目を終えました。昭和45年9月竣工の旧米原町役場です。
合併前の町名は「まいはら」でしたが、駅名が「まいばら」として有名になったので合併時にそちらに合わせて読みも変更されています。しかし大字の方は変更されていないので、読みは「米原市米原(まいばらしまいはら)」となります。
近江牛大入飯を買ってから米原12:20発新快速姫路行き3263M(クハ222-1005)に乗車。尼崎で4分遅れの13:52発普通宝塚行き1163C(クハ206-2015)に乗り換えて宝塚へと帰りました。
4/22 十勝・石狩をドライブ
北海道ドライブ4日目は最終日。十勝をドライブしてから日勝峠を越えました。
帯広駅前でバスを撮影してからまずは上士幌の営林署へ。タウシュベツ川橋梁への林道の鍵を借りようとしましたが、貸出開始は来週4/26からとのことでした。仕方ないので国道から近い展望台から見るだけに留めました。
糠平ダム建設に伴う路線付け替えで昭和30年に建設された五の沢橋梁。長さ7mの小さなアーチ橋です。頑張れば近付くこともできそうですが、億劫なので国道側から眺めるに留めました。
三の沢橋梁も昭和30年完成。長さ40mの立派なアーチ橋で上を歩いて渡ることができます。湖岸に降りれる階段があったので降りて下から全体像を撮影してみました。
水のない糠平湖は荒涼とした湖底を晒していました。遠くにはタウシュベツ川橋梁が見えます。まるで南米かどこかの荒原のような光景。
第四音更川橋梁は昭和11年完成。ダム建設で昭和30年に廃止となった旧線の、長さ36mの橋で中央部はガーターでしたが、廃止後に撤去されています。
この近くからは付け替え後の新線の廃線跡も見えるのですが、あまりに高い所を走っているのでどうやってあんなところに鉄道を建設したのだろうかと思ってしまいます。
続いて電力所前仮乗降場跡へ行こうとしましたが、下調べが足りなかったので到達できませんでした。糠平発電所の職員や家族の暮らしていた社宅の便を図るために開設された仮乗降場でしたが、下り勾配上にあって勾配を上っていく列車が発進できないことから帯広行き列車のみ停車していました。昭和53年に社宅が移転すると無人地帯となりましたが、昭和62年の路線廃止まで列車は発着していたようです。
第三音更川橋梁は昭和11年竣工。全長71mで、中央の32m径間は北海道のアーチ橋で最も大きなものだそうです。昨年11月まで補修工事が行われており、その結果まるで現役当時のような美しい姿を取り戻しました。
黒石平駅は昭和31年開業の棒線駅で、国道から階段を下ったところにホームがありました。電力所前仮乗降場が開業してからは糠平方面行の列車のみ停車していました。ホームは早い時期に撤去されて長らく階段だけが残っていましたが、国道の付け替えによって駅跡は新道の用地に。結果的に旧道時代よりも階段が観察しやすくなりましたが、撤去されたりしないか心配なところです。
山を下って上士幌を通り過ぎ、士幌へ。河東郡士幌町の玄関口だった駅で、大正14年12月開業時に建てられた木造駅舎が保存されています。内部は資料展示室になっていますが、見学には役場への連絡が必要なので外部の見学だけに留めました。相対式ホームも残っていて貨車が屋根付きで保存されています。
帯広まで南下して芽室方面へ向かう途中、帯広を中心に展開するカレー専門店「インデアン」の芽室店で昼食。北海道は日本で一番カレーが美味しい都道府県かもしれないですね。
芽室駅で北の大地の入場券を購入し、ガソリンを入れてからめむろ新嵐山スカイパーク展望台へ。雄大な十勝平野を一望できる展望台です。平野を取り囲む大雪や日高の山々にはまだ雪が残っています。
十勝清水駅で北の大地の入場券を購入するついでに駅近くの建物を撮影。レトロな雰囲気の現役の印刷所です。
十勝清水からは日勝峠を越えていきます。次に十勝に来るのはいつになるでしょうか。
日勝峠は狩勝に勝るとも劣らない険しい峠で、サミットを越えて日高に入っても延々と無人地帯が続きます。下っていく道路脇に靴が一足揃えておいてあるのを見てゾッとしました。こんなところに何故靴を置いていったのかと思いましたが、そもそもこんなところまでどうやって来たのでしょうか。
だいぶ下って来たところで道沿いに現れた廃墟を撮影。ドライブインの廃墟かと思いましたが、ちょっとしたテーマパークだったのかもしれません。
日勝峠の日高側は行政上は沙流郡日高町。海沿いの日高門別と同じ自治体ですが、平成の大合併で門別町と日高町が合併したことによるもので、飛び地でかなり離れています。飛び地で遠隔地と合併したところで効率悪くなるだけなんじゃないかと思いますが、どういう意図で合併したのでしょうか。
旧日高町の中心を通り過ぎて夕張市に入り、石勝線 楓信号場へ。昭和56年の石勝線開業時に楓駅として開業し、当初は6往復の普通列車が折り返していましたが、減便に減便を重ねて平成13年以降は日曜運休の一往復しか停車していませんでした。平成16年3月ダイヤ改正で旅客営業を廃止して信号場化されました。手前の折り返し線の左手にホームと駅舎がありましたが、信号場化後に撤去されています。
駅前には団地がありますが、今では人もあまり住んでいない様子。すぐ前を国道が通っているので車さえあればそこまで不便ではないのかもしれません。
新夕張駅へ。窓口営業終了前ギリギリで北の大地の入場券を購入することができました。夕張支線の廃止後は夕張市街への玄関口となったわけですが、夕張支線廃止の見返りに特急を全列車停車にしてもいいのではないかと思います。
続いて川端駅裏手のパークゴルフ場跡へ。スハフ44が2両、自然に還りつつあります。閉業当初は引き取り手を探していましたが、結局運送費がネックになったようで放置状態が続いています。
追分駅、道の駅あびらと寄り道してからまだまだ車の返却まで時間があるので支笏湖へ。湖畔のホテル街の一角にある支笏湖ユースホステルは、美幌ユースホステルと同じく田上義也の作品。支笏小学校の旧校舎を利用して昭和30年に開業した日本最古のユースホステルで、現存する建物は昭和35年と昭和57年に建てられたものです。今年3月31日限りで閉館しましたが、釧路に本社を置くホテル大手、鶴雅が活動拠点として買収しました。建物の再利用や建て替え等は未定とのことです。
最後に支笏湖畔で沈む夕日を眺めました。太陽はあっという間に恵庭岳に隠れてしまい、千歳市街地に着く頃にはだいぶ暗くなっていました。
車を返却し、21:00発SKY730便で離道。22:11に羽田着陸。羽田空港からは22:42発特急久里浜行き2261H(603-7)、京急蒲田22:57発特急泉岳寺行き2281H(1182)、品川23:12発山手線外回り2223G(モハE234-140)と乗り継いで帰宅しました。